世界規模での魔族の侵攻
ラジオを朗が聞いていると、二十年前から知っていて、十数年前に集中的に使っていた懐かしい岩塩入りの入浴剤の名前を耳にした。
「クナイプ」である。当時、朗の家は母親の消費者金融への借金が判明し、それも数百万単位であったことが判り、結構、親戚を初めとして、家族に動揺と緊張が走った。
朗は、原チャリを飛ばして、少し離れたドラッグ・ストアまで、「クナイプ」を買いに行ったものである。
当時、クナイプはまだあまりマスコミなどには知られておらず、ではどうして朗がクナイプを知っていたかと言うと、東京の南大泉に住んでいた頃、駅前の薬店でたまたま目にして知ったのである。二十年くらい前のことである。
クナイプは父に特に評判がよく、毎日、神経が借金問題で痛め付けられていた父にとって、朗の気持ちと共にクナイプの効果は確かに届いていたように思う。
母には、「きき湯」という入浴剤、母はクナイプが苦手と言うこともあり、きき湯をよく買い求めていた。
入浴剤をめぐる苦々しい話である。
この時、朗は感じた。自分の早稲田大学時代の学費って精神病で一年休学した分、結構、親の負担になっていたかもしれないなと感じ、少しため息が出た。
近代的自我の崩壊、これは精神科の医師も診察中に認めていることだが、朗がかかった症状のことだが、だからこそ、現実が非現実化し、非現実が現実化した、その瞬間、朗は「それは現実か」という「声」をはっきりと聴いた。その瞬間にである。
朗は簡易ベットの上で、飛び起き、何事か喋り出す。
大学職員が寄ってくる。当然であろう。心配してのことである。朗は、「来るなぁー」と力一杯言って手で職員を振り払う。
何の事はない、囚われのない精神を持つ精神病で、歴史から全く遊離した教養人、素で良い人に生まれ変わっただけなのだが、世間に較べて、「言葉の光」が強すぎた私は当時のインターネットの社会的な登場、それはかなり鮮烈なものであり、恐らく社会的に見て「現実」と折り合えないと判断されたのだろう。それから今に至るまで、「近代」に閉じ込めるために、薬を飲まされ続けなければならず、地元の精神科に通院、薬を服薬しなければならないと言う苦しみに朗はこの日、この小説を書いて、自分の歴史を振り返るまで、精神的に振り回され苦しまされることになっていたのである。
「我、一身の自由を誇るなり」。
自由になった朗は、苦労して早稲田大学を卒業したあと、マスコミへの就職戦線に怖じ気づいて、当時、バブル経済が弾けて、就職は非常に悪くて「就職氷河期」で、熊本佐久木病院に勤めることになるのだが、そこで、癌などにより、末期患者として入院している人たちを見る。そう言う患者さんが集められている病棟に新人研修で出向いた朗は、「病魔」に取りつかれた人々が、懸命にナースコールを押し、それにも関わらず、只でさえ、マルクス主義による教育の失敗による人手不足で過酷な労働を強いられ、脚をもつれかけさせ大急ぎで患者のコールに応じる現場看護師の懸命な対応を見る。
病院から給料をもらわなければ、もらっていなければ、朗はこんなきつい目に遭う前にその場にいることに対して、拒否の言葉を発していただろう。と言うか、その場に、仕事としての研修先に居合わせることはなかったろう。
毎日、業務がかなりタイトに集中し、何とかこなすのが精一杯、走り回る毎日が続いた。
投薬と強制入院、三回の集中的な生活指導を含む精神病院への弓削病院への「入院」で、もうそろそろ、明かすが、一度目、今から12年前、たぶん意識下の自転車「ジェーミス」との「何か」を護る異次元の戦い、『かえるくん、東京を救う』の熊本県の自転車版。
二回目、7年前、アジアをめぐる日朝危機、日本が絶滅する戦争を主に音楽で防いだ結果、本人、朗は退院後ボロボロになり、四年間、音楽とタバコによる治療が必要になった。
三回目、現在。魔族による「神魔大戦」に古書店、賀楢書店さんもろとも巻き込まれ、魔法のダメージを受け入院。入院中も主として煙草による戦闘の継続が行われ、現在も本、音楽、小説などにより戦闘中である。
大苦戦は続くが、人生の大逆境は続くが、何とかかんとか人生は前に進んでいる。前に進むにはエネルギー、純度の高い「愛」の他者からのエネルギーが要る。
我が身を愛の燦然と誇る宣言を再び発する。
「キリンさん、愛しています」
成らぬ状態の時に「何とかして見せる」と思える、のはけっこうすごいよ。
キリンの水亜さんの助けなくして、令和の新時代を切り開く熊本県の読者、佐藤亜紀先生の読者としての勤めは中々果たせそうにない。
二度繰り返すが、水亜さん、愛してます。
意思は、なんとか、運命を切り開くための強い意志力は自ら紡ぎ出される場合と、周囲の人間関係の力を借りて産み出される場合がある。
強い気持ちを全面に押し出す西洋思想、その場合は個人が主体となる、それと、気持ちを隠して、自分の目上の人や同位の者と和して協調して事を行う、東洋思想とに別れる。
本はパーソナルに一見見えるが、パソコンと違い、教養による「系統」、本の通り道が大体何種類かに明確に分類されていて、少なくとも、そう多岐に渡って、確かに脇道に沢山通り道は存在しているものの、主骨格はそんなにパターンは数多く存在しているわけではない、と朗は少し前まで見ていた。
ところが、令和二年、七月。大雨の続く日。
歴史は大きな転換期を迎えつつあり、朗はそれを強く強く感じ出す。「引き続いて続いていた日常」、日常に警鐘、守護天使が警鐘を朗の身に鳴らし出す。
朗が自分で自分に纏っていたそれまでの外套は、今や人類と魔族に分裂した世界、魔族と人類の戦いが事実として始まった世界で、あまりに時代に合わない個人の為だけにしかならない外套になりかけていた。
東洋思想を学ければならない。中国語を勉強した方が良いのは明かで、それは時代が、西洋の思想を邪な力が食い破り、魔族の、ザーハック、蛇王ザーハックの現存在の存在化を許してしまったからで、現在、アメリカを始め西洋諸国は事実上、国力の多くの分野で、蛇王ザーハックに人的なソフトパワーと物的なハードパワーを奪われており、このまま事態が推移すれば、アメリカは魔法裁判で、敗戦勢力として魔法陣営に裁かれることになるだろう。日本はどうか?一流新聞、もちろん朝日新聞のことだが、誌面で、「魔族」の一字すら載せられない文化発信力しかないのに、何がオピニオン紙か、国民に事実を真実を報じられないで、何がこの国一流のオピニオン紙だろう。
せめて、プライドを持って、最後の審判、第二次の審判を食い止めるため戦ってほしい。新聞記事を書くときにはプライドを持てと言いたい。言論人の矜持は何処に消えたか。
熊本、地元紙の熊本日日新聞の読者投稿コーナーのハイ!こちら編集局に魔族の悩みのことで、相談したら、「国と魔族の関与がある」と記者が「疑ってた」ぞ、朝日新聞よ。
作家の花村萬月氏が「ヒカリ」と言う小説を最近、出版しています。本の帯によると、ユタに触れつつ、魔物の存在も小説に書いています。
仙は自らの存在生命をかけ、この戦いを必死で戦ってきました。魔族が存在していた時代から、遥か昔から戦ってきました。
時代は、人が一人一人の人が作るものであり、歴史とは、蘇った魚に委ねられているのです。魚とは歴史の事を指し、ゆっくり泳ぐ魚も居れば、素早く泳ぐ魚もいる。
魚気分になって、精神科の薬を飲みながら、ご飯をケミカルに食べてみよう。
国家主義との批判があるかとは思う。しかし、左の雄、Macが市場原理主義、株式市場へのMac本体のサービス提供とコールセンターの人材の払底の前に沈んだ今、作家、特に若手の作家のファンタジー小説を書いている作家の中には、人間を見下した内容の小説を書き始めている者さえ近年出始めている。又は、ラノベの影響からか、剣と魔法の世界から脱却出来ていない者達がほとんど大多数であり、全体的な低調さ加減はいかんともし難い。
日本ファンタジーノベル大賞の受賞作品を読むことをお勧めしたい。
日本ファンタジーノベル賞は1989年に始められ、途中、主催者が変わったりしているが、休止を挟んで再開されている。
先ず、認識の変更を、作家達よ、このままでは世界は滅びます。
ドストエフスキー、朗も全部読んだわけではないが、五大長編全部を読まなければ、正直、勝負になら無いし、デカルトの「方法序説」を読まなければ、「そもそも」勝負すら出来ないままに魔族の意識の奴隷で終わるし、若い人だけに言っておくけど、家が少しは裕福でないと、そもそも「文化の価値」すら周囲に認めてもらえない状況に取り残されてしまうことだって、現在だって、現実として、厳しく物を言うなら「あなた方の視野外」にある。何で、食パンには、5枚切りと6枚切りがあるのだろう?1枚多いと得した気分になるのかなぁ?
本が好きな人が本を読んで、自由に人生の行く末を考える、と言うコースは昔、昭和や平成の初期の頃に終わっていた、事実上、終わっていたと取るべきである。
事実上の戦争、魔法戦争の勃発であり、ザッハークが首魁であることは間違いない。
自分が特殊な精神病でも、「世間」の人たちに精神障害者と嘲り蔑視されても、本を好きなら、読む気力があるなら、そこにこそ「作家への成り方」が確かに存在する。
戦争の中、戦時において、如何に魔族にダメージを与えられる小説を書くか、如何に皆を人類、人間のために味方につけさせさせられるような啓発できる「小説」を書いていく、書き続けていくことが出来るか。そこに未来がかかっている。