第9話
そこを通って私たちは外へ出、ふたたび空の星を仰いだ。
(ダンテ・アリギエリ『神曲』地獄篇 第三十四歌)
「ほはんほほいひいへふ(おだんごおいしいです)」
エーリカ・ルーデンドルフは串に刺さった三色団子を頬張りながら呟いた。串を皿におくと、そのまま左手で緑茶の入った湯飲みを口に運び、口の内容物を飲み込んだ。一息ついて空を見上げる。三月初旬の風にまだ少し寒さの残るが、陽気の感じられる東京の空の下、ヤマザクラはその緑の葉に混じりながら薄桃色の花を咲かせていた。
「お花見っておいしいですね」少女は言った。
「いや、花が主だよ」と言うのは和服を着た榊光一郎。そうたしなめつつも彼もコップをしっかりと手にしていた。
「まあまあ」と苦笑しながら曹凛華。彼女はゆったりとした漢服に身を包んでいた。「日本にことわざ無かった?『花より』何とかって」そう言って自分のコップの酒に浮かんだ花びらを取った「ところでこれ食べれる?」
エーリカがまた一つ団子を頬張る。と、いきなりむせかえる。団子が喉に詰まったらしく、顔を真っ赤にしながら胸を叩いている。「言わんこっちゃ無い」と光一郎が水を飲ませた。
「げほげほ……ふう」エーリカが落ち着く。
「小魯、食い意地を張りすぎるのはよくないわよ」と凛華は笑いながらたしなめる。
「すみません」
「ところで少佐、日本の昔の桜は一面に花を咲かしていたと聞いたけど、本当?」右手指で花びらを弄びながら尋ねる。
「ソメイヨシノですか」
「そう、そんな感じの名前だったかな」
「ソメイヨシノは五〇年前に絶滅したと聞いています」
「絶滅?」
「ええ、交配種だから子孫を自然に残せないのと、気温の上昇に適応できなかったのが原因だそうですが」
「気温の上昇ね」と凛華「二〇〇年前と比べると平均気温は二度上がって、海面は三メートル上昇したと言うけど」
「それでヴェネッチアやアムステルダムが沈みましたね」と光一郎は呟く。「ここ東京も沈みかけたといいます」
「それでこの階層構造を作った訳ね」と凛華は杯を傾けながら呟く。新東京の土台と成っている階層構造建築は二〇九三年の関東・東海大震災からの復興時に海面上昇と防災対策に作られたものであった。
中央には新宮城、その回りを七重の環状線が取り囲んでいる。震災で破壊されたいくつかの寺社仏閣の移動も行われたが、それは江戸総鎮守の社と合わせて、首都を取り囲む新たな結界を形成しているとも言われていた。
「それにしてもここに来るまであちこちで大きな建物が建てられているのが見えました」とエーリカ「建設ラッシュみたいです」
「来年の建国二九〇〇年式典のためですよ」
「二九〇〇年!?」
「ええ」
「すごいですね。そんなに続いてるんですか」
「伝説によれば初代神武帝の即位が紀元前六六〇年、今上帝が一三二代になります」
「ここに来る前に寄った明治神宮や昭和神宮もかつての帝を祀ったものとか」凜華が飲みながら尋ねてくる。
「まあそうですね。明治神宮は二〇世紀につくられましたが、昭和神宮が建立されたのは震災後です」
「海に浮かんでいる神社っていうのも面白いね」
昭和神宮は東京湾上にあり、宮城から見て南東、つまり風門の方角にある。この神社は、海からの運気を増幅することを目的として建立されたのだという噂もあった。
「広島にも有名なのがありましたよ。海面上昇の影響で高台に移動しましたが」
「ふうん」
「日本でそういう宗教建築が多く見られるのは何処ですか?」エーリカは尋ねた。
「そうだねえ」と光一郎は少し考える「僕の出身の西海道でも有名なのはあるよ。高千穂神社とか太宰府天満宮、住吉神社とか。でも一番多いのは京都かな。清水とか、八坂……聞いたこと無いかな? 何せ歴史が長いから。昔からの木造建築が多く残っているよ。日米戦争でも爆撃されなかったし」
「東京からならどのくらいかかるの?」凛華が聞く。
「リニアに乗って大阪で降りて在来線に乗り換えればすぐです。二時間とかかりませんよ」
「意外と近いね」彼女は少し考え込んだ。そして顔を上げて、言った「そうだ、京都行こうか」
「京都ですか」とエーリカははしゃぐ「古都でしたね」
「いつ行きますか?」
「明日」と凛華「早いほうがいいんじゃない。そう、温泉も行きたいし。近くになかったっけ」
「鞍馬温泉とかですね。でも、温泉なら西海道にある別府温泉がおすすめです。ぼくの故郷の近くですよ」
「じゃあ来週に九州へ行って……」
「急ぐことはないでしょう。閣下の休暇は確か五月末まででしょう」
「小榊は四月から日本軍に戻るわけでしょ」ぽつりと凛華は言う。
「え……そうですが」少し驚いたような反応。
「それまでに行っておきたくて、ね」
「帰るんですか」エーリカが寂しそうに見上げて言う。
「寂しくなるわね」
そして彼女は湾岸地区の高層ビル群に視線をやった。新東京宇宙港より離陸した高高度宇宙旅客機の出す飛行機雲が空を横切っていた。