第10話
太平洋上に遙かそびえ立つ「パシフィック・タワー」の建設が始まったのは二一世紀半ばであり、それはデブリや放射線、事故と格闘しつつ二十年の月日をかけて完成された。高度三万六千キロ、中間ステーションが一万キロの軌道に建設されたこの宇宙塔はロケットに代わる宇宙への人・物資移送手段として運用され始めた。
塔に設置された軌道エレベーターははじめ複線であったが、後に拡張され上下合わせて十二本のラインが引かれており、十五分おきの地上―中間点ステーション運搬車の発車を可能としていた。しかし運搬能力の限界とともにさらなる塔の建設が議論されるようになり、二二三〇年、アフリカタワーと南米タワーの建設が開始された。
パシフィック・タワーを麓から眺めると、まるで雲を突いて天まで届く柱が、倒れかかってくるような錯覚に襲われる。しかしその様なことはない。塔は立っているのではなく、静止軌道より吊されていると表現するのが適切である。遠心力と重力の釣り合いにより、塔は自立していられるのである。
軌道エレベーターは約一時間で地上と中間点ステーションを繋いでいる。そのケーブルは炭素繊維から作られており、全長三万六千キロの耐久を可能としていた。エレベーターは始め一Gで加速するが、途中より減速に転じ、そこからは地球の重力と慣性力が釣り合い束の間の無重力状態が訪れる。同時に、展望席からは眼下に青く輝く地球を見下ろすのである。
「わあ、綺麗です」とエーリカは車窓から遙か水平線上に見える北米大陸西海岸を見つめながら言った。「あそこがカリフォルニア半島ですね」
宇宙への進出における人類最大の象徴である軌道エレベーターから母星を眺めるとき、人はその景観と自然に感動しながら、偉業を成し遂げた人類の技術力に陶酔しているのである。不可能を可能とし、ついには太陽系の覇権を握るに至った地球人類の科学力の『偉大さ』を体感しているのである。エーリカも、一介の科学者志望の身として、水平線上を眺めながら、エレベーターを可能とした科学技術に思いを馳せざるを得なかった。
次第に視界は広がり水平線はさらに曲率を増し、ロッキー山脈、メキシコなども視界に入り始める。次第に重力が減衰していき、疑似無重力が訪れる。シートベルトの着用ランプが消えた。凛華は鞄よりジュースの入ったボトルを取り出した。
「こういうの面白いよ」と栓を開けると、その口から出た液体が球を作り浮かんだ。エーリカは促されるままそれを吸って飲んだ。凛華はそれを見て微笑んでいた。凛華が彼女をこのようにかわいがっていたのは凛華が曹家の一人娘であり、兄弟がいなかったためであろう。
そのような微笑ましい光景を光一郎は横から眺めていた。彼はエーリカを自分の妹のように思っていた。これが平和だ。一年前の戦争が嘘のようだ、果たして自分があの戦いを経験したのか、平和を享受していると自信がなくなる。
しかし自分は軍人であり、確かに一年前、水星で戦ったのである。その自覚を忘れるべけんや?
そう考えるが、しかし目の前の様子を見たとき、やはりそこから戦乱という言葉は見いだせず、両者が軍服であることを除けば、ただただ平和な日常を思い浮かべるのみである。
「光一郎さん、どうかしましたか?」
エーリカの言葉に彼は我に返る。「いや何でもないよ」
彼はまあいい、つらい意識からは目を背けたくなるものだろう、そう思ってそれ以上このことについては考えないようにした。
「間もなく本エレベーターは静止軌道ステーションに到着します。お忘れ物の無いようご注意下さい……」
スピーカーからアナウンスの声が聞こえてくる。
「そろそろ降りる準備をした方がいいですかね」
「そうね」凜華は答えて、残っていたジュースを飲み干すと、空いたボトルを鞄にしまった。
静止軌道ステーションの高度は三万六千キロ。静止軌道における公転周期は丁度二四時間、つまり地上より観測すればつねに同じ位置に見えるということである。
静止軌道ステーションに到着後、一行は月往還シャトルに搭乗、月面コペルニクス国際宇宙港に降り立つ。ここで光一郎は凛華とエーリカと別れることになる。二人がケプラー市の北にあるアリスタルコス研究所に向かうのに対し、彼はティコ市にある地球連邦宇宙艦隊司令部に赴かなくてはならない。彼が出頭を命じられた日本国航空宇宙軍第一艦隊の司令部はそこに存在するのである。
「しばらくは会えなくなりそうだけど、元気にしていてね」コペルニクス市駅のリニアモーターカーのプラットホームに、凛華とエーリカは彼を見送りに来ていた。ティコへのリニアモーターカーは約二〇分おきに発車しており、次の便は五分後であった。
「提督こそお元気で。お世話になりました」光一郎は深々と頭を下げる。
「せめてものはなむけに」凛華は護身符と書かれた小さな袋を手渡した。「私の国のお守り。道教のだけど。日本人は多神教徒だから構わないよね」
彼は礼を述べ、二人に懇ろに別れを告げる。
「手紙書いてくださいね」とエーリカ。
「もちろん、落ち着いたらすぐアリスタルコス宛に送りますよ」
「さあ、もうすぐ列車が出るよ」と凛華は時計を見ながら言う。
「ちょっと待ってください」とエーリカは言うと、彼をそばに招き寄せ、ハグして左の頬にキスをした。光一郎は少し赤くなった。それを見ていた凛華は微笑み、彼と最期に握手を交わすと、光一郎は列車に乗り込んだ。
彼は扉のところで振り返り軽く敬礼すると、車内に入っていった。座席に座るとエーリカがプラットホームから手を振っていた。彼も返礼した。発車のサイレンが鳴った。扉が閉まり、プラットホームが後方に遠ざかる。視界から消える最後の瞬間まで彼女は手を振っていた。
列車はトンネルに入り、闇に包まれた。彼は先ほど渡された護身符を見た。〈臨兵闘者皆陣列在前〉の九字が刻まれてあった。道教でも使うのかと思ってしばらく見つめたが、時差ボケと疲れの影響で目がちかちかし始め、頭もぼうっとし始めたので、まず仮眠を取ることとした。