広瀬と共に出かける
朝、流しで歯を磨く。歯を磨く習慣は都にいたときから続いているものだ。都にいた時と違うのは「水道」の「蛇口」をひねっただけで水があふれ出すということと。歯を磨くための粉があるということ、房楊枝が使いやすい形をしているということ。東京は便利な道具がありふれているから、使用人の数が少なくても生活できるのだ。鈴木家もそこそこ裕福そうなのに使用人がいないのはそのためだろう。
「おはようございます」と広瀬がぬっと横に立った。アカコは反射的に肩をびくつかせさり気なく距離を保つ。若い男と一つ屋根の下に暮らすというのはやはり落ち着かない。
「アカコさん、歯磨き粉を僕にも使わせてください」
人懐こい声の広瀬に頼まれた。アカコは無言で歯磨き粉を渡す。丸くて平たい手のひらに乗るくらいの赤と青の入れ物。缶という。蓋にはたてがみの豊かな猫のような獣が描かれている。
この缶に入っている白い硬めの練り物状のものを房楊枝につけて歯を磨くと口の中がすっきりする。ついでに頭の中もすっきりするような気がする。
面白いのは缶の中身はペースト状なのに皆「歯磨き粉」と呼ぶのだ。少し前はは粉で歯を磨くのが主流だったらしく、その名残りなのだそうだ。
東京にあるものの中で気に入ったものを三つあげるとすれば、本、ふとん、そして歯磨き粉だ。
「アカコさん、今日は何か予定は?よかったら僕と出かけませんか?」
思わぬ誘いだった。広瀬と二人で出かけるなど気が進まないが、これは好機である。そう、広瀬の師匠桐生がもっているという「写本」を奪う好機だ。
「ええ、出かけましょう。広瀬さんの通っている大学に行ってみたいわ。どんなところで研究とやらをなさっているか見てみたいの」
アカコは媚を売るような目で広瀬を見た。草紙奪取計画、実行開始。