東京日記
アカコは自称母・恒子とバスに揺られていた。精神科での用が終わり帰る途中なのだ。精神科は鈴木家から少し遠い場所にあり、歩いて行ける距離ではない。
バスは東京の者たちの叡智が詰まった乗り物だ。一度にたくさんの人を運べるし、牛が必要ない。人が操る。だから、暴走する心配もないのだ。
アカコはバスに乗るときはいつも鼻と口をハンカチーフで押さえる。バスは臭い。油と人の汗が混ざったような独特のにおいがする。都で生まれ育ったアカコにはバスがとてつもなく臭く感じるのだが、恒子は平気な顔をしている。
「アカコさん、お医者様も仰ってたんだけど、お花を育てるとか絵を描いたりとか日記をつけてみてはどう?気が晴れるわよ」
「わかりました。その中では日記が向いていると思います」
この日から、アカコはに日記をつけることになった。恒子はアカコのために帳面を用意してくれた。ある程度書き溜めたら「東京日記」なんて題をつけてみよう。
◇◇◇◇
翌日、鈴木閼伽子の友人を名乗る若い女の子たちが三人訪ねてきた。彼女たちは皆おそろいの服を着ていた。セーラー服というらしい。
細かいヒダのある袴のようなものをはいている。「スカート」というものだ。
「病気がちだと聞いてお見舞いに来たのよ」
「いつまで休学にする予定?」
「そういえば、新しい先生が来たのよ」
「若い男の先生で――」
「音楽の時間にね」
――彼女たちはよくしゃべる。ちょっとついていけない。
「あの、まずは自己紹介をしてくださらない?」
鈴木閼伽子にとっては友人でも、アカコにとっては初めて会う人たちなのだ。
「閼伽子さん、何を言ってるの?」
「自己紹介? ……私たちの名前を忘れたの?」
友人たち三人は怪訝な顔をしている。一番左のおさげ髪の少女が自分の鼻のあたりを指さしながら
「私の名は……?」
と問う。
「わからないわ、なんとお呼びしたらいいの?」
「……閼伽子さん?……いつもみたいに、“よっちゃん”て呼んで……」
「“よっちゃん”さんね。私はアカコよ」
「……」
“よっちゃん”をふくむ三人は奇妙な生き物でも見るかのような目をしている。
「……噂は本当だったの?……閼伽子さんはおかしくなっちゃったって……」
「なんだか、人も変わってしまったような気がするわ。閼伽子さんはもっと優しい雰囲気の人よ」
……それではまるでアカコが優しくない雰囲気の人ではないか。とアカコは少しだけイラつく。
だいたい、世が世なら、この三人はアカコと顔を合わせて話せるような身分ではなかったのではないか。久我家の娘であるアカコと対等に話していること自体がおかしいのだ――。
ここは都ではなく東京であるから、アカコの理論は間違ったものである。しかし、東京に転生して一か月半ほどのアカコはまだ感覚的には理解できていなかった。
そのようなアカコの意識は口に出さずとも友人たちにはなんとなく伝わっていたようで、そそくさと帰って行った。
そして、二度と「お見舞い」には来なくなった。
この状況を見て、恒子と弥太郎はますます頭を抱えたのだ。