吾妹ノ戀セシ君、吾戀仇
鏡子に会うのは何年ぶりだろうか。彼女は親戚の紹介でお見合いをし終戦の翌年に三重県の松阪市に嫁いで行った。息子も生まれ、もうすぐ五歳になるという。
今日はその息子を実家の母に預けて二条さん(鈴木閼伽子)に会いに来てくれたのだ。
「お久しぶりね」
女学校時代に戻ったような気分。鏡子は母になってもあの頃と変わらない。二人は少女のように再会の喜びにはしゃいだ。
「さっきまでお仕事だったのね。 閼伽子さん、立派な出版社にお勤めだもの」
鏡子は出されたコーヒーを愛おしそうに眺めつつ言う。
「結婚してからこんなお店でゆっくりコーヒーを飲むなんて初めてかもしれないわ」
家事に育児に大変なのだろう。加えて夫の実家の田畑の手伝いもしているという。
「閼伽子さんは結婚をしてみる気はないの? 」
同じような質問はここ数年色んな人に投げかけられた。二条さんの答えはいつも決まっている。
「いい男がいないんだもの」
みんな、平々凡々な男に見えてしまう。二条さんの理想の男性は、「広瀬 彬」という男。彼以上にいい男にいまだに出会ったことがない。
その広瀬は三重県庁の公報では戦死したことになっている。だが、遺骨は見つかっていない。そのためか亡くなったという実感がなく、ある日「やあ」なんて言って帰ってくるような気がするのだ。
「……やっぱり、広瀬さんなのね」
鏡子は少し気まずそうな顔をした。
「実はね、広瀬さんのお兄さんに頼まれていることがあるの」
「広瀬さんのお兄さん? 」
広瀬の実家は三重県の宇治山田市だ。隣の市に住む鏡子と広瀬の兄は何か縁があるのだろうか。
「私の主人の妹が最近結婚したのよ。そのお婿さんが広瀬さんの幼馴染だった人なの。
広瀬さん、本をたくさん持っていらしたんですってね。それで、形見分けじゃないけど、広瀬さんの蔵書を欲しい人に配っていたそうよ。広瀬さんのお友達に 」
ああ、そういえば広瀬の部屋には本がたくさん積まれていたっけ。懐かしい記憶だ。二条さんの脳裏には一瞬、空襲で焼けてしまう前の実家の在りし日が映し出された。
「義妹のお婿さんも、貰ったのよ」
と言って、鏡子は隣の座席に置いていた風呂敷包みを持ち上げた。そして風呂敷を解いて出てきたものは『増鏡詳解』と表紙に書いてある本だった。見覚えがある。いつだったか、その本を広瀬に貸してもらったことがある。
「これを貰って中を見たら、広瀬さんのメモが挟まっていたそうよ」
鏡子が表紙をめくると一片の紙が挟まっていた。何か書いてある。
「広瀬さんには女のきょうだいも女のいとこもいないそうよ。だから、きっと、あなたのことよ。
お兄さんにそのことを話したら、あなたに渡してほしいとお願いされたの」
その一片の紙を鏡子は二条さんにそっと渡す。受け取ると二条さんはその鉛筆書きの文字を見、声が出なくなった。
《吾妹ノ戀セシ君、吾戀仇》
と題された、詩。
“吾妹”が恋をしていた相手、後深草院への嫉妬をユーモアをまじえつつ詠い、“吾妹”への愛情が垣間見える可愛らしい詩だった。
二条さんは少女の頃、なぜか後深草院のことが気になっていた。
何百年も過去の帝。惹かれた理由は二条さんにもわからない。恋に恋する年頃の少女によくある現象だったのだろう。
遠い昔のお伽話のような、実体のない恋。
鏡子がこちらをじっと見ている。何か返事をしなければいけないと思ったが、今、声を出したら涙があふれてしまう。きちんと話せる自信がない。
(広瀬さん、馬鹿ね。私が恋をしていたのは、あなただったのよ)
広瀬が久居の部隊に入営してから、二度ハガキが届いた。元気にやってます、といったあたりさわりのないような内容だったけれど大事にしていた。でも空襲で焼けてしまい、二条さんは逃げる時に忘れてしまったことを後悔していた。広瀬と暮らした日々をつづっていた「東京日記」もその時一緒に焼けてしまった。
だが、今、二条さんの手の中に広瀬の直筆の詩がある。それは、ちょっとした奇跡のような気がした。
広瀬の詩を全文紹介するのは、やめておく。
晒してしまうようで、申し訳ないから。
参考文献
ウィキペディアです。喫茶店の歴史を知りたくてウィキペディアを参考にしました。
それと
藤原書店『骨のうたう 〝芸術の子〟竹内浩三』(小林察著)を参考にしました。お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、広瀬のモデルは竹内浩三さんです。共通点は背が高いところと宇治山田市出身だということだけですが。
次回が最終話です。お付き合いいただけたら嬉しいです。