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昭和二十六年、某出版社の二条さん

 ツーピースの濃紺のスーツを着こなし、かかとの高い靴をカツカツと鳴らしながら都内某所の出版社の廊下を歩く女。職場のドアを開けるとそこは煙草の煙が充満していた。煙草をたしなまない彼女にとって不快な霞としか思えないのだが、そんなことで文句を言っていては女一人が勤めていくことはできない。

 平気です。という顔をして今日も働いている。

 彼女の名は鈴木閼伽子。

 通称「二条さん」。


 なぜ「二条さん」と呼ばれているかというと、少し話が長くなる。

 彼女は「とはずがたり」という社内の誰一人として読んだことのない古典文学に執着しており、編集長にある提案をしたのである。


「これをお読みになってくださいませんか」


編集長のデスクになかば強引に『桂宮本叢書十五巻』を献上した。宮内庁書陵部が編纂したものをY社が昨年出版したものである。


「なんだ、これは」


編集長はめんどくさそうにその本を見る。実はこの女のことがちょっぴり苦手だ。最初はお茶くみや掃除など雑用のアルバイトだったのに、女とは思えない行動力を活かして社長夫人及び社長令嬢に取り入りいつの間にか社員に成り上がった生意気な女。



「その中に収録されている〝とはずがたり〟を読んでいただけませんか。源氏物語や蜻蛉日記に匹敵する傑作です。

それの現代語訳を我が社で出しませんか?新進気鋭の女流作家、吉屋百合子にやらせたいのです」



「聞いたことないな。と、わ、ず、が、た、り? 作者は誰なんだ? 紫式部や清少納言の親戚か? 」


「後深草院二条です」


「知らねえな。そんな知名度のない歴史上の人物の埃臭いもの、売れるわけねえだろ。

だいたい、吉屋百合子は大事な時期なんだ。次の作品で芥海賞の候補になれるかってとこなんだぞ」



「大事な時期だからこそ、やらせたいのです。彼女の作風に合うと思いますし、今後の執筆活動にも好い影響を与えるはずです。現代語訳は私が手伝います。古典は得意なんですの。私が訳したものに彼女の独特の感性でエッセンスを加えたいんです」



「やっぱりだめだ、吉屋百合子は新作にとりかかっている」


「では、新作がある程度進んだら、私から彼女に直接話してもかまいませんか?」


「……好きにしろ」


編集長はめんどうになって投げ出した。この女はいったん決めたらなかなか引き下がらないのだ。


「“とはずがたり”じゃないとだめなのか? 大人気の源氏物語の方がアンパイだろ。

“あの与謝野晶子が訳した源氏物語に吉屋百合子も挑戦”ていう惹句の方が売れそうじゃないか。何かこだわりがあるのか? 」


「……自分でもよくわからないのです。なんだか後深草院二条が他人には思えないのですよ。私の前世は後深草院二条なのではないかと思うのです」


憂いをおびた目で『桂宮本叢書第十五巻』を見つめる鈴木閼伽子。ダメだ。自分の世界に入り込んでいる。前からちょっと思い込みの激しいところがあるなと思っていたが、ここまでだったとは。

 編集長は呆れて嘆息し煙草に火を点けた。



この話は尾ひれをつけて社内をかけまわった。「鈴木閼伽子は後深草院二条の生まれ変わりだと思い込み、自分の作品を世に出せと編集長を脅しつけた」という話が信憑性をもって定着したのだ。「二条さん」というあだ名はそういうわけである。


 この二条さん、婚期を逃している年頃なのだが本人は全くその気がない。なんでも出征した婚約者をいまだに待ち続けているという噂だが、社員は皆「気が強いから貰い手がないんだろ」と思い半信半疑なのである。






◇◇◇◇


 夕方、二条さんはいつもより仕事を早く終わらせた。大切な人と紀尾井町のカフェで待ち合わせしているのである。

 三重県に嫁いだ女学校時代の親友、鏡子が東京に里帰り中なのだ。明日、三重県に戻るのでその前に一緒にお茶でもしましょうということで会う約束をしているのだ。


 久しぶりの再会に二条さんはいそいそと退社した。

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