武運長久
広瀬は三号車に入り混み合った車内をなるべく人を押さないように進む。みんな席を目指し、早い人はもう荷物を網棚に置いている。広瀬の前にはおそらく夫婦であろう初老の男性と女性、後ろには背の低い眼鏡の年老いた女性。なんだか背の高い広瀬に守られながら進んでいるみたいだ。ホームに取り残されたアカコはじっと目で追う。
怒ったまま行ってしまうの?私に何か言わせて。
窓際に座ってほしい。何も聞いてもらえなくてもせめて最後に横顔を見せて頂戴。
でも、あなたは優しいからきっと老婦人に席を譲ってしまうのよ。ほら、やっぱりね。
広瀬は老婦人と初老の夫婦に席を譲った。そして最後に残った席も後から来た中年の男性に譲ってしまった。もう窓際の席は残っていない。座る場所に困った広瀬は四号車に移動するつもりなのか後方に向かおうとしている。アカコが見たところ、四号車の窓際の席も全部埋まっていた。
「待って! 」
アカコは列車にかけより、窓を叩いた。
初老の夫婦も老婦人も中年男性も突如目の前に現れた小娘に驚いてる。当のアカコの視線は広瀬の後ろ姿を捉えようと頑張っているので彼らの驚愕など知る由もない。頑張りすぎてほっぺたが窓ガラスに密着してしまっている。
「広瀬さん、待ってよ! 」
ほっぺを窓に押し当てたままガラスを叩く。事情を察した老婦人が窓を開けてくれた。
「お兄さん! そこのお兄さん! 御嬢さんが呼んでるよ! 」
中年男性もアカコのために声を出してくれた。気づいた広瀬が窓際にやってくる。もう怒っていない。半笑いになっている。
「なんですか、しつこいですよ」
何か言わないと。言いたいことは山ほどあるのにすぐに出てこない。何を言えばいいの。
もう婚約者ではない、片恋の女。「待ってます」なんて言えない。
広瀬は笑っている。もうすぐ戦争に征くのに。なんでもない、広瀬の日常のうちに戦争があるみたいに。どうして笑っているの。広瀬が暢気に笑うから、アカコはなんて言えばいいのか増々わからなくなる。
もしかして、わかっていたのだろうか。軍隊に行く運命を。ずっとずっと前から。鈴木家に来るずっと前から。
泣いているアカコを慰めているときも、京都旅行のときも、みんなで食事をしているときも、広瀬の心の端の方にはいつも出征という言葉が潜んでいたのではないか。なぜなら、広瀬は男に生まれたから。
東京は夜も明るい華やかなところなのに、この国はずっと戦争をしていて若い男たちが死んでいっている。男に生まれた広瀬はその現実をわかっていたのだ。
戦争に征かない女が戦争に征く男に何を言えばいいの。
早くしないと、出発してしまう。言わなきゃ。
「武運長久を! 」
出てきた言葉は定型的な、あまりにも定型的な。
でも、これが一番ふさわしい。この四文字にアカコの想いは込められた。
弾があなたを避けますように。敵に見つかりませんように。
あなたの命が長く久しくあらんことを。
神様、どうかお守りください。
列車が動き出す。広瀬は軽く手をふった。笑顔だ。
「ちゃんとお父さんに迎えに来てもらうんですよ! 」
そう言い残して広瀬は宇治山田へと発った。
悩みました。
また書き直すと思います。




