帰る
「出征……?」
出征。若い男によくある話だ。広瀬は健康な男子なのだから、出征してもおかしくない。でも……
「大学は?」
「はは、繰り上げ卒業ですよ」
もう広瀬は学生ではないのだ。学生のうちは兵役を免除されるが、卒業をさせられてしまってはもう――。
「てっきり君は大学院に進むと思っていたのだがね」
広瀬のあとを追うように弥太郎が玄関まで出てきた。見送りのためだろう。
「自分は文系の学徒ですから、どの道征かねばならないでしょう」
「ああ、そうか……」
弥太郎は静かに納得している。でも、アカコはなんだか腑に落ちない。
文系だからなんだというの。文系は国にいらないというの?
広瀬さん、文系があるから“とはずがたり”も解読できるんでしょう?
「では、僕はこれで」
広瀬が履物に足を入れる。もう行ってしまうのだ。
「夕飯を食べて行ってくれたらいいのだが……」
弥太郎は名残惜しそうに広瀬を見る。息子のいない彼にとって広瀬は特別な存在になっていたのかもしれない。
「いえ、お気持ちだけ。この後、大学の先生にも挨拶をしに行かねばならないので」
「出発は今夜かい?」
「ええ、二十二時台の列車で宇治山田に帰ります」
広瀬の実家は三重県の宇治山田にある。伊勢神宮のすぐ近くだという。入営の前にいったん実家に帰るのだろう。東京から宇治山田は遠い。
「いつか、お伊勢参りしたいね。君の実家にも御挨拶に伺いたい」
「ええ、僕が復員したらぜひご案内しましょう」
復員。明るく断言する広瀬。不安を見せない様子が「出征」という現実を薄絹で包みこみ、アカコの感覚を鈍らせる。
何事もなかったようにヒョイッと帰ってくるのではないか。アカコが今まで通り日常をやり過ごしているうちに戦争が終わって、広瀬は買い物から帰ってくるような感じで「ああ、どうも」なんて言って復員するのではないか。
「アカコさん、お元気で」
広瀬はアカコと向き合い、あいかわらず優しい笑顔を見せる。奥から恒子も慌てて出てきて「もう行ってしまうの?」と言っている。その声が少し涙声になっているのにアカコは気づかないふりをした。
「武運長久を」
庭先で見送るとき、恒子が近頃よく目にするお決まりの言葉を口にした。挨拶みたいなものだ。もっと気の利いたことを言えばいいのにとアカコは密かに思った。
日はもう暮れていて、広瀬の後ろ姿はすぐに闇にまぎれてしまった。冬の夕闇の寒さが残されたアカコ達に寄り添う。
「アカコさん、もっとお話しなくてよかったの?」
とうとう涙を我慢できなくなった恒子が泣きながらアカコに聞く。
「何を話せばいいかわからないわ。もういいのよ」
きっと広瀬は帰ってくるのだから。かしこまって話でもしたら広瀬が本当に死んでしまうみたいで嫌ではないか。
これでいい。アカコは心の中で何度も自分に言い聞かせた。
夕飯時、弥太郎は気まずそうな顔をして話し出した。
「広瀬君に婚約解消を言い出されてね。婚約の事はずっと保留にしてあったのだが、出征するにあたって正式に決着をつけたいと。自分は明日をも知れぬ身だからと、婚約の話はなかったことにしてくれと」
アカコが帰宅する直前、広瀬と弥太郎はそんな話をしていたのか。
広瀬が鈴木家を出て行ったものの、婚約の話は完全になくなったわけではなく鈴木夫妻の計らいで「保留」という形になっていたという。
しかし、出征することになった広瀬は「婚約破棄」という選択をし鈴木夫妻に伝えるためやってきたのだという。
参考文献
講談社『昭和二万日の全記録 第6巻 太平洋戦争 昭和16年19年』
藤原書店『骨のうたう 〝芸術の子〟竹内浩三』小林察
中央公論社『ぼくもいくさに征くのだけれど―竹内浩三の詩と死』稲泉連