昭和十五年の十月
写本を返してから数ヶ月、季節はすっかり秋になっていた。
世間では「紀元二千六百年記念」の祝賀ムード一色で、アカコもその雰囲気につられて明るい心持ちで日々を過ごしていた。
アカコがご機嫌な理由はそれだけではなかった。
先月、学界向けの雑誌にて“とはずがたり”を紹介する桐生の記事が掲載されたのだ。広瀬によると、国文学者たちの間で“とはずがたり”の話題でもちきりなんだとか。
自分でも意外なことに恥ずかしい気持ちよりも誇らしい気持ちの方が勝っていた。
「“とはずがたり”を書いたのは私なのー! 」
と、そこらじゅうに言ってまわりたい。誰も信じないだろうけど。
すっかり元気になった娘の様子を見て、鈴木夫妻は「復学」の話を持ち出した。夕食を四人で囲んでいるときのことだった。
「いつまでも休んでいるわけにはいかないだろう。来月から通ったらどうだい」
学校というところ、同じ年頃の女の子たちが集まっていろんなことを学ぶ場だという。
「面白そう! 」
アカコは行ってみたいと思った。東京でも同性の友人ができたら、なんて素敵なことだろう。
「勉強についてはみんなから遅れをとってしまっている。わからないことがあったら広瀬君に教えてもらったらどうだい? 」
「僕でよかったら、いつでも」
「本当に広瀬さんは頼りになるわね。アカコさんにはもったいないくらい良いお婿さんだわ」
……今、恒子がおかしなことを言った。
「お婿さん? 」
お婿さんと言った。誰がお婿さん? 広瀬がお婿さん?
アカコの怪訝な表情を見て、弥太郎が慌てる。
「いや、アカコ。お前には言っていなかったが、ゆくゆくは広瀬君に婿養子になってもらうという話になっているんだ」
「は?」
そんな話、当事者であるアカコは知らない。何を勝手に決めているのだ。
「広瀬君の御両親とも話はついている。何も問題はない」
いや、問題あるだろ。
「私以外は、みんなその話知ってたの? 」
広瀬をにらむ。腹立たしいことに“きょとん顔”である。
「アカコさん、聞いていなかったんですか? 」
広瀬はそのつもりで鈴木家にやってきたのだ。鈴木夫妻に見せた献身的な姿は良き婿そのものだったのだ。
だまされた……。
「最初から、私の事、そんなふうに見てたの? 」
アカコにとって広瀬は頼れる兄のような存在になっていた。東京で鈴木閼伽子として生きていくのに不安がなくなったのも広瀬のおかげだ。
それはあくまで「兄」であって「夫」ではない。
でも、広瀬にとってアカコは将来の「妻」だったのだ。
「アカコさん、お父さんのことを恨むのはよしてちょうだい。あなたのためを思ってしたことよ。
お見合いの席でいきなり顔を合わせるより、こうして若いうちから一緒に暮らして徐々に好き同士になって結婚した方が幸せでしょう? 」
恒子がアカコをなだめたが、それは火に油をそそぐ行為だった。アカコの怒りは沸点に達してしまった。
「一緒に住まわせたら勝手に番いになると思ったわけ? あさましい! 」
アカコは食事をやめて自分の部屋に閉じこもった。鈴木家の誰とも顔を合わせたくない。布団にくるまってこのまま消えてしまいたかった。
参考文献
きょうせい『実録昭和史 激動の軌跡 2 戦火拡大・破局の時代』




