読めない文字
朝早くに平安神宮を参拝し岡崎の通りをブラブラしたあと、列車で大津に向かい、石山寺に参った。アカコは如意輪観音に「東京に転生させていただいたこと」を感謝し、父母と小泉殿の冥福を祈った。
不思議なことに、石山寺に参った後、鈴木の父のことを嫌う感情がなくなった。なんの違和感もなく「お父さん」と呼び、腕を組んで歩いたりもした。自分は最初からこの人の娘だったのではないかと思えた。
東京に戻った日の夜。アカコは下着入れを開け写本を取り出した。
明日、桐生先生に返すのだ。返す前にもう一度目を通しておきたい。そっと頁をめくる。
「……読めない」
そこにはミミズが踊っているような文字があった。桐生は図書寮で原本を忠実に模写したのだろう。古のくずし字そのままに。
京都旅行の前まではすらすら読めていたのに、どうしたことか。アカコは現代の活字に慣れすぎてしまったのか、くずし字が全く読めなくなっていたのだ。
「どうして?」
当たり前に読めていたものがどうしても読めなくなっている。私は記憶力がおかしくなってしまったのだろうか。
「広瀬さん広瀬さん」
アカコは広瀬の部屋にズカズカと入る。広瀬は旅の疲れか涅槃像の姿で居眠りをしていた。
「広瀬さん、起きて!」
「え、あ、寝てたのに……」
「広瀬さん! 私、読めないの! 」
アカコはかまわずたたき起こす。
「どうしてかしら? 急に読めなくなったの」
持ってきた写本を広瀬に渡す。広瀬はぱらぱらっとめくり、あくびまじりに
「いざ、今宵御方違へに…御幸なるべし…」
と読み上げた。
「え、なんで現代人の広瀬さんがスラスラ読めるのよ! 」
しかも、御所様と初めて枕を交わすという話(もちろん創作)のところを読まなくても!
「僕は国文学の学徒ですよ?……そういえば、アカコさん、東京に帰ってきてから関西の訛りがなくなっていますね」
「……え?……そういえば」
アカコは東京の言葉をわりと簡単に覚えたが、抑揚は上手く真似ることができず「都」の抑揚が抜けていなかったのだ。だが、気づけば今、自然と東京の抑揚になっている。
もしかしたら、石山寺に参った後からこんな話し方だったかしら。すっかり東京の人のようなしゃべりになっている。
「私、このまま昔のことを忘れていくのかもしれない」
参考文献
小学館『日本の古典をよむ 7』