鈴木家に下宿人広瀬がやってくる
「四月から、この家に下宿する広瀬君という人が来るよ。二階の空いている部屋を使ってもらう。」
自称父・鈴木弥太郎が言った。下宿?
「広瀬君は東京R大学の学生だ。将来有望な青年だ。」
青年?若い男がこの家に来るというのか?
「その広瀬とかいう男がこの家に住むのですか?」
自称父はうなずいた。
「お前の調子がおかしくなったから、うちでの下宿はやめてもらって他所に行ってもらおうかと広瀬君に聞いたんだが、急な話だから他の下宿先が見つからなくてね。」
アカコがここに来てからおよそ一か月、自称父母は親切な人たちでなんとかこの家で過ごすことができていた。そこへ見知らぬ男が入ってくるのだ。うまくやっていけるのだろうか。
不安そうな表情に気づいた自称父・弥太郎はあわてて付け加えた。
「広瀬君は本当に素晴らしい青年なんだよ。成績優秀で人柄もいい。三重県の醤油屋の三男坊でね。お前もきっと気に入るよ。」
それから三日ほどしてから、引っ越しの荷物と共に広瀬がやってきた。
「はじめまして、広瀬彬と申します。これからお世話になります。」
ハツラツとした青年の声だった。
アカコは初対面の若い男と顔を合わせるのは「はしたない」ことだと思い、ずっと下を向いていた。
「いやだわ、アカコさんたら照れてるのね」
自称母・恒子がとんちんかんなことを言って笑っている。
「アカコさん、お話は伺っております。これからよろしくお願いします。」
広瀬がアカコに向かって明るく声をかけた。仕方なく、チラッと目をやり会釈した。
人のよさそうな顔をした青年だった。美しいか美しくないかと問われたら、美しくない。
――アカコは都で見た美しい男の顔を思い出した。広瀬とは比べものにならないくらい
美しい顔だった。
父に連れられ、宮中に一度だけ上がったことがある。アカコが幼いころのことだ。
父雅忠は方々に頭を下げ、ゆくゆくはアカコを宮中にて仕えさせてほしいとお願いしていたことを覚えている。その時だ。美しい男を見たのは。
この世にこんなに美しい顔をした男がいるのかとアカコは見惚れた。
その人は、御所様、後深草院。
御所様はアカコには全く興味がないようで一瞥することもなく去ってしまった。
――私が美しい少女だったならば、御所様にお声がけしていただけたのだろうか?
この問いはずっとアカコの中にあった。
そして、もし自分が美しく生まれていたならと夢想して物語を書き、友人小泉殿に読ませてみたのだ。
その中ではアカコは赤子のころから御所様のお気に入りで、御所様はその成長を楽しみにしていた設定だ。源氏物語みたいに。
実際のアカコの母はピンピンしていたが、物語を盛り上げるために早くに亡くなった設定にした。その母は若いころ御所様の乳母であり御所様の初恋相手という設定も盛り込んだ。御所様は母の面影をアカコに見いだし、アカコの身体を望む――。という夢のような話を筆が赴くままに書き上げたのだ。
冷静に振り返ると恥ずかしくて耳まで赤くなるようなものを書いたものだ。でも、唯一の読者である小泉殿は面白いと喜んでくれた。
続きを書くと約束したのに、小泉殿に会えなくなった。
アカコは都での生活を思い出し気落ちしてしまったので、広瀬とろくに話もしないで自分の部屋に引き上げた。
「広瀬さん、アカコさんは最近落ち込むことが多くて。失礼な娘でごめんなさいね」
自称母・恒子が何やら広瀬に謝っている声が聞こえたが、知らない。