都は変わった
アカコと広瀬、鈴木夫妻は京都に来ていた。
特急燕に八時間半ほど揺られ、京都駅からハイヤーを走らせ東山の宿に着いた頃には十八時をまわっていた。
なぜ京都に来たかというと、アカコがそれを要求したからである。
「写本を返す前に生まれ故郷の京都に行きたい。それから石山寺にもお参りしたいの」
このワガママな娘を納得させ写本を取り返す方法を他に思いつかなかった広瀬は鈴木夫妻に頭を下げたのだった。二人きりで旅行するわけにもいかないし、京都までいくとなるとどうしても金がかかる。
「たまには家族旅行もいいじゃないか」
弥太郎と恒子は快諾したのである。そこには最近様子がおかしい娘の気分転換になることへの期待もあった。
まず京都を観光してそれから滋賀県にある石山寺だな。
広瀬は早々に計画をたて宿の手配を済ませた。行楽シーズンだから不安だったがなんとか予約がとれた。この広瀬の手際の良さに弥太郎は喜んでいた。「君は本当に好い青年だ」と。結果的に鈴木夫妻は喜んでいるのだからよしとしよう。
問題はさっきから暗い顔をしている肝心のアカコである。アカコのためにわざわざ京都に来たのに。
南北朝のことについて講義したあと、京都の歴史についても要点をまとめて教えた。
戦乱の時代を経て、都は東京に遷ったのだ。京都はあなたのいた都ではないのだ。時代は変わった。
遥か遠い昔の過去なのだ。
我々現代人はその遠い過去を知るには遺された文物に頼るほかない。
あなたの書いたという物語もそう。「とはずがたり」は当時のことを研究する重要な手がかりなのだ。
あなたの書いた「とはずがたり」が今日まで伝わっているということは奇跡的なことだ。
宮内省図書寮の片隅に眠っていた「とはずがたり」を桐生先生が見つけたのもまた奇跡的なこと。
研究して後世に伝えるべきだと思いませんか?
さあ、写本を返して下さい!
と熱く説得したのだが、アカコの返事は
「京都に連れてって」
だった。
早く返さないと桐生先生は警察に届け出ると言っているのに悠長なことだが、他に方法が思いつかなかった。彼女の両親に娘の犯罪行為を密告するのは気が引けたのだ。なるべくなら大事になる前に写本を返し、何事もなかったことにしたい。
そのアカコが京都駅に着いた時からずっと暗い表情をしている。
今もホテルの窓近くに腰かけたまま落ち込んでいる様子だ。手には「歓迎! 奉祝紀元二千六百年」と書かれたパンフレットを握りしめ、視線は窓の向こうの景色に注がれている。
もうすぐ日がどっぷりと暮れる頃あいだ。空が濃い紫へと染まっている。窓からは明かりがともる街並みと山々が見える。あれは比叡山だろうか。徐々に闇に包まれ峯と空の境目がわからなくなってきている。
「アカコさん、到着したばかりですが、夕ご飯にしましょうか?」
広瀬はつとめて明るく声をかけた。旅行から帰ったら写本を返してくれるのだろうかと不安を抱きつつも。
「何もかも変わってしまった……」
消え入りそうなアカコの声。
一つ、二つとパンフレットの表紙にアカコの涙が落ちていく。
「都は変わってしまった。何があったの? 広瀬さんが言っていた“おうにんのらん”で全て焼けてしまったの?」




