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会社が部屋を手配してくれていたため、住む場所は決まっていたが、最初の半年間は仕事はほぼせずに、語学の学校に通うことになっている。この年齢で新しいことを覚えるのは辛い気けれども、まぁ会社の金で勉強ができるので得だと思うことにした。
アパートはバルセロナ市内からそう遠くない公園のすぐ近くにあり、独身寮のようなアパートだ思っていたが、なんの手違いかそこには一軒家があった。
インターホンを押すと恰幅の良い白髪の男性とふくよかな同じような髪の色の女性が現れる。
「あなたがヒロね!待ってたわよ早く入って」
と笑顔で迎えてくれたのは嬉しいが、あれよあれよという間にスペイン語訛りの英語で家の中の紹介をしていく。
「1階はキッチンになっているわ、いつでも好きなときに使っていいわよ。あっでも揚げ物だけはダメよ!掃除が大変だし臭いがつくからね。じゃあここで靴を脱いでね2階は土足厳禁よ。あなたの部屋は2階の角部屋で机と寝具は用意しておいたわ。3階は私たち夫婦の寝室になっているわ。もちろん立ち入り元気よ!なにをやっているかわからないからね!おほほ!」
急な展開で思考が追いつかなかったが、荷物を自分の部屋に降ろし会社に確認をすると。
語学学校に通っている期間は語学力向上のため現地の家族と6ヶ月間過ごした後に独身寮を与えることになっている。とのことだった。
他人と一緒に住むなんて正直考えられなかったが、この日は体裁を保つためにも一緒に食事を取りおおげさに奥さんの作ってくれた料理を褒めた。どうやらこの夫妻はバルセロナ市内でレストランを営んでいるらしい。でもこの料理の腕からするとシェフではないのは明らかだった。前菜は茹でた海老に大きな白身魚は大量のバターでムニエルしただけだったし、デザートの前には何種類かのチーズを皆で回して食べ、肝心のデザートもスイスでかったチョコを何切れか渡され食べ終わると各自が部屋に戻っていった。
アレックスのもてなしにくらべると天と地の差があり食事面でもがっかりしていたけれども、普段は一緒に食べないと聞いてかなり安心した。
会社の決定に逆らいわざわざ面倒を起こすのは得策ではないので、ここは半年間我慢することに決め、明日からはじまる語学学校に備えすぐに寝ることにした。
*
ガタガタと物音がし目覚め、耳を澄ますとステイ先の夫妻が準備を終えレストランに向かう用意をしているだろう声が聞こえた。大きな声で会話をしているのにも少し気が障る・・・。
1階におり顔を合わすと言葉を交わさないといけないので、少しベッドで待機し扉が閉まる音が聞こえ二人が外に出たことを確認すると、ゆっくりと体を起こし、軽くストレッチをした後シャワーを浴びる。
日本ほど水圧はよくないが安ホテルよりはマシといったところだろうか、チョロチョロとでるシャワーでは完全に目が覚める自信がない。
幸いにも学校はステイ先から徒歩圏内で、小さな学校かと思っていたが大学付属の語学学校で見かける生徒のほとんどが大学のほうに通っている現地の学生だった。
見た目はいかにもヨーロッパの建築物といった古い出で立ちをしていたが、中に入ると割とキレイな施設になっており、最新のコピー機やら書類発行用の目新しい機会などが立ち並んでいた。
簡単な入学テストを済ませるとその場で採点され一番下から2番目のクラスに割り当てられる。まったく勉強はしていなかったが同じラテン語ルーツの英語と少し齧ったフランス語に似ているところがあったため、少しは理解ができ意外と空欄を埋めることができていたが、案の定下位のクラスになってしまった。
自己紹介などをして基礎のアルファベットなどを復唱しているとその日の授業は終わる。帰り道に一人で校内を散策していたら見覚えのある顔があることにきづく。
「ヒロこんなところでなにしてるの?」
そこには、いつもよりも露出を控えた格好をしたパブロがいた。どうやらパブロはこの大学で日本語を専攻しているらしい。「ヒロもこの学校に通うの?ウケル」という日本の若者のような喋り方はおそらく小林から教わったのだろう。
実のところ一人で心細い気持ちがあり、パブロに出会えたときは少し嬉しかった。
パブロがこの大学の学生だとわかると、出会いを求めるとき以外は筆不精の僕もよく彼に連絡するようになり、スペイン語がわからない僕にとって学校のことを良く知っている友達は役に立った。
学校生活はパブロのおかげでランチタイムはぼっちじゃなくなったし、授業も下のクラスということでそこまで苦労はしないで過ごせる。だが、やはりステイ先に帰ると陽気な夫妻が夜中遅くまでテレビを見ていたり、大きな鼾をかいていてゆっくり寝ることもままならず、週に数回はパブロの家に泊まらせて貰っていた、もちろん同じベッド寝ている。
バルセロナの生活にも慣れてきたがどうしても今のステイ先に満足ができず、会社には内緒で家を探すことにしたが、外国人がスペインで家を借りるのは簡単ではなく、スペイン語の契約書もまともに理解できない僕は早々その計画を諦めた。何かいい方法はないかと思っていると、アレックスが言っていたことを思い出した。
別に誰も急かしていないのに、急いでスマートフォンの電源を入れアレックスにメッセージを送る。
「ひさしぶり、実は今のステイ先に満足していなくて、新しく住む場所を探しているんだどこか良い場所知っている?」
本当はアレックスの家に滞在したいのだが、なんだが直接的に言うと厚かましい感じがしてそうは書けない。なんでも遠回りに言ってしまうのは僕が生粋の日本人である証拠なのかもしれない。
アレックスからは直ぐに返信が来て、ちょうどランチタイムだったのでどこかでゆっくり話そうということになった。
スペインのランチタイムは一時以降から三時くらいまでと遅めになっているため、いつもの感覚で十二時に店に訪れると開店する気配がないレストランの前で佇むことになる。
一時に約束していたが念のため五分前にはレストランに到着し、店の前で待つことにした。
淡いブルーのシャツに真っ白で短いパンツを履いたアレックスは少し遅れてゴメンといいながら僕の頬に挨拶のキスをする。キスといってもフランス式のビズといった頬と頬を合わせ口で音を出す挨拶だが。
いかにも慣れている風にビズをしようと試みるが僕がするといつも不自然に見える。
レストランはカジュアルフレンチのビストロを選び、僕たちは牛肉のタルタルにトリュフソースを添えたものを注文した。
事の経緯をアレックスに説明すると、忘れかけていた優しい笑顔で「もしヒロが住みたいなら僕の家の空き部屋に住んでもいいよ」といつもの僕に完全な決定権を委ねた口調で言った。
最初からその言葉を待っていたのに「本当にいいの?君の夫は大丈夫?」などと白々しく聞く。素直にありがとうと言えばいいのに。そういう純粋さはここ一〇年でどんどん偏屈な謙虚さとして化している。
一刻も早く今のステイ先から出たかった僕はアレックスと引越しの日取りを決め、夫婦が働いている間にアレックスに車で迎えに来てもらう作戦を立てた。
引越しの旨を夫婦に告げると、あなたが居なくなったらあそこに誰が住むの?後釜を見つけてから引越して頂戴。と一蹴されたが、特に契約書にサインした覚えも無いので契約書がないので私の好きにさせてもらいますというと、あっさり退去を認めた。
退去の前は自分の部屋と風呂場を掃除して鍵を置いて出て行くだけだったが、アレックスが迎えに来てくれるまで部屋で待っているのはそわそわする。もし荷物を運んでいるところを夫婦に見られたらこの上なく気まずいからだ。
そんな僕の不安を他所にアレックスは晴れ晴れとした面持ちで迎えに来て僕のキャリーバッグを二つ車に運び入れるとあっさりと引越しは完了した。
案内されたゲストルームは前のステイ先の二倍の広さはありベッドもダブルサイズで見るからに快適そうで、緊張から解き放たれた僕はすぐにベッドに倒れこむ。
その上からアレックスが僕に乗りかかり僕の唇を奪う。朝に飲んだと思われるエスプレッソの香りが舌から舌に移る。お互いの体を触り合い、長く濃厚なキスを彼の夫が帰ってくるまで無心で続けた。