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ショートストーリー

海岸通店

作者: mari

  海の下には別の世界があるという。


 カフェ『トリップ』海岸通店のマスターは、そんな別の世界からやって来た人間らしい。

 その別世界とは、海の中とてもとても深いところに存在している。いや、正確に言うと海の中に存在しているのでは無く、海の底が別世界の海の底に繋がっているらしいのだ。だから、ひたすら海を潜っていくと、再び海面に辿り着く。そこではぼくたちの住んでいる土地と同じような生活拠点があって、ぼくたちと同じ形をした人間が、ぼくたちと同じように生きているというのだ。

 別世界があること、そしてマスターが別世界から来たこと、それはどちらもあくまで噂話だ。そもそもその話が本当だったら、重力はどうなってんだって話だし。だけどぼくは、それをただの噂話にしたくなかった。

 だってロマンがあるじゃないか。

 というわけでぼくは、そんな噂話の真偽を確かめたくて、カフェ『トリップ』を訪れることにした。

 海岸通店はその名の通り、大きな海が目の前いっぱいに広がっている。ここらの海は青というよりエメラルドグリーンに近い色をしていて、白い砂浜が美しさをより一層際立たせている。

 店内に入ると、客はカウンターの角に一人だけ。そもそも店内はこじんまりとしていて、カウンターの他には二人掛けのテーブル席が三つしかない。そしてカウンターの奥には、三十代ぐらいだろうか、眼鏡をかけた優しそうな男性が一人。

 この人が例のマスターだろうか。


「いらっしゃい」


 ぼくは軽くお辞儀をして、カウンターに腰掛けた。手元のメニュー表には、コーヒーがいくつかと軽食が並んでいる。

 ひとまずブレンドコーヒーを注文し、マスターの様子をこっそりと伺った。

 普通の人だ。


「どうぞ」


 マスターがニッコリと微笑みながら、コーヒーを出してくれた。

 湯気の立つ黒い液体。香ばしい香り。

 ゆっくりと口に運んで、再びマスターを盗み見た。

 さあ、どう切り出そうか。


「お客さん、初めてですね」


 ふいにマスターがぼくを見て、そう告げた。突然のことに戸惑い、しかしそれを悟られまいと、ぼくも無理矢理笑顔を作る。


「はい。ここ、有名だから一度来てみたくて。海が綺麗ですね」


 そう言って、ぼくは背後を振り返った。

 ガラス張りの窓の向こう側は、全面大きな海。店内に居ても、波の押し寄せる音が聞こえてきて、とても気持ちが良い。


「そうでしょう」


 ぼくの言葉に、マスターは満足げに頷いた。

 平日ということもあり、海辺に人の姿は見えない。そのお陰で自分一人がこの景色を独り占めしたような、特別な気分になる。

 ふと、横顔に視線を感じた。

 隣を向くと、カウンターの角に座っている中年の男性と目が合った。


「お前も、あの噂を聞いて来たのか」

「えっ」

「俺には分かるぞ」


 あの噂。

 途端に現実に連れ戻された気がして、心臓がドキンと跳ね上がった。

 強面の男性は、ぼくが何か話すまで逃がさないぞと言う目つきでこちらを見つめている。


「え、えと…」

「まあまあ、リーさん。いいじゃないですか」


 やんわりと。

 マスターが会話に割って入った。ぼくは思わず助けを求めるように、マスターに縋るような目を向けた。


「お客さん、すみませんね。リーさんはね、私の恩人なんです。こう見えて、良い方なんですよ」

「こう見えてとは何だ。俺は、お前がこの世界にやって来てからずっと世話をしてやってるんだ。この店だって貸してやったし」

「ええ、ええ、勿論。十分、感謝しています」


 ええと、これは。

 これは一体、どういうことだろう。

 突然のことに、事態が上手く飲み込めていない。二人の会話は、ぼくをからかっているんだろうか?しかしもし本当なら、マスターは…。


「きみの予想通り。噂は本当ですよ」

「え、ええ?」


 そんなあっさり…。

 マスターは何てことない風に笑いながら告げた。何でそんなに平然としているのだろう。だってこれが本当なら、凄いことじゃないか?

 混乱が顔に出ていたのだろう、マスターは面白そうにぼくを眺めている。リーさんと呼ばれた中年男性は、氷が入ったグラスをカラカラ鳴らしながら、ぼくを指差した。


「お前みたいな物好きが良く来るんだよな。まあ、コイツが海の中にあるらしい世界からやって来たことは事実だから、正直にそう言ってるんだが、お陰で変なカフェって噂が広まっちまった」

「ほ、本当なんですか?証拠は?」


 改めてマスターを観察してみたが、どこからどう見ても普通の人間である。体の造り、言葉、目の色、云々。


「それがねぇ、殆ど一緒なんですよ。生き物や、食べる物、生活の仕方…。何か特別なことしてるわけじゃないし、朝は起きて夜は眠る。だから、よく聞かれるんですけど、証拠というものは無いんです。こんなんなので、みなさん残念がって店を後にされます」


 困ったような表情で微笑むマスター。

 淡々と告げる様子に、嘘をついている気配は感じられない。証拠が無いというのも、考えようによっては真実味があるような気がするし。更にぼくは別世界に興味が湧いてきた。


「あの…、マスターはどうしてこの世界に?」


 するとマスターは、小さく頷いて口を開いた。


「実は向こうの世界でも、同じ噂があったんです。海の中に、もう一つの世界があるって。私はその噂がとても魅力的なものに思えて、どうしても試したくなったんです。それである晩、決行しました。その世界を思い浮かべながら、海の中を必死で潜りました。そして意識を失って…。気づいたら、そこの海辺に打ち上げられていました」

「そうだ。それで俺が介抱したんだ」


 マスターが指差した先には、先ほど眺めていた白い砂浜がある。リーさんも思い出したように、うんうんと頷いている。


「あの…でも、どうしてここが、別世界だと?」


 彼の話によれば、こちらとあちらの世界は全て同じだということだった。それならばどうして、ここが別世界だと分かったのだろう。


「そうですね。普通は、そう思うでしょう。でもここに辿り着いたとき、私は自分がどこにいるのか分からなくて、リーさんに地図を見せてもらったんです。そしたら、全く知らない土地ばかりでした。聞いたことの無い国々、地名…一体どうなってるんだと思いましたよ。そこでようやく、気付いたんです。ああ、ここは違う世界なんだって」


 にわかには、信じられない話だった。けれどぼくの胸は早鐘を打つように高鳴っている。

 あの噂は、本当だったのか。

 そしてここには、本当にその別世界から来た人間が存在しているのだ。

 それなら、ぼくにも…。


「あぁ、そうだ。コレ」


 マスターが思い出したように、胸元から小さな紙切れを取り出した。何か文字が書いてある。


「これは…?」

「切符です。私が前の世界で買ったものが、ポケットにそのまま残っていたんです。不思議ですよね。ほら、地名を見て」

「…知らない字ですね。何て書いてあるんですか?」

「東京、です。私がいた世界には、沢山の国があって、その中の一つ、日本という国の、東京という土地に住んでいたんですよ。こんなところ、ここには無いでしょう?」

「はい、初めて聞きます。東京…」


 確かに聞き馴染みの無い地名だ。この世界にも新幹線や地下鉄はあるし、切符を使ったこともあるけれど、これは初めて見る形のものだ。


「マスター、ぼくも、その世界に行ってみたいです。どうやったら…」


 そこまで告げたとき、マスターはぎょっとした目でぼくを見返した。そのことにぼくも驚いて、思わず言葉を止めた。


「お客さん、それは…」

「お前、コイツと同じことを考えているな?」


 マスターの言葉を遮って、リーさんが告げた。眉の吊り上がったその表情は、ぼくの気持ちをビビらせるのに充分だ。


「お、同じことって」

「コイツが別の世界に憧れるように、お前も別の世界に憧れているんだろう。だから向こうの世界に行きたいんだ」

「そ、そりゃあ、本当に他に世界があるのなら、気になるじゃないですか」

「気になる、それだけか?」


 リーさんがグラスを置いて、ぼくの隣の席に移動した。逃げられない。マスターは黙って、その様子を眺めていた。


「それだけって…」

「今の世界から逃げたいから、別の世界を求めてるんじゃないのか、お前は?」


 まるで。

 まるで狼に見つかった兎のように、ぼくは何も言えなかった。狭い店内で一人、居場所を失いかけているぼくは、リーさんの瞳が本当は綺麗なことに気づいていた。


「そんな…」

「コイツはそうだった。だからコイツは海の中に潜った」


 そう言ってリーさんはマスターを顎で示した。マスターは僅かに頷いて、ぼくを通り越した遥か遠くを見ていた。


「元いたところ、得たもの、全て捨てても、私はあの世界から逃げたかったんです」

「……」

「残念ながら、同じですよ。どこにいても、現実は」


 マスターは眼鏡を外して、鼻頭を摘んだ。目を閉じて、また開いて。ぼくの顔を、優しく捉えた。


「死ぬことは、特別なことではありません。普通のことです。誰もみな、いつかはそうなるのですから。決して、自ら命を絶つことを素敵なこと、芸術のように捉えてはいけません。それは自然に迎えるものです。きみがそうなるべき、その時に」


 ぼくは一口、コーヒーを口に含んだ。

 もう既に冷めきっていて、苦みと酸味がより濃くなっている。波の音が、先程よりも大きくなって、聞こえる。

 なぜ、気付かれてしまったのだろう。


「帰ります」


 伝票に書かれていた金額をカウンターに置いて、ぼくは逃げるように店を立ち去った。背後に二人の視線を感じたけれど、絶対に振り返りたくは無かった。

 少し高台に位置する海岸から見下ろす海は、とても綺麗に太陽の光を受けて笑っていた。眩しく輝いて、ぼくのことを拒みもせず、けれど受け入れてもいなかった。

 どうしようもなく虚しい気持ちが押し寄せてきた。

 何を求めていたのだろう。

 ただ理想を描いていたかっただけなのか。

 そんな理想も、もう既に砕けてしまった。

 現実はこんなもんだと知っている。だから落ち込んだりはしない…そのはずだったのに。

 地平線に伸びる青色がぼくの瞳に映り、一雫、涙が溢れた。

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