極楽に咲く花(千文字小説)
岩に囲まれた温泉に入り、体の力を抜く。
左手の薬指にはめてある赤い花指輪を見る。
これはどういうことだと思考していると、隣に眼鏡をかけた老父が入ってきた。
自分と同じように肩まで浸かり、長い息を吐く。
他の人が同じような反応を示したことに安堵する。気弱になっていた自分は隣の老夫に声をかけた。
「良い温泉ですね」
「ええ、まさに極楽です」
あぁ、やっぱり……。
その思いが表情に出たのだろう。老父が気遣うようにこちらを見た。
「まぁ、あなたには受け入れ難いかもしれませんね。見たところ、歳も若い」
「はい、今でも夢を見ているようです。あの瞬間ははっきりと覚えていますから。なのに気が付いたら恐い顔のお姉さんに『身を清めて来い』とこうですよ。混乱もします」
「あぁ、確かに彼女の顔は恐かった。聞いた話ですが、彼女は閻魔様らしいですよ」
はっはっはと朗らかに笑う老父を見て、気が緩んだ。会ったばかりの相手に失礼かと思ったが、質問せずにはいられなかった。
「僕達は死んでしまったのでしょうか?」
「ええ、恐らく」
「あなたは死んでしまったことを悔いていませんか?」
「いいえ、全く」とすぐに返事を返してきた。
「唯一の心配は残してきた妻のことですが、彼女とは約束を交わしました。だから悔いるようなことはありません。あなたは少し心残りがあるようだ」
「はい。僕も妻を残してきました。お腹には子供も居ましたし……。ですが僕らは幸い友人に恵まれています。あいつなら気丈に生きてくれるでしょう」
老父の真似をするように笑ってみる。いつものクセで頭をかいた。
「……蓮華草ですか」
老父が少し驚いた表情になった。
「あぁ、むかーしの思い出です」
左手の花指輪を見ながら言うと老父は微笑みながら呟いた。
「あなた達なら大丈夫だ」
老父と一緒に温泉を出て白装束を纏う。周りを見渡すと白装束以外にも何か身に着けている人が多い。どうやら現世で思い入れのあったものを所持できるようだ。
少し話しながら歩いていると、老父が白杖をついた老婦に近づいて行った。
「随分と早かったじゃないか」
「何を言っているの。あなたがいなくなってから二年も頑張ったのよ」
そうかと笑い、老父が腕を出した。老婦は静かに手を腕にかける。
また、と言って老夫婦は歩いていった。
どのくらいの時間が経っただろうか。周りの様子を窺っていたら見覚えのある老婆の姿が。
白髪、しわ、かるい猫背。だけど、その人の薬指には……。
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