零ー3 【春樹】
『お兄ちゃん……そんなに私が嫌い?』
通話を切った携帯の画面を見つめながら、切る間際に聞こえた妹の声に胸が軋んだ。
俺には二人の妹がいる。
昔から自分が二人にかまう時間が違うことは気になっていた。だが、俺が一緒にいてやらなければ……いや、いてやってもいても辛い環境だった上の妹に対して、下の妹は何不自由なく周りに世話をしてもらっていた。
茜には許せない言い訳かもしれないが、上の妹――雪菜ばかり気にかけても仕方ないと思う。
俺の家族は普通とはいえない。
滅多に家にいない上に、在宅中でも書斎から出てこない父。
子供たちへの愛情が偏り、育児放棄や手を上げることもある母。
その母の影響が強く、血の繋がった姉を母と同様……もしくはそれ以上に冷遇する下の妹。
家族が壊れたのは、何が原因だったのか。それは俺も知らない。だけど、雪菜には教えていないが、俺は一つだけ知っている事がある。
母の、そして父の態度が変わったのは、母方の祖父の葬式の日からだ。
まだ一歳だった雪菜は、葬式の意味をよく分かっていなかった。ただ、今は騒いではいけないという雰囲気を敏感に感じ取り、俺と二人でお菓子を食べながら、大人しく絵本を読んでいたと思う。産まれたばかりだった茜は、たぶん母が連れていたんだろう。
そして突然、屋敷中に響く悲鳴が聞こえた。
祖父の家は古い日本家屋で、雪菜も俺も、もしかして幽霊が出たんじゃないかと怯えたのを憶えている。
きっと……あの時に何かあったんだ。
あの日から、俺の家族はバラバラだ。俺にはバラバラになった家族を修復する力がなかった。ただ必死に、毎日必死に雪菜を守らなければと……それだけを考えてきた。
それなのに、俺は一度雪菜を裏切った。
ギリギリまで、ずっと悩んでいた大学。将来の事を考えた時に、学びたい大学に行くなら家を出たほうがいい。だが俺がいなくなったら雪菜はどうなる?
どんなに心配でも、連れて出るには俺に足りないものが多い。
悩む俺の背中を押してくれたのは、雪菜自身だった。あいつの優しさや俺への負い目に甘えて、俺は自分の行きたかった大学へ進学した。
そのことに後悔はない。俺が就職に有利な大学に進むことで、少しでも早く雪菜をあの家から解放してやりたかったから。もうこのころには、父の会社を継ぐ気持ちは完全に消えていた。
俺が後悔しているのは、どうしてもっと気を付けなかったのかということ。
始めての一人暮らし。そして高校までとは全く違う大学生活は、学ぶことが多く充実している。新しく作っていく人脈。バイトをして初めてもらった給料。全てが大変だけど楽しくて、俺は休みの日も実家には帰らなかった。
家に電話をかけても、毎回雪菜が出るわけじゃない。運が悪ければ雪菜の声が聞けないまま切られてしまう。
それでも家族だから。
もしかしたら……俺がいないほうが、あいつらが雪菜を気にかけるかもしれないなんて……そんな自分に都合のいい願望を持ったりしていた。
そして夏休みに入る直前。
知らない番号から電話が来た。それは何かあったら連絡してくれと教えていた真奈美からの電話だった。
電話越しに聞こえてきたのは、悲鳴のような真奈美の叫び声。
あの日の事は、今でも思い出すと自分を絞め殺してやりたくなる。
『春樹お兄ちゃん! 雪菜が死んじゃうっ。雪菜を助けて!』
「もしかして真奈美か? 雪菜がどうした!?」
『ユキ、春樹お兄ちゃんがいなくなってからどんどん痩せてってた。何度もうちにおいでって言ったのに、雪菜、迷惑かけたくないって言ってちっとも私の言うこと聞いてくれないっ。先週は頬っぺた腫らしてて、わ、私、我慢できなくてっ! うちの母さんに相談したら、学校とか、なんか、色々話してくれたんだけど、そしたら、それからユキ、学校来ないんだよ! 電話しても代わってもらえないし、家に行っても出てこないんだ!』
「……っ、どうしてもっと早く教えなかったっ!」
真奈美を責めるのはおかしい。こうなることを予想して、もっと雪菜を気にかけていなかった自分が一番悪い。
それがわかっていても、込み上げてくる不安や心配に、つい言葉がきつくなる。
俺の言葉を引き金に、真奈美はとうとう泣き出していた。
『ご、めんなさい~。ユキ、お兄ちゃんには黙っててって。今まで、自分のせいで、お兄ちゃんはいつも大変だったから、だから、もう解放……してあげるんだってっ。雪菜が、ホントに嬉しそうに、そう言うから! だから私っ』
「悪い……。お前のせいじゃない。すぐに帰るから心配するな。知らせてくれてありがとう」
通話を切り、奥歯を噛み締める。
俺は、心のどこかであの家と雪菜を重荷に思っていた。だから離れた時に、色んな言い訳で自分を正当化して、実家に近づかなかったんだ。
遠いといったって、いくらだって帰る時間は作れたのに。なのに俺はっ!
その事に気付き、自分の醜さに両手で覆った顔が歪む。
……やめろ。今はこんなとこで後悔している場合じゃない。
俺は雪菜の元へ行くために、構内を走り抜けた――
実家で俺を出迎えた家政婦は、俺の姿を見た途端に顔色を変えた。雪菜や母たちはと訊ねると、母は出かけていて、雪菜と茜は学校に行っていると答えた。
「俺は雪菜が学校に行けていないと聞いたんだけど」
「い、いえ、ちゃんと毎日行っていますよ」
「……もういい」
「は、春樹さんっ、どちらにっ」
「雪菜は俺が連れて帰る」
「困りますっ、待ってください!」
俺は止める家政婦を振り切り、雪菜の部屋のドアを開ける。
雪菜はベッドに寝ていた。
昔のように丸まって寝ていた。
その姿を見たときに、俺は自分の家族はもう雪菜だけでいいと決めたんだ。
雪菜に伸ばした自分の手は、驚くほどに震えていた。
春に俺を見送った時は、少しは丸みを帯びていた頬が、げっそりとこけ、まるで蝋人形のように白い肌。
俺の指先が雪菜の頬に触れると、雪菜の睫毛が震えた。ゆっくり開かれていく瞼の奥。焦点の合わない視線で俺を捕らえると、雪菜は嬉しそうに笑った気がした。すぐに閉じられたそれに、それでも俺は安堵した。
「雪菜ごめん。ごめんな……雪菜っ」
滲む視界で雪菜を抱き上げ、呼び止める家政婦の声を無視して、待たせてあったタクシーに乗り込む。告げた行き先は三池病院。母の弟である叔父が院長をしている病院だ。
雪菜が入院している間に、叔父と祖母と話した。
そして二人は俺と雪菜の援助を約束してくれた。
叔父は優しい人だ。昔から雪菜のことで、母を唯一咎めてくれる人だった。俺は病室に飛び込んできた二人の、雪菜を見たときの愕然とした表情で、大学卒業まで頼ることを決めたんだ。
後にも先にも、祖母の表情が変わるのを見たのは、あの時だけだ。
雪菜が退院してからは、一月ほど叔父の家でやっかいになった。その間に雪菜と暮らすマンションを叔父と探し、実家の荷物を完全に引き取った。
叔父から車を借りて俺が荷物を運ぶのを、母と茜が泣き叫んで邪魔をしていた。その姿に気持ちが動かなかったとはいえない。どんなに雪菜に酷い仕打ちをしても、どんなに三人に絶望しても。俺には完全に母たちを切り捨てる覚悟はまだ持てない。
だって俺は覚えている。
俺の一番古い記憶。
大きなお腹を俺に触らせた母の顔を――
その時言われた言葉を。
『もうすぐ春樹はお兄ちゃんになるのよ。どんなことからも妹を守る、強いお兄ちゃんになってね』
なぁ母さん。
俺はあの時の約束を守ってるよ。これからもずっと守っていく。
だからお願いだ。貴女も思い出してくれ。
あんなに嬉しそうに雪菜を抱いていた……あのころの母さんを――