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車に戻ると、山前院さんが青色の水筒を渡してくれた。
「スポーツドリンクを飲めば少しは楽になるだろう」
「あ、あり、がとうご、ざいます」
まださっきの衝撃から落ち着きを取り戻さない心臓を押さえながら、受け取った水筒の中身を一口飲んだ。
……その味は私には烏龍茶に思えた。
いやでも動揺しすぎて味が解ってないのかもしれない。そう思って、黙ったままもう一口飲んでみる。
……やっぱり烏龍茶の味がする。
チラッと山前院さんを見ると、その顔は心配そうに私を見つめていた。伺う私と目が合うと、その手を私の頬へとのばしてきた。
そのまま優しく何度か撫でるその動きに、段々と心臓の音が落ち着いてくる。
目をつむり、一度大きく息を吐くと、山前院さんに向き直り……せっかく来たのにすみませんと頭を下げた。肩を持ち上げることで私の顔を上げさせると、そんな事を気にする事はないと微笑んでくれる。
本当に申し訳ない気持ちが込み上げてきて、ついつい俯いてしまう私にもう一度顔を上げるように促すと、なんでか山前院さんが「すまない」と言ってきた。
「謝るのは私の方だ」
「え?」
「私はこの場所に君を連れて来たら、君が苦しむかもしれないと知っていた」
「なんで……」
予想外の言葉に目を見開いて驚いていると、腕をグイッと引かれ、そのまま山前院さんの腕の中に抱き込まれた。
そのままギュッと抱きしめられると、この状況とさっきの言葉のどっちに驚けばいいのか分からなくて……
いーーーやーーーーっ!!
という絶叫を心の中で留めることに必死になってしまう。
ヒーっと動けない私の耳元で、山前院さんがゆっくりと話してくれた――
「昨日誠のところに行って、春樹君に今日、雪菜をここに連れてくることを話した。
ここは夜まで色々と催しがあるらしいからな、遅くなることの報告をするためだったんだが……
最初、春樹君は理由は言えないが、ここだけはやめてあげてほしいと言ってきた。
私はなぜなのかその理由を教えて欲しいと彼に頼んだ。
別に場所を変えることに否があったわけじゃない。ただ、これからのことを思うと、その理由をどうしても知りたかった。
暫くしてようやく教えてもらえたのは、雪菜はこの場所に……トラウマのような気持ちがあるという事だった。
それを聞いたのに、私は今日君をここに連れてきた」
「なんで……」
「雪菜、私は君を傷つけない。
君が愛しいから……この腕の中に囲い、優しくしたい、大事にしたい。
雪菜……私は私と出会う前に君に付いた傷も、許せないんだ。
その傷を塞ぐほど楽しませてやる。その傷を忘れるほど夢中にさせてやる。
この場所を、私と一緒に楽しもう。そして、今度は春樹君と一緒に来よう、雪菜」
「……っふ」
なんでこの人はこんなにも優しいんだろう……
もう……ダメだ……
もしこの先、山前院さんが違う女の人に惹かれてしまっても、別れてしまっても……きっと私はもう他の人を好きになれない……
堪えきれずに零れたものを拭うことも忘れて、その胸にしがみついた。
「うっ……ううっ……
っあーーーーーーーーっ!!」
自分でも驚くほどの声が出た。
声を出すたびに、心に張り付いたものがポロポロと落ちていくのが分かる。
目から溢れる物の量だけ、私の底にある物が軽くなっていくのが分かる。
そんな私を、山前院さんはそれ以上は何も言わずに、ただ……きつく抱きしめていてくれた――
落ち着いてくると、途端にこの状況が恥ずかしくなってくる。
それに……ジュビジュビするこの鼻もどうにかしたい。このままでは山前院さんの服に付くのも時間の問題だ。……もしかしたらもう手遅れなんじゃないかという事は、頭の隅に追いやっておこう……。顔の横のシミなんて私には見えない。
できるだけ音をだないように気を付けながらグシュグシュさせていると、山前院さんがゆっくりと体を離していった。
「少しは落ち着いたか?」
「あい、ずびばせんでひた」
ぬぉっ、なんて声を出してるの私っ!
それに……ああぁぁーっ。やっぱり山前院さんの胸元が見ないふりが出来ないほどえらいことになってしまっている~っ。
慌てて鞄を開けてハンカチとティッシュを出そうとすると、鞄の中に入れた覚えのない小さな封筒が入っていた。なんだろうとハンカチたちと一緒に出し、まずは山前院さんの胸元を拭く。
「そんなのは気にしなくていい」
「で、でぼ……」
「先に自分の顔を拭きなさい」
そう言ってハンカチを持つ私の手をそのまま顔へと運んでくれる。
自分の顔が酷い事になっていることはわかっていたから、大人しく言うとおりに顔をゴシゴシ擦って、大人しーく鼻もかんだ。
そしてハンカチをしまう前に封筒を手に取る。
「それはなんだ?」
「わがらないんれす。いづのまにかはいっでたみだいで」
山前院さんに答えながら封筒を開けると、中にはメモと四つ折りにされた一万円札が入ってた。
『楽しんでおいで』
見慣れた文字に、呼吸が止まった。
きっと、朝私がトイレに行ったときに入れたんだろうこの封筒――
お兄ちゃんっ……
さっきとは違い、言葉もなくぼたぼたと涙をこぼす私の頭を、山前院さんがまた、ギュッと抱きしめてくれた――
「山前院さんっ! あそこっ! あそこにいるのがプーヤンですよっ!」
「……黄色い……クマ、か?」
ようやく落ち着いた後、一度トイレで顔を洗い、いざ出陣とばかりに再チャレンジしたら……驚くほどすんなりと入園ゲートを通ることが出来た。
さっきの自分が嘘のように……。
驚きながら見上げた先で、山前院さんは優しく見下ろしてくれていた。
入園した時にもらった地図を開いたときに、視界の隅に黄色い物体が映った。
思わずその物体を目で追う。私の視線の先には動くプーヤンと、プーヤンと写真を撮るために列をなしている人達。
穴が開くほどプーヤンを見つめている私を、山前院さんが列の方へと連れて行ってくれた。
「あっ、あのっ」
「雪菜はあのクマが好きなんだろう?
なら君も一緒に写真を撮ってもらえばいい」
「いいんですかっ?」
「ああ」
列の最後に並んだ数分後、私達の番が来た。
間近にいるプーヤンに感激して動けないでいると、プーヤンが両手を広げて待っていてくれる。
思い切って抱きつくと、プーヤンは柔らかく抱きしめ返してくれた。
プーヤーンっ!!
嬉しくてぎゅうぎゅうと抱きついていた時、急に私とプーヤンは引き離されてしまった。
私の肩を掴んでいる人を見上げると、優しく微笑んだ山前院さんに「私達の後にも待っている者がいるから、さっさと写真を撮ろう」と言われる。
確かにそうだなと慌ててプーヤンの横に並ぶと、山前院さんがキャストの人にデジカメを渡して私の横に並んだ。
「彼氏さんもどうぞプーヤンの横に並んで、お二人でプーヤンを挟んでください」
「いや、私はここでいい」
「あっ、じゃあ私と場所を変えますか?」
そう言った私を、山前院さんは今日初めて不機嫌そうな顔で見返してきた。
「私が一緒に写真を撮りたいのは雪菜であって、クマじゃない」
「にょっ」
プーヤンが両手をあげて、いや~んというリアクションをしたけど、本当にいや~んなのは私だっ。
「す、すみませんでした」
「わかればいい。君も構わず撮ってくれ」
キャストさんに返してもらって確認したデジカメには、プーヤンの横で真っ赤な顔をしている私と、心なしか不機嫌そうな山前院さんが映っていたのだった――




