堪えられない衝動
陽だまり庵に向かう車中で、さて、数馬をどうしてやろうかと考えた。
少しでも早く雪菜に会えるというのは嬉しいが、まだ何もプレゼントを買えていない。初めてのデートで手ぶらというのは不本意だが、かといってそれを買うために雪菜とのランチを逃すのは惜しい。
結果、誠の連絡を受けて陽だまり庵へと急いでいるというわけだが…、雪菜も私とのデートを楽しみにしていてくれたのだろうか。
約束の時間を待ちきれずに、早めに来店したというのは本当だろうか。
はやる気持ちをそのままに、陽だまり庵へと急いだ。
案内された席では、雪菜が机に顔を伏せため息をついていた。
「ため息などついてどうした?
どこか体調でも悪いのか?」
私の声に勢いよく顔を上げた雪菜は、別段顔色は悪くなかったが、気分でもすぐれないのかと心配になる。
「顔色は悪くないが、これから病院に行くか? ならすぐに連れて行くが」
「あのっ、だ、大丈夫ですっ」
「そうか、ならいい」
「山前院さんも陽だまり庵にランチを食べに来たんですか?」
「まぁ、そうだな」
「私もそうなんですよ」
「そうか。同席してもいいか?」
「え? あ、でもこの後ここで約束があって、人が来るんです」
少し頬を染めて話す姿に、鼓動が跳ねた。
誠は何も言っていなかったが、どうやら雪菜は今日私と会うと知らされていないようだ。それならきちんと教えておかなければな。
「それは心配ない。
今日君を紹介してもらうのは私だ。
私は今日、君と恋愛を始めるために来たんだよ。雪菜」
「あ、そうなんですか」
私の言葉に一瞬動きを止めた後、呆けたような顔をしてそう答えてきた。同席を許されて座り、何度か話しかけたが、雪菜は呆けたまま頷くだけだ。
やっぱり体調が悪いのか?
そう思い、病院へ行くかもう一度尋ねようとしたとき、誠がランチを持ってやって来た。ランチを置いたらさっさと去ればいいのに、雪菜と会話を続けることに苛立つ。
なぜなら、雪菜が誠がやって来た途端に、その表情を和らげたのだ。
なぜだ。なぜ誠にはそうも表情を和らげる?
私の苛立ちに気づいたのだろう。誠が去り際に私の耳元で注意をしてきた。
「そんなに怖い顔をしていると、お姫様に逃げられてしまいますよ。彼女には今日の相手が貴方だと知らせてなかったんです。
今、彼女の頭の中は疑問だらけでしょうから、まずは優しく落ち着かせてあげてください」
そんなことは誠に言われずともわかっていた。ますます苛立つ気持ちを、何とか落ち着かせようとしていると、こちらを向いている雪菜と目が合った。
私と目が合った途端に、眉尻を下げながら困ったように笑う顔を見て、自分の大人げなさに呆れた。
冷める前に食べようと促すと、ホッとしたように食べ始める。食べながらだと多少は緊張が和らぐのか、雪菜の言葉数はどんどん増えていった。
兄のことを話すときなどは、目を輝かせ、頬をうっすらと染めながら嬉しそうに話す。その顔があまりに可愛くて、兄だとわかっていても春樹に嫉妬を感じた。
それを正直に雪菜に告げると、雪菜の顔が一気に紅潮した。
「なっにを、言ってるんですかっ」
「そう思っているから口にしたんだが、何か問題でもあったか?」
「も、問題ありますっ」
「どんな?」
「ここはお店の中ですし…、そんなことを言われると…、私の心臓が持ちません…」
頬を染め、潤んだ瞳のその表情は知っている。この顔をする女達のことは、今までは迷惑でしかなかった、だが雪菜なら話は別だ……。
「心臓がもたないというのはよくわからないが、…その顔は私を意識し始めた顔だ。
雪菜、もっと私のことを意識しなさい。一人の男として、君の恋の相手として…」
さらに赤く染まっていく、彼女の柔らかそうな頬に手を伸ばした。私の手が触れた瞬間震えるからだ。潤んだその瞳……。
その顔に、私自身の胸の高鳴りも増していく。
「私はね、雪菜の笑顔を初めてみた時から君に囚われている。
君のことが好きだ。どうか私と付き合ってほしい」
私の気持ちを伝えると、雪菜は唇を震わせ目を見開いた。その瞳に拒絶の色は見えなかった。ならばとさらに想いを伝えようとした時、雪菜の瞳が揺れた。
そこに明らかな怯えが見え、ここが引き際か……と、悟った。
できればもう少し攻め込みたかった気持ちから、頬から手を離す時に、その震える唇に触れたのは許して欲しい。
「悪かった、私はまた気が急いていたようだ」
「あ…のっ」
「私は本気で君のことを好きだ。それは伝わったか?」
真っ赤な顔をしながら、一生懸命首を上下に動かす雪菜を見て、やりすぎたか? と思ったが、これでもだいぶ我慢している。
まっさらな印象は愛しいが、少しずつ免疫をつけさせないと、先が長そうだな……
「とりあえずはそれでいい。
ああ…少し冷めてしまったな、すまなかった。さぁ、食べなさい」
安心させるためにそう勧めると、口いっぱいに食べ物を詰め込んでいる。その姿は小動物のように愛らしかった。
その姿があまりに可愛かったので、しばらくそのままにさせておいたら、雪菜はあっという間に目の前のものを完食した。
もしや本当に腹を減らしていたのか?
その疑問が浮かんだ瞬間に思い出したのは、彼女の報告書。その幼少期の記録。
目の前の物を食べた後、テーブルの上で視線を彷徨わせているのを見て、テーブルにあるメニューを彼女に広げて見せた。
「お腹がすいていたんだな。何か他のものも頼むといい。
それともデザートを追加するか?」
「あの、だ、大丈夫です」
「そうか? 遠慮をせずともいいんだぞ。
パフェやケーキ、好きだろう?」
「好きです」
頬をうっすらと染め潤んだ瞳で言われた言葉に、理性が飛びかけた。とっさに腕を伸ばしかけ、それを堪えると足がテーブルにぶつかった。
雪菜が小さく悲鳴を上げたが、その顔を見ることができなかった。
今その顔を見たら、段階を踏む事などせずに……このまま私の腕の中に囲ってしまいそうだ。
気持ちを落ち着かせている間にも、雪菜が心配そうに声をかけてくる。だがなかなか顔をあげられないでいると、また邪魔な奴がやって来た。他にも店員がいるだろうに、なぜこいつばかりがやってくる。
私を至極楽しそうに見ているその顔を見て、苛立つことで浮き立つ気持ちが落ち着いた。
せっかく邪魔な奴が早々に退散したのに、雪菜は誠のことばかりを話す。
それが面白くなく、そして雪菜に私の名を呼んで欲しかったので、少々意地の悪いことをした自覚はある。
だが、そのせいで予定より随分早く彼女を家へ送ることになった。自分が大人げないことをした自覚はあるが、せめて夕方までは共に居たかった。ランチをとった後は雪菜を買い物に連れて行き、用意できなかったプレゼントを買おうと思っていたんだが……。
想像以上に雪菜を攻めるのは難しそうだ。
報告書には、先日まで彼氏がいたとあったが、この様子では心配するようなことは何もなかったようだ。
『なんだ、彼氏とは別れてるんですね? 良かったですね、皇雅さん。
でも最近は日本の高校生も進んでるって言いますよねー。その彼氏とはどこまでいってたんでしょ?
キスかな?それ以上だったりしてー……って、あ、あれ? 皇雅さん? 何で花瓶なんか持ってるんですか?
じょ、冗談ですっ! 冗談ですーっ!!』
数馬の阿呆が余計な事を言うので、内心穏やかではなかったんだがな。
だが、喜んでばかりもいられない。
雪菜のペースに合わせていると、いつ彼女を捕まえられるかわからない。かといって少し手を伸ばしただけで怯える少女に、どうしたらいいのか……。
無理やり捕まえる方法ならいくらでもあるが、そんなことをして彼女に嫌われたくはない。
情けない。
携帯が着信を告げる。
開いてみるとメールが届いている。
『今日はごちそうさまでした。そして送っていただいてありがとうございました』
別れ際、無理やり聞き出した彼女のアドレス。もちろん報告書には載っていたが、彼女から教えてもらうことに意味がある。
次はどこかに遊びに行こうかと送った私のメールに、返ってきたのは否定でも肯定でもない言葉。
雪菜……できるだけゆっくり進めていくが、それも君次第だ。
私から逃げるな、そうすれば君に優しくできる。
何者にも侵されなように、傷つけられないように……全てのものから守ってやる。
だから私を見て欲しい。早く、早く……。
焦るなと、何度自分に言い聞かせても堪えられない衝動を胸に、次はどうするかを考えた――