一杯のコーヒー
住んでいたマンションの近くには小さなカフェが在った。仕事帰りに毎日のようにカフェに通い、仕事の愚痴をよくこぼしていた。カフェを経営しているのは年配の夫婦で、愚痴しか言わないようなあたしみたいな客にも、優しく接してくれた。でもあたしは、転勤をすることになり、引っ越すことになった。
仕事が一段落して、二人に連絡しようとカフェに電話をかけてみたら、誰もでなかった。ある日、久しぶりに部屋の掃除をしていたら、おじいちゃんが亡くなったという知らせの手紙が出てきた。
仕事帰り、いつものようにカフェに寄った。
「あら、美保ちゃんまた愚痴をこぼしにきたのかい。」
おばあちゃんが笑いながら声をかけてきた。あたしはいつも座っているカウンターの席に早足で行く。
「もう聞いてくださいよ!あの係長、絶対におかしいと思う!」
イスを引きながら愚痴を言う。毎日決まったパターンだ。
「はい、コーヒー。」
ニコニコしながらおじいちゃんがコーヒーを持ってくる。あたしはコーヒーの肴に、いつも上司の愚痴を持ってくる。まずい肴でもおじいちゃんとおばあちゃんは、笑いながら聞いてくれるところが好きだった。
「美保ちゃんが通って来てくれるから、私たちも嬉しいわ。」
それがいつもおばあちゃんが言う言葉だった。早くに両親を亡くしたあたしも、いろんな話を聞いてくれる二人がいてくれて嬉しかった。
そんなある日、会社から言われた言葉は「転勤」だった。ここからはそんなに遠くはないけど、通えるような距離ではなかったから、引っ越すことになったのだ。
「おばあちゃん、おじいちゃん、今までありがとう・・・。」
涙をこらえながら言うと、優しく肩を叩いてくれた。
「美保ちゃん、永遠の別れじゃないんだから、寂しくなったらまたおいで。いつでも歓迎するから。私たちも待ってるからね。」
あたは、おばあちゃんに抱きついた。
「ほら、コーヒーが入ったぞ。みんなで飲もうか。」
カウンターに三つコーヒーカップが出される。おじいちゃんは小さな声でおごりだ、と言ってくれた。あたしは泣きながらコーヒーを飲んだ。
「あら、美保ちゃんじゃない。」
おばあちゃんがあたしに気づいて近くによって来る。
「久しぶりね、連絡が無いから来ないと思ってたわ。」
力無い笑顔で言ってくる。
――連絡しなくてごめんね。
一言が言えない。
「まぁ、入ってらっしゃい。」
おばあちゃんはお店の中にあたしを招き入れた。あたしは早足でカウンターに向かった。
「待っててね、今コーヒー入れるから。」
あたりを見回した。そこには何もなく、前と変わらなかった。
「はい、コーヒー。」
目の前に一杯のコーヒーが置かれる。カップを手に取り、口に含んだ。
「おじいさんには敵わないけど、一応コーヒーは美味しいのよ。」
「うん、美味しいよ。・・・美味しいね・・・。」
不意に涙が落ちる。
「・・・ごめんね・・・おばあちゃん・・・。」
下を向き泣いているあたしを、おばあちゃんは優しく何か言う。声は小さくて何を言っているのかは分からない。
「おじいちゃんは、大丈夫よ。・・・私も、ね。」
最後の言葉だけ聞こえた。
「・・・ありがと・・。」
ちゃんとおばあちゃんの顔が見ながら言う。
あたしはコーヒーを口に含む。
おじいちゃんの味のしない一杯のコーヒーを。
最近はよく缶コーヒーを飲みます。