夜希
名前はない。
正確に言うと、分からない。
別に知る必要も無い、と思う。
名前なんて、いらない。
だって誰にも呼ばれないから。
他の人がいないと認識されないものなんて、私はいらない。
だって、ここは心地良いから。
一人って、楽しいから。
何にもないってことは、何でもあるってことだから。
だって、あるって状態がないから。
ないって状態もないんだ。
たぁのしいなぁ……。
……なのに。
楽しいのに。
時々目から出てくるものは何?
ううん。
知ってる。
これが『涙』って、分かってる。
悲しくない。
寂しくない。
苦しくもない。
だって楽しいから。
なのにどうしてこの『涙』は。
次から次から、出てくるの?
私の心には。
何にも積まれてないのに。
ただこうして。
ずっと、ずっと、ずーっと。
真っ暗なところで。
楽しく楽しく楽しく楽しく。
過ごしていければそれで良いんじゃない?
あぁ……。
た の し い なぁ ……。
「夜希……。起きて……」
遠くから聞こえる声。暗闇の中に、ひびが入る。
「夜希……」
うるさい、うるさい、うるさい……!
私は楽しいのに。邪魔しないで……!
「夜希……!」
……私の世界に入ってこないでよ!
「さっきから、何?うるさいんだけど!」
え……?
これは、私の声?
分からない。
だってこの世界で話したことなんて一度もないから。
そんな必要なかったから―――。
「ずっと、呼んでいた。あなたの事」
「呼んでた?」
何、この女の子。私をずっと呼んでた? 馬鹿じゃないの?
だって私はずっと楽しく暗闇の中に……。
「ホントに、楽しかったの?」
「は?」
「あなたがいた暗闇。楽しかった?」
「何言ってんの?楽しいに決まって……」
「泣いてた」
「……」
「あなたは、ずっと泣いてた」
「……」
「私は、あなたにやってもらわないといけない事がある」
「やってもらわないといけない事?」
「そう。あなたじゃないと、駄目」
「何で?」
「あなたは『夜希』だから」
「『夜希』?」
「あなたの名前」
ビシっと。
私の中で、音がした。
何かにひびが入って。
私が壊された。
残ったものは。
恐怖―――――
「名前、なんて、必要ない。私は、一人で」
「あなたは、『夜の希望』。夜希」
「嫌だ。いらない。私は、名前は……」
「そうやって、いつまでも、名前がないまま、逃げ続けてるの?」
「私はそれでいい」
「……そう。ならいい。でも、もしまだ少しでも自分を変えたいという心が残ってるなら、夜希として、この扉を、くぐりなさい」
扉。
暗闇の中に、ぽつんとうかぶ扉。
「この扉の向こう側は、一人の少女の悪夢の中。そこであなたは、夜の希望となってあげなさい。夢は夜見るもの。夢の中の希望。それが、あなた。彼女はあなたを必要としている」
「他人なんか、どうでもいい」
「どう思おうが、あなたの勝手。ここから先は、あなた次第。一つだけ言えるのは、私があなたの前に姿を現した以上、あなたの大好きな何もない暗闇の中には、あの扉があり続けることになる。それだけ」
私の暗闇には。
私と扉と二人ぼっち。
それからもう一人。
夜希と言う少女が、私の中に。
いやだ。
何かがあったら。
何もなくなってしまう。
なくなって、なくなって。
空っぽになってしまう。
いやだ、いやだ、いやだ。
このままじゃ、いけない。
扉。
……もう一度、名前を持って。
暗闇を取り戻すために動いてみようか。
空っぽになってしまう。
その前に。
都会。
扉の向こうには、都会が広がっていた。
行きかう車、立ち並ぶ高層ビル、蠢く多くの人々。
そしてその中で、異彩を放つ少女がいた。
この悪夢の主人公。
「何してるの?」
「考え事をしていたの」
考え事。
無駄な事。
だって、暗闇の中だったら。
何にも考えなくて良いから。
「私は夜希。あなたを助けに来た」
「助けに?何から?」
「この悪夢から。あなたが目を覚ましてくれれば、私は元の暗闇に戻れる」
思い出すだけで心地良い。早く、あの暗闇に、帰りたい。
「ここは、夢の中?」
「そう。夢の中。あなたは悪い夢を見てる」
「そっか……。夢の中、か……」
「……」
「あなたは?」
「私?」
「あなたは、何?」
「私は――闇が好きなの」
「暗いところ?」
「違う。何にもなくて、何でもあるところ」
「どうして私を助けてくれるの?」
「私が、あの心地良いところに戻るため」
「これは……夢?」
「そう。夢」
「それで、あなたは私を助けてくれるんだ?」
「うん」
「じゃあ、一緒に遊ぼう!」
「へ?」
アソブ。
一緒に。
遊ぶ。
アソブって……なに?
「いこ!」
「え、うん」
「ねぇ?夜希ちゃんは、何が食べたい?」
「え?私は、別に……」
「だめだよ、選ばなきゃ。イチゴのもあるし、チョコのもあるし、レモンのもあるよ!」
「じ、じゃあ、イチゴの……」
「ほんと?じゃあ店員さん。イチゴの二つください」
冷たくて、甘くて。
ほんのりイチゴの優しい味がした。
とっても、美味しい……。
「ねぇ、夜希ちゃん。今度はどこいこっか?」
「……」
それから私達は。
天高く上っていた太陽が、完全に姿を消すまで。
色んなところに行った。
色んなことをした。
その全部が、新鮮で。
その全部が――楽しかった。
あの暗闇で感じていたのとは違う。
――全く違う"楽しみ"の感情。
何にもないってことは。
何でもあるってことじゃなかったの?
――分からない。
私は。
このまま忘れてしまって良いんだろうか。
このままあの暗闇を忘れてしまったら。
もう戻れなくなるんじゃない?
「……」
「夜希ちゃん?どうしたの?今日一杯遊んだから疲れた?」
「……怖い」
コワイ?
ワタシハ。
コワガッテルノ?
アノクラヤミニ。
モドレナクナルコトヲ?
「え?何?」
「……」
――分からない。
考え事なんて、無駄な事なのに。
考える必要なんて、あの場所ならないのに。
「ねぇ、夜希ちゃん。今日一日夜希ちゃんと一緒にいて、私分かった。夜希ちゃんはとっても良い人。きっと私に協力してくれる」
「協力……」
「そう。夜希ちゃんだったら、手伝ってくれるよね?」
私がその時、彼女の目に見たものは。
私の心を強く締め付けた。
これは――恐怖?
「私ね、復讐してやりたいヤツがいるんだ。どうしても。夜希ちゃんは、協力してくれるよね?」
「やめれば?」
え……?
私は、今、なんて。
「やめた方が良いよ」
――ヤメタホウガイイヨ――
「夜希ちゃん……?」
じっと私に向けられた目は。
その目の中にはぽっかりと。
暗闇が。
私があんなにも心地良いと感じた。
それと全く同質の真っ暗な暗闇。
うそ……。
信じられない。
だけど。
私は確かにその暗闇が。
―――――怖い。
吸い込まれそうで。
無くなってしまいそうで。
そこに確かにあった優しい彼女が。
「『やめた方が良い』ってどういうこと?」
「それは」
「だって、夜希ちゃんは、私の友達でしょ?」
「……多分そうだけど」
「『多分』?『けど』?何?」
「そうだけど……」
友達。
私は彼女の。
ともだち。
ずっと、ずっと。
暗闇にいた私がこんな事思ってもどうして良いか分からないけど。
でもここでは。
考えないといけないから。
言葉にして、伝えないといけないから。
そうやって伝える事のある相手が、ちゃんといるから。
何でもはないけど、確かに大切なものがちゃんとあるから。
私には、今、名前があるから。
「私はあなたにそんなことして欲しくない。ここは夢の中かもしれないけど、でも、駄目。
それに、きっと、そんな事友達に頼んじゃいけない。私はあなたの友達。
だから。
友達だから。
そんな事頼まれたくないし、協力も出来ない。
でも、聞くことは出来る。
あなたが何を思って。あなたに何が起こって。あなたがどうして――優しいあなたがどうして、友達を巻き込んでまで復讐をしたいと思ったのか。それは、私が聞いてあげる。
痛みが分かち合えるなんて図々しい事は言わない。でも、話せばきっと、何かが変わるんじゃない?」
一生懸命だった。
思いついた事は、全部しゃべった。
だって、私は彼女の事が大切だから。
一日しか一緒にいてない。
でも。
私は、彼女と一緒にいて、とても楽しかった。
嬉しかった。
あの暗闇より彼女がいるこの――
この場所の方が。
ずっと、ずっと、ずーっと。
愛しい。
「……」
沈黙。
あそこでは普通だったこの空気が私に後悔させた。
あんたに何が分かる。
そう言われれば。
おしまい。
「……そっか。そうだね」
「え……?」
「思い出した。私は、夜希ちゃんを、置いてきちゃってたんだ」
「え……?」
「ありがとう、夜希ちゃん。……お帰りなさい」
なにが、起きて……。
私がそう思ったときには。
私はもう彼女の中にいた。
思い出した。
私は、彼女に捨てられたんだ。
あの日。
彼女が酷く裏切られて、傷つけられた日。
彼女の―――
違う、私の友達が私の宝物をずたずたにした。
最初は些細な言い争いだったのにそれがどんどんエスカレートして、友達はふと目についた私の手帳から、私がそっと挟んでいた写真を引き抜いた。
こんなもの、ずっと持ってるなんて馬鹿じゃない?
そうやって決め付けて私の友達が引き裂いたのは、私の大切な大切な父さんだった人の写真。
お互いに、頭にきてた。
でも、私の友達がやったことは絶対に、してはならないこと―――。
その瞬間に。
お前は要らないと。
私は彼女に、闇の中に、捨てられた。
私は彼女の、『良心』。
だから私は長い間暗闇の中で。
一生懸命平気なふりしながらずっと泣いてたんだ。
何にもないってことは。
何でもあるってことだなんて。
そんなの嘘。
だってそこには、私がいてしまったから。
何にもないなんてことは、ないから。
彼女の破片の私は。
彼女の一部で。
今私はやっと彼女の中に戻れたんだ。
長い間、私になかった感情が私の中で、溢れかえっている。
――嬉しい。
今までとは違う涙が。
私じゃなくて彼女の目から、零れ落ちた。
ただいま。
そう言ってみたら。
「おかえり」って。
「ごめんね」って。
私自身がそういった。
間違ってた。
良心を捨ててしまうということは。
人として、大事な大事なものを失うということ。
だから私自身もずっとずっと暗闇にいるような気持ちだった。
今なら分かる。
良心を取り戻した今なら。
あの時の自分と友達がいかに冷静さを失っていたか。
取り返しのつかなくなる前にどうやって、仲直りするべきか。
どうやって、これから友達に接していくべきか。
今の私なら、ちゃんと分かる。
長い悪夢は終わって。
私は『夜希』じゃなくなった。
ほんのちょっとだけ残念に思ったのはきっと――
私は案外、『夜希』って名前を気に入っていたんだと思う。
だって、キレイだから。
この名前をくれたあの暗闇で出会った少女に、私は静かにお礼を言った。
ありがとう――
やれやれ。やっと終わった。
長い溜息をつく。
あの子が、自分自身の『良心』を拒否し続けて、もうかなりの時が経っていた。そろそろ受け入れてもらわないと困るなぁ、と思っていたのだ。
でも、ようやく彼女が心を取り戻した時、小さく聞こえた感謝の言葉に。
少し喜びを感じた。
「終わりよければ全てよし、かな?」
久々に笑う。
そうしていたら、とぐろを巻くような深い深い闇の中から。
一粒の水が降ってきて、頬に触れた。
「今度はどんな子の心が、捨てられちゃったのかなぁ」
詠うようにひとりごちて、立ち上がる。
「今まではなかったけど、もしかしたら男の子かな? そう言えば、男の子の場合、名前考えてなかったや。流石に『夜希』じゃ、まずいもんねぇ。何が良いかなぁ……」
全ての言葉を吸収して。
闇はどこまでも続いている。
あの子が呟いた『ありがとう』が。
心の中にもう一度響いた。
どうしようもない感情が湧き出てきて。
思わず顔を上に向けて、呟いてみた。
「私はいつになったら『夜希』になれるのかなぁ……」
そんな言葉も虚しく消えて。
どこからかシクシクとすすり泣く声が聞こえてきた。
女の子かな?じゃあ名前は考えなくて良いや。
「私の闇は、こんなに濃いんだね……」
つかめないそれに手を伸ばして。
この手のひらに全部吸い込まれちゃえばいいと思ったけど。
やっぱりそんなのは全然無理で。
ただただ拳を握り締めた。
そんなことをしている間にもずっと。
すすり泣きは続いてて。
本当に泣きたいのは。
私の方だと。
言いたくなるのをぐっとこらえた。
「大丈夫。私が扉を用意してあげるから」
そんな独り言を呟いてみて。
声のする方へと向かう。
深い闇の中で。
私はきっと、いつまでも。
こうして、扉を作っていくんだろうな。
そんなことを思っていたのに。
声のしていたところには誰もいなくて。
ただただぽつんと、扉があった。
何が起きたか最初は分からなかったけど。
もしかしたら。
これはきっと。
私の扉――
私は『夜希』になって。
扉の向こうにいけるんだ――
信じられなかったけど、この扉がなくなっちゃうのも怖かったから。
急いでその扉を押し開けた。
私もやっと、この闇から抜け出せるんだ。
そんな期待に胸を躍らせて。
扉の向こうの世界に、足を踏み入れた。
そこには、田んぼが広がっていて。
その真ん中に少女がぽつんと立っていた。
私はその少女に近づいて。
にっこり微笑んだ。
Fin.
読んでくださってありがとうございました。
普通の状況ではない、という雰囲気を出そうと思ったのですが、少し不思議すぎる展開になってしまったかもしれません。
感想、指摘等ございましたら、お気軽によろしくお願いいたします。