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三章、私が誰なのか知っている?

 三章、私が誰なのか知っている?


             <一>


 クレアル収容所一階の奥の部屋で平然と和国の人々は実験に使用され、食べられる。それがグランという国に囚われた和国の人間の末路だ。

 部屋には文明の利器である蛍光灯の光で、薄暗いはずの部屋は朝日が目の前に拝めるかのように眩しく照らされていた。コンクリート剥き出しの部屋には多くのパソコンとそれから線で繋がっている巨体な機械の数々。実験台が離れた場所に置かれていた。

「実験体九八七九六の解剖を始めます」

 そう言ってメスを握ったスーツ姿の三十代の男性が物を見るような目つきで、手術台に横たわって眠り姫のように目を瞑る少女を軽視の視線で見下ろした。男性の他には二十代の女性が男性と同じスーツを着込み、両手には黒い手袋をはめていた。女性は食材を眺めるような無機質な視線を少女に向けた。二人の足は微かに震えていた。

 無理もない事だ。グラン国の大統領、見鳴雲であるあたしが解剖実験に付き添う事など、めったにないのだから。

「あたしがいるからって緊張しなくてもいいよ。当面の天敵であった和国は今頃、アリアボックスで滅んでいるだろう。天使の羽根程度で防ぎきれる程、あたし達の文明は柔くない」

 心の底から冷えるような含み笑いを浮かべた。

「そうですか、見鳴雲大統領」

 あたしを媚びた視線でじっと見つめる女性はそう言い、メスを少女が仰向けになっている手術台の横にあるテーブルに無造作に置く。

 その視線が妙に脆弱で役に立つとは到底、思えなかった。だから……。

「な、」

 女性は突然の腹部の痛みに慌てて自分の腹部に両手で触れた。腹部がない事に気付き、あっと大口を開ける姿をあたしは滑稽だと、唇をにやりと吊り上げた。女性は自分の両手を蛍光灯の光に晒して……両手から頭上へと一滴、血が垂れ、身体を地面へと反転させた。そのまま、絶命。

 突然の出来事に驚いていた男性の首も寸分の差なく、吹き飛んだ。

 あたしは彼ら二人の血の付着したメスを両手でお手玉のように弄び、眠っている少女を愛しむように見下ろす。

 神という存在はロストガーデンによる素粒子レベルにまで分解させるアリアか、もう一人の月見遥がしたような膨大なアリアを消費する時空移行のアリアで神から人に戻るくらいしか、永遠という牢獄から開放される事はない。それは退屈だ。だが……。

「人を殺す時のぐしゃって潰れる感触だけが面白い。あたしは根っからの殺人鬼だったのかもしれないよ? ねぇ、どう思う穢れを知らない少女ちゃん?」 

 少女は怯えた大きなエメラルドグリーンの瞳を渇開き、一呼吸……間を置いてから言う。

「しんじゃえ」

 掠れるような小さな声。それは少女の精一杯な反骨心から生まれた言葉だったのかもしれない。少女は手足を金属の輪のようなもので拘束され、身動きが取れない。多分、もうここから出る事は叶わないと、理解しているのだろう。

「随分と生意気な子ね。名前は?」

 少女の長い金髪の流美な線をなぞりながら、あたしは言った。

「ふゆか。あなたをたおすものよ」

 健気な少女だと涙を浮かべる様子もないふゆかを見つめた。

 頭痛がした。

『観空を! 観空を! 還して! どうして! どうして! あたしは復讐する。いろいろ頑張って運命は変わっていったのにどうして! どうして! あたしは世界に復讐する。その為に神になる』

 遠い過去、変わらない慟哭の中、死ぬ事で神に成りえて、完全な意志を手にしたというのに目の前のふゆかはそれを既に持っている。羨ましくなった。だが、世界を壊す為に観空がくれた力があるではないかと十一対の翼を発現させる。

「なるほどね。神様は残酷だね。本当に残酷だね。あんたでは倒せない! ケテル」

 宙に浮いたケテル―光輝く無数の剣がふゆかの円らな瞳に目視できる位置に浮かんでいた。あたしが片手で空気を捕まえるような動作をした後、光輝く剣の一つがふゆかの右足に深々と突き刺さった。

 それでも……ふゆかは泣かない。

 左足に剣を刺した。

 それでも……ふゆかは泣かない。

 両肩に剣を刺した。

 それでも……ふゆかは泣かない。

 息が絶え絶えにもがこうと手足をくねくねさせたふゆかを狂気の笑みを浮かべ、観察した。

「たおしてやる! ころしてやる! おまえを! ふゆかからかぜはを、ぱぱを、かあさまを奪ったお前を!」

「残念、殺せません」

 身体中、杭のように光状の剣を打たれたふゆかの死体を見下ろして侮蔑の眼差しを向ける。

 四肢を串刺しに刺されたふゆかは目を見開いたまま、絶命した。少女の眼からは涙のような血が流れていた。

 それにさえ、心を動かされる事はない。

 そう……あたしはみ……何かを失った。その喪失が人間らしい感情を忘却させてゆく。既にアリアマターが全身に回り、感情によって形成された記憶というものさえも蝕んでゆく。

「あ、あれ、あたしは誰なのだろうか……誰だ? 月見観空……それしか覚えていない。そうだ、観空の為に世界を壊すのがあたしの存在の全てなんだ。けど……観空と約束し……た……あれ、誰それ? あ、あたしは朝露ノ遥。世界を壊す神のはず?」

 頭を抱えたまま、その場に蹲る。そして、自分がわからないという悲痛な悲鳴が室内に木霊した。


 私とはーねぇ、以下略は思い思いのペースで暗い洞窟内を歩いてゆく。頼りになるのは、雫が手に持つ松明の淡い光だけである。淡い光が忙しなく上下していた。

「ぴょんぴょん、ぴょん」

 私の前をハエのようにステップして飛ぶ馬鹿姫という名のハエをどうしようか、顎に指を当て考え悩んだ。

 閃いたように目を瞬いて雫の肩を鷲掴みにする。

「う? 何、みーちゃん」

 振り向いた雫の頬をぷにっと指で潰した。私は自分の目論みが成功した嬉しさにほくそ笑んだ。

「うきぃいいいい!」

 姉としてのプライドが許さないのか、猿のように顔を真っ赤にしながら雫は片足を振り上げて柔らかい地面を何度も強く蹴る度に、飛び散った泥が雫の顔に付着した。

「うあっ」

 雫の足は予想外のモノを蹴った。その予想外のモノ―小石は美しい曲線を描いて横を歩いていたはーねぇの肩にぶつかった。

「痛い!」

 はーねぇは肩を摩りながら雫を横目で睨みつける。

「ひぃいいい、鬼がでたぁあ」

「こらぁ、待てガキ!」

 逃げた雫をはーねぇが追う。まるでか弱い兎と狩人の命を掛けた死闘のような様だ。私はそれを欠伸しながら見つめ呟く。

「緊張感のないお姉様方だ。お、パンの耳、食べよう。私にとってこれが精神安定剤なんだ」

 煙草を咥えるようにパンの耳を咥えた。そのまま、ゆっくりと手を使わずに口の中に入れる。

「あ、光がなくなった、観空たん」

「あ、そうだな」

「ほのぼのしないで下さいよ観空先生、冬架さん!」

「深瑠、それ以上寄るな、泥臭い」

 寄ってくる泥で出来た人間のように泥だらけの深瑠に対して、私は嫌悪な顔つきでしっしっと手を振った。相当嫌いなので、涙ぐみ、必要なまでに距離を取る。

 深瑠はその場に立ち止まり、嘆きの言葉を吐いた。

「これだから子どもは、こどもは」

「需要のあるロリっ子と需要のある女装少年は相容れないものだよ、と不思議っ子の冬架たん」

 肩を叩きながら哀れみの表情で深瑠の顔を覗きこむ。敵国から辛うじて逃げてきたような泥だらけの深瑠は訳が分からないと首を捻りながらも、とりあえず雫の言葉に頷いた。

「そ、そうですね冬架さん」

 微かに見える雫の持つ松明の炎を頼りに歩いてゆくと、私以外にとっては衝撃的な光景がそこにはあった。

 はーねぇは雫を片手で抱き上げて、雫の可愛い熊さんパンツを眼には留まらぬ速さで、何度も叩いていた。思わず、目を覆いたくなる悲惨な光景に冬架は両目を自分の手で塞ぐ。

「熊さんパンツたん、いと哀れなり」

 が、指の隙間からワザとらしく、雫の悲惨な光景を見入った。

「あれがはーねぇのお仕置き方法だ」

 私は指を差して平然な顔をして言うが、両足はマッサージチェアの如く震えていた。

「やめて! ください……。お姉様、それはあんまりです」

 両手をバタバタ激しく動かしながらはーねぇに審判を乞う。

 はーねぇは神話に出てくる優しい女神の微笑みで雫を見る。そして、裁きの言葉を下す。

「い、やぁ」

「ぎょえぇええ」

 馬鹿姫の悲惨な悲鳴が洞窟内に響く中、地面に置いてあった松明を私は手に取り、先を見通そうとしたが、松明の火が映したものは硬い岩盤だった。慌てて、ポケットの中からかあさまに貰った地図を取り出した。

 地図によると、私の立っている場所はクレアル収容所の武器庫の真下のようだ。

「収用棟へは繋がってないみたいだ、行き止まりだ。どうする? いっそう、我が偉大なる姉を放り込んで暴れているうちに私達が入り込むというナイスな案が」

「偉大なる姉ってやっぱり、雫ちゃんですか、照れちゃいます」

 偉大なる姉という称号に対して目を輝かせている雫は私の方を向いた。マジで本当にやりそうだと私は唖然とした。

「ふぅ……退いて遥たん。先に言っておくけどゴメン、殺す」

 はーねぇを見るギラギラした冬架の瞳が氷柱の先端のような殺気に満ちていた。

「え?」

 はーねぇの力が弱まった隙を狙って雫は猫のように柔軟な身体の捻りで飛び、手足で地面に這い蹲る。

 それに遥は気づく事無く、その場に固まっていた。

 冬架ははーねぇの力ない声を無視してアリアを紡ぐ。

―全ての主神。冬架はあなたの心に詩う。

 奉げるべきものは冬架の根源。

 示す奇跡は絶対障壁。何者にも侵されない聖域。

 冬架達を囲め、絶対障壁拡大。

 言霊は失われし神門、天使の羽根。―

 凛々しい女性の声が辺りを包み込んだ。それは奇跡を意思により具現する理力の詩。

 天使の羽根。和国の奥義として王家に代々継承されるアリアを、王家以外の冬架が難なく使用した事にその場にいる誰もが疑問の声を上げられず、立ち尽くした。

 怒りの感情が篭った冬架の大人びた顔つきがはーねぇを射抜く。

「冬架は朱と同じ人を慈しむ神の一人。遥に殺された年端もいかない少女、ふゆかよ」

 冬架はアリアマターで構築されたシャボン玉のような膜を全員の外側に創造する。それを徐々に広げてゆく。軋んでゆく冬架達の頭上が嘆きの声を発てた。

 軋む音に混じってはーねぇは叫ぶ。

「あたしは! あたしは! 絶対に冬架さんを殺さない。絶対……」

「無理。未来はね、変える事が出来ないの」

 冬架は優しく、もの悲しそうに微笑んだ。

「嘘だ!」

 はーねぇは青々とした表情を浮かべて、岩を両手で殴る。

「それを、それを証明したのは朱……他ならぬあなたよ。朝露ノ詩衣夏は観空を産み、あなたの育った平和な日本に送ったのよ! はぁああああ、広がれ!」

 冬架は両手を広げて障壁をさらに広げた。頭上の岩盤を強引に見えない圧力で破壊し続ける。洞窟はバランスを失い、所々落ちた天井が崩れ、私の上にも降りかかろうとしていた。

 思わず、私は近くにいたはーねぇの腰にしがみついた。

「かあさま」

 弱弱しい声ではーねぇを呼んだ。はーねぇは観空の顔を両手でそっと触れ、まじまじと覗き込む。

「似てるなって……本当の姉妹みたいだな……って。でも、あたしはそれでも嬉しい」

 はーねぇと私の姿を崩壊によって生じた砂埃が包み込む。

 濁った白い白い煙が全方向の視界を盲目にした中、私は深く頷いた。

 砂埃の霧が晴れ、はーねぇと私は仲むつまじく、互いの手を握り締めていた。

 冬架は自分が天井に開けた風穴を仰ぎ見た。

「雫たんには黙っていましたが、和国にいたのは観空たんのアリアの英才教育の為なのです。冬架たんは神といえども多少食事を摂取しないと死んじゃいますから、詩衣夏たんに頼み込んで澪姫たんの家庭教師というバイトをしていたのです」

 いつもの棒読み口調で暢気にもグラン国の公共施設を破壊したテロリストは言った。

「エクスカリバーと天使の羽根、は」

 雫が疑問を言い終わるのを待たずに下にいる私達に向かって数人の防護服を着た兵士が銃を向ける。銃で痛い思いをした事のある雫は咄嗟に冬架の影に身を隠した。

「撃て!」

 一人の兵士が他の兵士に檄を飛ばす。

 銃弾の音だけが洞窟内に響き渡る。

 銃弾は冬架が作り出した壁に阻まれて、殺傷力を生み出す速度を殺され、一発残らず軽快な音を立てて地面に転がった。

「あれ? おかしい」

 皆一様にその言葉に頷く。

 愚兵達は知らないのだろう。アリアという現代に存在する魔法に近い作用を、呼び起こす物質反応を知らないのだろう、愚かだと私は天井の光を浴びながら含み笑った。

「冬架たんの力の一旦です! こんなのも出来ます。言霊は風打つワルツ、ストームブレイド」

 冬架の紅袴が地面から昇ってくる風によって捲れる。その風が冬架の遥か頭上を目指す。


            <二>


「何か? もの凄い風が」

 不気味な黒の空間を凝視していた一人の兵士が片手で風を防ぎながら、横にいた兵士に話しかけた。

「まじかよ」

 そう言って覗き込もうと闇に目を凝らした横にいた兵士の首から上が、話しかけた兵士の肩にぶつかり、重量感のある音を立てて床に転がる。

 切り口はとても綺麗だ。まるでギロチンに掛けられた囚人の首だ。血も飛び散らない速さだった。

 それを一瞥して、横にいた兵士は肩を震わすしかなかった。

 が、それもすぐに終わった。

 だって、首がずれているのだから。

 闇から光差す天へと上がってきた風は魔王の如き猛威さを持って一瞬、兵士達に爽やかな疾走を提供しただけで全ての兵士を嬲り殺しにした。


          <三>


 銃声が全くしないのを、耳を澄ませて確認した後に冬架は指を鳴らす。指を鳴らすと風はぴたりと止まった。冬架は障壁を展開させたまま、私に目を向けた。

「観空たん、放出形のビナーをお願いします」

 私は頷くとすぐに実行に移す。

―我はイグドラシル。七つの世界の根源。

 奇跡は我の必然。

 示す奇跡は天空を翔る翼、地を翔る脚。

 天使の羽根を浮遊させろ。

 言霊は天空の覇者、ビナー。―

 私の詠唱したビナーによって私達はクレアル収容所に辿り着いた。

 左右には銃がずらりと並んでいた。私ははーねぇのような銃に対する知識は持っていないが、強力な黒々とした銃口達は並列に何段もの棚の上に無造作に鎮座していた。

 無機質な壁には真っ赤な鮮血が所々、飛び散っていた。その血を凝視しながら、殺すという意味を考えた。殺すというのは私の足元に転がっている兵士達のような肉の塊になるという事だ。

 私は数多くの生きている者を肉の塊に変えた。残酷に、機械的に精肉工場のように切り刻んだのだ。

 怖くなくなり、両足が震えた。あれ、こんな事なかったはずだが。

 視界が揺れている。行くべき、直線的な長い廊下が幾重にも見える。眼を擦った。それでも幾重にも見える。

 兵士の生前、足と呼ばれていた肉に足を取られ、私は転倒しそうになった。はーねぇが優しく私を抱きとめてくれた。耳からはーねぇの鼓動が入ってくる。

 どくっん、どくっん、どくっくんと。

「観空、大丈夫」

「わっぷぅ。ゴメンなさいはーねぇ」

 私は……

 どくっん、どくっん、どくっん。

 私は殺さないといけないのか? 優しいはーねぇの、未来のはーねぇを。

「ちょっと、どうしたの? 観空、急に泣き虫さんになっちゃって」

「私は殺せません」

「ん?」

 泣いている泣き虫の私の顔をはーねぇが覗き込む。はーねぇの赤い瞳は私がクラスで浮かないようにと、姉もそうなんだと見せる為のコンタクトレンズだ。

 はーねぇの髪に両手を広げて触れた。はーねぇの赤い髪は私がこれ以上、自分を殺さない為の精神安定剤だ。はーねぇのタンクトップにしがみ付きながら私は嘆く。

「はーねぇ、やはり殺せません。でもね……私は、私はただの殺人鬼だ。何人もの人間を殺したのにセフィという架空の人間のせいにして逃げていた」

「うん、知ってるよ。観空」

「私は死ぬべきなのだろうか、はーねぇ。罪を償う為に」

 優しく見守っていたはーねぇの瞳が瞳の色と同色の感情に染まって私の頬を引っ叩いた。

「観空は確かに悪い事をした。けどね、そうしなければ生きられない今の人間社会は狂っているんだ。いや、その予兆はあたし達の世界にもあった。カッとしたから人を殴った。こっちを見ていたから殴った。それが世界の真実。けどね、そんな世界色に染まっちゃ、駄目。あたしを殺すのは今までのピュアな心を持った観空じゃないと駄目。それはね」

「あ」

 私の瞳とは異なる作り物の赤い色から滴り落ちる涙を見て、私ははっとして冷静さを自分の頭の中に呼び寄せた。私にはーねぇの最期を託そうとしている。なんて絶望的で、なんて愛しいのだろうか。その愛しいという感情は全て、自分の思い通りにしたいという未成熟な者が誰もが描く感情だ。私の年代では色濃く心の中に残っている。私は自分を探す使命の為に淡い飴玉を投げ捨てて様々な本を読み解いた。

 私は様々な本―大人びた知性を今、一時捨ててはーねぇの剥き出しの真心に向き合う。

「最期の瞬間まで最愛の観空を見ていたいから。それがあたしの最高の死に方。ほら、観空」

 はーねぇは私の前に小指を差し出した。私はその小指に、自分の指を解けないようにしっかりと絡ませた。私は約束を必ず、果たすと頷いて、名残惜しむようにはーねぇの小指を離す。そして、様々な本を読み解いて得た知性で武装した未成熟な子どもに戻った。

 いつの間にか、姿が消えている深瑠、冬架、雫の後を追う為にまっすぐ、歩もうとした私の手を掴み、無理やりはーねぇの顔のある方角に向けられた。

「私が誰なのかを知っている?」

「えっ?」

「あなたは観空。優しいはーねぇの子ども」

「私は、観空。私ははーねぇの子ども。私は観空。私ははーねぇの子ども」

 私は舌の上で甘すぎる苺飴を転がすように何度も心の奥底へとその味を流し込む。

 名前は、観空。


           <四>


 遥に嫉妬した。

 胸を茨の生えた蔓に全身を束縛され、血を流すくらいに心は激しく揺れ動いた。

 雫ちゃんと雫ちゃんの従順なお人形である冬架、深瑠は色のないコンクリート剥き出しの通路を息つく暇もなく、激走する。雫ちゃんはこのメンバーで一番強くて可愛いので、一番前を意識的に走った。

「はぁああああああ! 私だけの人形なんだから、澪は! 澪は!」

 雫ちゃんは物凄く、今機嫌が悪いです。

 警告音がなる中、雫ちゃんは発動したミョルニルを握り締める。手を塞ぐ兵士―醜いお人形をミョルニルで乱雑に殴り倒してゆく。

 一体目、二体目のお人形は頬が変な形になった。思わず、笑ってしまった。醜い!

 三体目、四体目のお人形は歯が数本吹き飛んで床の上で血を吐き汚し、悶え苦しんでいた。最近のお人形の創りは手抜き工事だ。何も可笑しくないのに、笑ってしまった。ダサい!

「ひぇええ、血が飛び散ってますよ、冬架さん。僕、今日眠れなくなりそう」

「へタレだな、深瑠たん。エクスカリバー無しで戦う直線的な雫たんもこういう狭い道では強い。馬鹿を馬鹿にしてはいけませんね。馬鹿と天才は紙一重」

 深瑠と雫の二体のお人形もちゃんとついて来ている。世の中にあるお人形の種類は二つしかないと雫ちゃんは信じていました。一つは冬架、深瑠、和国のお人形のような雫ちゃんに絶対服従のお人形。もう一つは今、雫ちゃんの足元に無造作に転がってぴくりとも動かない不細工お人形、雫ちゃんの足元で許しを乞う不細工お人形のような敵対するしか脳のない不細工お人形。

 澪という妹が生を受けるまではこの世界で人という種は雫ちゃんだけだった。昔鑑賞した宇宙人が地球に侵略するSF映画のように、澪は私の席を奪うんだという恐怖。

 けど、雫ちゃんはそれが恐怖だと始めは理解できなかった。だって、人形しか世界に存在しなかったのだから。

 雫ちゃんは自分の足に何か、生温い感触を感じて俯く。足のないお人形が雫ちゃんの足を握り締めていた。まるで命綱であるかのように。

「助けてくれ、お願いだ! 何でもするから」

 臭い息が雫ちゃんの足に当たっている。邪魔だ、不細工お人形!

 雫ちゃんはお人形が足に巻きついたまま、足を壁に横薙ぎる。

 不細工お人形は壁に頭から突っ込んだ。

「う」

 そんな低い声を出して雫ちゃんの足からようやく、離れて壁と熱いベーゼを交わす。最後に不細工お人形は壁に鮮血を描き、事切れた。

 だからね、何の感情も沸かない。全ては演技です、えっへん。

「凄いです、みんな倒すなんて。流石はアリアマスター 朱、兵器 月見観空に次ぐ……」

「みーちゃんは兵器じゃない。人だよん、深瑠」

 雫ちゃんは馬鹿ぽい、何も考えていない天真爛漫に深瑠の肩に指先を芋虫さんの行進みたく這わせる。

 人であるからみーちゃんを憎しみ、同時に愛しているんだ。殺したいくらいに。

「おつ、馬鹿姫。最後の仕上げは真打、冬架たんに任せなさい」

「ちょ、ちょっ! ズルイ」

 そう口に出したが、雫ちゃん的にはどうでもいいのです。それよりも別の事柄が気になりました。冬架は雫ちゃんの間合いに簡単に侵入し、差し障りなく、自然に雫ちゃんの背後で棒読みで抑揚なく喋った。神という選ばれた者のみが到達する極みとはどれほど、底知れないモノなのだろうか。

 動揺する雫ちゃんを冬架は横目で一瞥した。

「ハイエナは賢いんですよ、雫たん」

 冬架は正面にある鉄の扉の前で立ち尽くし、ぶつぶつと口を忙しなく動かし始めた。アリアを詩っているのだろう。予想通り、冬架の手には鉄さえも溶かせそうな赤々とした炎が集約されていた。威力は壮絶なものだろう。雫ちゃんは見守ろうとした。

「はーねぇ、やっぱり運動、して」

 微かだが雫ちゃんの耳に舌足らずなキュートで愛らしい声が入ってきた。雫ちゃんは逸早く、みーちゃんに会いたいと駆け出す。

「みーちゃん!」


           <五>


 相当、走った。膝が悲鳴を上げていた。

 十一対の翼を通して体内にあるアリアマター、感情共鳴物質を神経強化、肉体強化に使用していなければ、自分は十一歳の子ども並みの体力しかないのだ。

 ここに来る間の辺りの風景は惨たらしいもので、吐き気を催す程だった。

 人間の力によるものではないアリアのような強力な熱を発する現象によって絶命し、そのまま放置された死体の形は異様だ。横頬が完全に炭と化して絶命している黒い防護服を身に着けた兵士や、口を焼かれたまま放置されて悶え苦しんだのか、壁には血が転々と付着させて冷たい床の上で黒い防護服を着た兵士が仰向けになっていた。そんな殺伐とした風景の中を走り続け、ようやく冬架達の姿を目視する。

 前方に見える鉄の扉が中心から赤い円形を拡大させて、遅れてその中心から腐るように空洞が拡大していた。扉の目の前にいる冬架という構図から、それを成し遂げているのは冬架だろう。

「みーちゃん!」

 雫が私へと両手を広げて走ってくるが、敢えて私とはーねぇは無視して鉄の扉の向こうへと滑り込むように走り向けた。

「う」

「何、この匂い?」

 口々に私とはーねぇは言い、鼻の穴を指で摘んだ。

 周囲には悪臭という言葉を何回重ねても足りない程の悪臭が、形を持っているかのように私へと襲い掛かってきた。その悪臭の根源を探る為に周囲を見渡す。

 部屋の大きさはプレハブ小屋を四つ程足したくらいの規模だ。暗闇で何か大きな無数の影が蠢いている気がした。

 よく、目を凝らすと老若男女三十人以上の人間が生気のない顔をして身体を仰向けにして、手足を汚物塗れの床にだらりと預けていた。皆が同じような布切れのように薄いローブを身につけていた。それ以外の装飾を身に付けている者は誰一人いなかった。何人か異変に気付き、愚鈍な動作で視線をこちらに向けるが、誰も喋ろうとはしなかった。

 しばらくして、

「だ……れ……あなたは、わたしたちを……ころすの? たべるの?」

 青い髪の痩せ細った少女が力ない声で怯える事もなく、無表情でじーと、見つめた。人形のような蒼く濁った瞳は私には何処か、浮世離れしている気がした。 

 少女の身体は足も、手も、首もお腹もまるで小枝のように細く、理科室の骨格標本のようだった。重力に逆らい、頭の天辺の毛が何本も逆立っている。私はそれが怖くて何も言えなかった。そんな私にはーねぇは静かに頷いてから、逃げようともしない少女の目線に合わせて屈んだ。

「あたしは月見遥。あなたを助けに来たの。怖かったでしょう? もう、大丈夫だよ」

「たすけにきたってなに?」

 生気のない人形のように棒立ちしている少女は微動だにしなかった。栗鼠のような小さな背丈は私と同年代の少女が有する特徴だが、はーねぇが向かい合って会話している少女は、栗鼠は栗鼠でも弱りきり、自分が弱っている事にさえ気付かない栗鼠だ。

「え、あ」

 小鳥が鳴くような呻き声を上げ、はーねぇは狼狽えた。そのまま、思考が停止する様相を見せるはーねぇを流し目し、

「助けにきたって意味も知らないの、一般少女?」

「な! おまえ、同じ背の癖に! 兵器の癖に!」

 私の心無い言葉に少女の凍った時計の秒針は再び、刻み始めた。それは誰もが目を見張る変化だった。少女は覚束ない生まれ立ての子鹿みたく、私の方へと徐々に近寄り、両手をぎゅっと握り締めてきっ、と頬を膨らませて威嚇する。

 構わず、私は一息してから捲くし立てる!

「だがな、一般少女。私の背には希望が満ち溢れていてどんな絶望の闇でも、まるで東京タワーの鮮やかな平和ボケ光の如く、輝いているのだ。お前は自由の女神の再来のような兵器、月見観空と比較して。いや、私に失礼だな、これは。お前は一言で言うなれば薄汚れた、」

 私の言い付けを守り、腐ったジャムのような黒々とした血のべっとりついた壁をじっと、眺めている深瑠を一瞥し、

「深瑠の影のようだ。お、哀れ、背筋が凍る。馬鹿姫よ、私を暖めろ」

 相手にされずにしょんぼり、体育座りして、収用されている人々を指を差しながら一、二、三……と数えていた。段々と目は虚ろになっていたが暖めろという単語を聞いた瞬間、びくっと身体が跳ね上がった。

 少女は雫を怯えた表情で凝視した。

「あの怖いゾンビみたいなのが、流々達を統べる王女様なの。信じられない!」

「はいな、みーちゃん。むぎゅーん」

 可哀想に微々たる国民の信頼がまた、一雫減ったなと私は優しい眼差しで私のスリムな胸の中に顔を埋める馬鹿姫を殴った。

「痛いよ、みーちゃん」

「役目を果たせ、馬鹿姫」

 私は雫の背を押し、はーねぇの隣で顎に手を当てながら難しく眉毛に寄せた冬架を手招きした。

 冬架は私の意図を理解したのか、即座に頷くとゆっくりと言葉を諳んじる。

「言霊は真なる悠久の王、冬架」

 冬架の身体が眩く白い光に包まれて、人である証の四肢が消えて、丸いボール状の形に変質する。それを冬架と知る私達以外の人々は指を差し、それぞれ口々に熱狂の声を上げた。

 その中で一際、甲高い声が狭い室内に響いた。五歳くらいの男の子の声だ。

「アリア……でも、あんなの観た事ないよ、ママぁ!」

 小さな男の子が瞼を瞬き、黒い宝石を揺らめかせた。小さな男の子の母はその透明な澄んだ瞳に微笑んだ。

「あれはね、お姫様だけが許されている剣よ。ふぅ、ふっ……」

 母親は浅く、何度も息を吐きながら瞼をゆっくりと閉じた。閉じた瞳からは一閃の涙が零れ落ちて閉じられる。雫を見つめていた若い母親とは思えない老女のように衰退したやつれた顔立ちだったが満面の微笑みを浮かべ、かっくと頭を頷いたまま、止まった。

 止まった意味を知らないであろう男の子は何度も母親の名前を呼び続けている。

 アリアは完遂されていた。雫の両手に実量を持った黄金の柄を有する両刃の巨大な剣が具現化されていた。天井を掠めるような長さを持つ剣の先端を不安そうに見つめている雫に痺れを切らして私は雫の両手に両手を添えて半ば、無理やりに天井へと掲げる。

 私の顔を雫は一瞥してから意味深く、口の両端を横に広げた笑みを浮かべた。

「私は朝露ノ雫。こちらは私の妹、朝露ノ……観空! あなた達を救出に来ました」

「馬鹿姫」

 私の呟きに構う事なく、言葉を続ける。

「朝露の姉妹が、エクスカリバーに誓おう! お前達を祖国へと連れて行くと!」

 多くの人々が一つの巨大な柱のような刀身を眺望し、強弱、リズム様々な拍手を打つ。

 雫はどうも、どうもとお辞儀をした。私はピンク色のランドセルを地面に置こうと屈むが思い直してリュックサックを投げた。

「みーちゃんの私物、ナイスキャッチ、雫ちゃん」

 拍手が巻き起こすリズムのみの音楽に勝手な歌を口ずさみ、飛んだ。見事に雫の前腕にすっと、ピンク色のランドセルの革紐が通された。

 雫という持ち手を失ったエクスカリバー、冬架は即座に眩い光を放ち、人の姿に戻った。鉄仮面のような無関心を装っているらしい冬架はピンク色のランドセルに頬擦りを何度もしている雫から、ピンク色のランドセルを奪い取る。

「雫たん、良い判断です。使いこなせませんから、言う手間が省けました」  

「む、今の雫ちゃんにはみーちゃんのくれたランドセルがあります。それだけで雫ちゃんはパワーアップ出来る気がしちゃっているのです。そういう訳で返しなさい!」

 冬架は迫り来る雫の腕を掴み、ちっちっと舌を鳴らして侮蔑の視線を浴びせた。

「あの……雫姫様、どうやって流々達は脱出すれば良いのでしょうか?」

 流々が人々の代表をして当然、疑問に沸く言葉を恐る恐る、問った。

 しかし、流々の声は緊張感いつでもナッシングな雫の耳へとは入らなかったようで、雫は冬架の肩を繰り返し、両手の拳で激しく叩いていた。

「そこの一般少女、私が教えてやろう」

「観空様が、ですか。小さな流々達、子どもは大人達のい、いけんを聞いてした、したがうべきです」

 珍しいモノを見るかのように私の顔と身体つきの間を透き通るアクアブルーの瞳が上下し、普段使い慣れていない事が誰からも明確にわかる淀んだ口調で言った。

 多分、同じ年齢だと推察しているのだろう、私は十一歳の立派な大人だと反論しそうになったが、口を噤む。やっと、冬架から雫の手へと渡ったピンク色のランドセルから無言で地図を取り出し、クレアル収容所の構図を睨むように確認した。

 しばらくして、ふっと溜息と共に感嘆の声が私の口から紡がれる。

「何処の建築物も同じようなモノだ。外からの防衛は強固な癖に、内からの防衛には脆弱だ。笑いがおかげで漏れそうだ!」

 口を地図で押えて込み上げるクレアル収容所を建設した愚者への皮肉交じりの笑いを抑えた。地図から比較的に新しい紙特有の生クリームのような甘い香りがした。

「ふぇ?」

 何も理解できていないという小鳥の囀るような声を目の前にいる流々は上げた。その流々の口の中にピンク色のランドセルから取り出したパンの耳を近づけた。

 流々は余程、お腹が空いていたのか、すぐにパンの耳へと口ごと突撃した。

「どうだ、病み付きになる食感だろう?」

「パンの耳でしょ、ただの」

 そう言う割りにはもう一つ、頂戴と言わんばかりに口をもぐもぐさせながら手のひらが私の方へと向いていた。


            <六>


 様々な困難があるという予測は全く立ててはいなかったが、静寂したような似たような縦長く横狭い廊下を何度も通過した。やっと発見した何の特徴もなく、細長い蛍光灯が朝のように明るくしている階段を上がる。

 残念ながら私のパンは無限にある訳ではなかったので、囚われていた彼らの意見も取り入れて結局、流々のような小さな子ども達に全て与える事となった。私はその出来事を思い出しながら、自分もパンの耳を獲得する為にカラスと戦った辛い記憶を……。

「パンの耳はやはり、偉大だな」

「観空、疲れたのならはーねぇの背に乗りなさい」

 はーねぇが振り向き、手を伸ばす。私は首を横に振った。

 それを確認したはーねぇは流々の手を握り締めて颯爽と階段を駆け上がってゆく。それに続くように囚われていた人々が私を追い抜かして我先へと、希望の光がその先に在るかのうように走った。ある者は一段、階段の段差を抜かして飛び跳ねていた。

「マズいな。この先には……おそらく。誰も阻む者がいないという点から、な」

 何時の間にか、自分以外の吐息が耳へと入り込んでいた。私はふと、首を横に向ける。

 私の横側を淡々と変わらぬ機械的な両手の振りと足運びでツインテールを私と同じく靡かせて階段を駆け上がる冬架に、私は囁くように言った。

「さて、冬架。お前は朝露ノ遥に因縁があるようだが、殺すのは私の役割だ」

 冬架は私を一気に追い抜かし、階段の踊り場の中心部分で両腰に手を充て仁王立ちした。私は冬架の異様な変化に気付き、足を止める。

 見えない威圧の塊、空気の厚みが私を敵のように血走った翡翠の双眸で見下ろす冬架と、冬架を見上げる私のレッドスピネルの双眸、両者の合間には形成されていた。

 どちらも動かない。一秒という時間が一時間に解釈され直した沈黙が続く。

 踊り場付近に設置されている壁際の蛍光灯から、ぱちっと単純な音と共に一匹のどす黒い蛾が何度も……蛍光灯に繰り返し身体を激突させた。

「罪人の妹に殺せるわけがない。死ぬっていう事がどんなに辛いかなんて分からない癖に」

 震えた声で腹の底から冷たい感情を吐き散らす冬架。

「はーねぇを殺すのは私の役目だ! はーねぇから頼まれたんだ!」

 自分でも驚くほどの声が階段中に反響した。

 私の怒り狂う声に反応したのか、自分の心臓の鼓動が激しい波紋を生み出し続ける。色様々な十一対の翼が出現した。

「本気ですか」

「本気だ。あれはもう、はーねぇじゃあ……ない!」

「そうですか。行きなさい」

「え?」

「行きなさい!」

 冬架は叫んだ。そして、いつものナマケモノのような顔つきで言葉を続ける。

「冬架たんの復讐心よりも、姉を殺害しなければならない観空たんの方が辛いから。観空たん、ゴー」

 私は頷き、アリアを口ずさむ。すると、私の身体が中空に浮かび上がった。

 振り向くとピンク色のランドセルを両手で包んだ雫が恍惚な表情を垂れていた。スキップなんぞをしている。

「みーちゃん、行くんだね」

「雫、ちゃん。私は戦う。セフィではなく、朝露ノ観空の戦いをする」

「痛いよ、きっと」

 雫は姉が妹を心配するように眉を顰めてさめざめと泣き、私の指先に触れようとする。

 私は静かに首を振り、天井を仰ぐ。

 天井にはステンドグラスに描かれた二人の女性の絵が目を細め、ぼんやりと見えた。

「それでも、戦う。生きる事は痛みを伴う事だから! 今度こそ、生きる!」

 前腕をぎゅっと掴み、一気に飛翔する。

 一閃の眩い光が両目に注ぎ込む。だが、視線を逸らさない。きっ、と睨みつけた。

 ステンドグラスの天使と悪魔の詳細が徐々に私の赤い瞳に晒されてゆく。両手に光状の剣を携えた両端の黒髪を紫の薔薇で束ねた白いローブを纏った少女と、肩まで伸ばされた黒髪の少女が互いに睨み合っていた。

 私はその絵の真ん中を打ち砕くように、

「言霊は大いなる輝き、ティファレト」

 十一対の翼の内、黄色の翼が濃い輝きを放ち、私の四方に光状の壁が形成された。

 ステンドグラスという壁を構う事無く、突撃してゆく。頭上の光状の壁にグラスが当たり、一瞬間にして砕けた。飴のような粒となったグラスは地へと堕ちていった。その行方を見届ける事無く、私は青い色へと吸い込まれた。

 何処までも透き通った青色は空だった。それは穏やかではない私の心にはないものだった。両手を伸ばして空を掴もうとした。

「やはり、か」

 私達が目指していた屋上には私の推測通り、プロペラの付いたミニチュアのようなモノが見えた。それも何台も規則正しく、横一列にお行儀良くしていた。私のいた世界ではヘリコプターという名前で広く知られていた。視線を横へと移すと、東京と同じような町並みが広がる。赤い細長い三角形の建物は紛れも無く、東京タワー。この世界では既に消え去ったそれと瓜二つだった。それを囲むようにして見慣れたコンクリートジャングルが生えていた。大小様々な木々―ビルの合間を縫うようにして、蟻と大差ない規模の人々が右往左往している。また、視線を移すと、錆びた茶色い二本のレールの上を物凄いスピードで走行する列車の姿も目に入った。それが通過した付近には巨大な看板があった。髭を生やした短髪の中年男性がビンを握る写真がプリントされていて、

 三年目にして新しい境地にグラン栄養ドリンクは生まれ変わります!

 と日本語で書かれていた。

「和国以外に日本語を、何故だ。和国の人々を周囲の国は嫌っているはずだ。その国の標準語」

「観空、『我が闘争』を著作したのはだぁれ?」

 それを口にした朝露ノ遥は私の首に両手を回して頬擦りをした。嫌な気持ちにはならなかった。このアイロニーに富んだ声の主は私の姉、月見遥の一つの可能性なのだ。

 気を持ち直して、私は朝露ノ遥の両手を振りほどこうとした。

「そう簡単に解けないよ、同じ十一対の翼。神姫って呼ばれ、神から恐れられている観空と同じ翼があるのだから。さぁ、『我が闘争』を著作したのはだぁれ?」

「アドルフ・ヒトラーだろう」

「随分と不機嫌だね、観空。めっ」

 朝露ノ遥は笑う。私の背中にくっ付いた朝露ノ遥のお腹が前後に蠢いていた。私が口を開く前にさらに言葉を続ける。

「観てよ、市民の陰気な顔を! 本当の自由は不自由から生じる恐怖にこそ、あるのよ。これがあたしの『我が闘争』の成果。観空が暮らしやすいように日本のような外見にしてみたんだ。さぁ、観空、世界を壊そう」

 私の視線の先には生気を無くした人たちがこのドタバタ劇の中でも、日々を営もうとする姿だ。朝露ノ遥の言葉通り、人々は何処か、生気を失った機械的な動きをしていた。

 歯を噛み締める。

 まるで、私の怒りが解るように、笑った。その笑顔は観空、ご飯よ、の笑顔に似ている。だから、叫んだ!

「記憶を亡くしたら、人はこうまで自分を忘れられるのか!」

 全身から流れるアリアマターを一気に放出させて、光の波へと変換させる。波は私から外れて周囲に流れた。朝露ノ遥はそれに戦き、私の身体から離れる。 

「言霊は最期の剣、ケテル……。集約、マルクト!」

 空中に出現した光状の無数の剣が針山の如く、重なり溶け合って一つの剣を生み出した。私は空中に浮かぶその剣を手に取る。私のアリアの中でロストガーデンに継ぐ偉力を持つマルクトは赤く刀身が塗装され、柄にはルビーの宝石が無数に散りばめられていた。

「風羽、冬架! 私は朝露ノ遥を撃つ! 遥、あなたの存在が人々に悲しみをもたらす」

「マルクト、ケテルを無数に圧縮した剣。あたしを殺すの……観空!」

 悲痛な叫び声が私の耳の中に入った。決意が、揺れた。

 朝露ノ遥を見つめる。肩まで髪の伸びた、すらりと流れる赤い髪。紺色の上衣を着込み、紺色の下衣と上衣の合間から覗くへそ。背中には二本の金色の鞘を交差させていた。

 違う、こんなのはーねぇじゃない。

 朝露ノ遥は唇の片端が歪んだ。その歪みが哀れに思え、かつての言葉を蘇らせた。

『最期の瞬間まで最愛の観空を見ていたいから。それがあたしの最高の死に方』

「殺します、はーねぇ」

「ケテル……」

 残念とばかりに朝露ノ遥は肩を竦め、指を鳴らした。

 百、二百をも越えんと無数に増殖する光状の剣が空中に生える。増え続ける剣に囲まれてゆく朝露ノ遥という光景は、私には異様に映った。

 光状の剣を右手に一つ、左手に一つ、手にして朝露ノ遥は空を三度、斬る。

「観空、動けなくしてあげる。世界がロストガーデンによって消滅してゆくのを見つめましょう」

 充血した絡み合った蔓が赤く着色され、白目に存在していた。そんな珍しいビー球のように見開いた朝露ノ遥の瞳が私の心を捉えた。

 私はぎゅっと、柄を両手で垂直に構え、握り締めた。 

「はーねぇ! はーねぇ! はーねぇ! ごめん!」

 紺色の膨らんだ右胸と左胸の間に存在する心臓部分だけに狙いをつけて、朝露ノ遥との距離を一気に詰める。

 一息の間もなく私の身体をあらゆる方向から、切り刻もうという意思が芽生えているかのような瞬く輝きを放つ剣が俊足、駆ける。

 私は意図も簡単に身体をダンゴ虫のように丸ませて回避する。

 再度、心臓を突くという明確なイメージを心に描き―

「あぁああああ、まだ!」

 唐突に生暖かいという感覚が生まれ、痛みが生暖かいという感覚の中心に一滴垂らされた。垂らされた痛みが布巾に染み込むようにじわりと。

 音も無く、身体に異物がめり込んでゆくのを私は呆然と見つめた。

 ただ、痛い。右肩に刺さった針のような剣、同様のモノが左肩、右足、左足。両前腕にも突き出っていた。ただ、痛いんだ!

 マルクトを手放し、私は右前腕に刺さったケテルを抜き落とす。興味本位に見た右前腕に巻かれた水色のリボンは、私のクリアな赤い瞳とは比較にならないどす黒い赤いリボンになっていた。

 小指へと赤い血線が流れ出し、下界の人々が行き交う交差点へと落ちてゆく。

「あああ、あああ、ああ、ああ。はーねぇ」

 透明な水によってぼやけた視界の先には、私を嘲笑する朝露ノ遥がいた。私は手を伸ばした。

 助けて、はーねぇ。

 その願いも空しく、腹部に鋭敏な光の剣が突き刺さった。

「お眠りなさい。いくら、観空でもケテルの乱撃からは逃れられない」

「痛い、痛い。言霊は痛覚変容、イェソド」

 虫の息を口の中に留め、期待を含めた力強い声で言った。

 赫然と背にある紫の翼が光る。その光は一瞬、私の視界を遮った。

 痛みが身体から抜けてゆく事に安堵し、赤いリボンに付着する青色を見た。この青色以外は、

「血」

 人間は血溜まり風船だ。血が抜けてしまえば萎んでしまうと、壊れてしまう!

 死への恐怖、未知の痛み、死の向こう側といった大小様々な悪寒が一斉、背筋を走った。

「勉強不足、観空。幾ら、痛覚を消したとしても血というモノがあなたの精神を崩壊させ」

「あぁあ」

 眠気のような欲求が襲う中、私は瞼を瞬いて逆らおうとした。

 朝露ノ遥が私へと歩み寄り、両手で私をオブラートに包んだ。

「おやすみ」

 はーねぇであった頃の満面な笑顔を見せる朝露ノ遥からそっぽを向いた。

 偽りだと目頭を熱くさせながら、朝露ノ遥の両手を振り切る。

 それが最期の力だったのか、背にある十一対の翼の感覚が消えていった。同時に私を大空に羽ばたく鳥の如く飛翔させていたトリックが掻き消えてゆく。

 落下。

 スローモーションな情景。みずぼらしい青空に一点だけ、真ん丸とした梅干お日様が在った。

 落ちてゆくという感覚に恐怖は無かった。

 私と軟らかな空気との衝突によって奏でられる子守唄にただ、疲弊した身体を委ねた。

 ふんわり、ふんわり、ふんわり、ゆらゆら、ねむりましょう、わたしのおにんぎょう。

「しずく……ちゃん」

 ふんわり、ふんわり、ふんわり、ゆらゆら、ねむりましょう、かわいいむすめ。

「はーねぇ……かあ、さま」

 自分でも笑窪の形が、小弓な形が分かるくらいだ。瞼を閉じた黒い世界の中で私はそう思った。


             <七>

 

 あたしは迫り来る和国の人々の壁に巻き込まれたら階段から転落しそうと怯えながらも、屋上へと辿り着いた。腕で汗を拭う。

 目の前には飾り気の無い漆黒のヘリコプターがあたしの目に飛び込んできた。あたしは不愉快な溜息を吐く。

 驚いた事にあたしがいた世界と同じようなビルが幾つも顕在していた。ビルに付属されている看板には日本語で会社名が記載されていた。あたしの知っている世界に名立たるムニーの名もあった。確かに日本の存在していた場所にグランがあるのだから、在り得るには在り得るが、気味が悪い。

「一番、乗りか! やっぱり、卓球で……鍛えた……」

 右のヘリの在る場所へと駆け寄ると、そこにはまだ、屋上に上がってきていないはずの朝露ノ観空がコンクリートの上に仰向けになって、眠っていた。

 レッドスピネルにも負けない赤い髪のツインテール少女、観空の身体のあちらこちらに刺し傷があり、例外なく血が溢れている。

 血の海に沈んだ観空をあたしは割れ物のように大切に両手で掬った。

「はーねぇ。来ちゃ駄目」

 目をゆっくりと開けた観空は弱弱しい声で言った。

 観空の視線を追ってゆくと、遥か頭上に人影が見えた。あたしは鏡に映った自分を見るような首を捻りたくなる不思議な感覚に包まれた。それもそのはずだ、あれはあたしなのだ。

「朝露ノ遥! 妹に、妹に何をしたぁああ、降りて来い!」

 パトカーの赤色灯のような丸い照明と照明が地面に均等な距離であたし達を囲んでいた。その中に赤色灯の赤とは違う赤をあたしは見つけ、駆け寄り手にする。

 その赤は何億戦と血の雨を潜り抜けた凶暴さを称えている刃の塗装を持っていた。強く両手で握り締めた柄には豪奢なルビーがふんだんにあしらわれていた。

「人間がマルクトを使えるか! そうか、あたしはあたしだったわね。そう、あんたのせいで観空は」

 金切り声を立て、光状の剣を持った朝露ノ遥はあたしの頭上を狙うようにして降りてくる。何故か、あたしには避ける余裕があるという錯覚めいた予測が頭を過ぎた。

 誰かがあたしにその意思に従えと囁いた気がした。

 あたしは朝露ノ遥の剣先を紙一重で一歩、後退して避ける。その動作と連動して手に持った剣を振り、朝露ノ遥の首筋を横薙ぎろうとした。

 剣先に硬い衝撃が生じる。

 空から落ちてきた無数の光状の剣に剣先は行く手を阻まれて剣を一旦、構え直すしか無かった。構えるといっても、剣を持った事など、深瑠のケテルしかないあたしはとりあえず、自分の身体の中央に剣がくるように前方に構えた。

 膝を地面についた紺色の制服を着た背には色数多、鮮やかな十一対の翼がしなやかに輝いていた。それを背に持つ女性、朝露ノ遥がこちらに冷淡な眼差しを送る。まるで何かに度胆を抜いているかのようだ。

 何事もなかったように朝露ノ遥はけたけた笑い、指を鳴らす。何度も、何度も。

 その指の音に応じて無数の剣先があたしを目掛けて、一斉に突貫する。

 先ほどの一撃であたしの持つ剣は重さがない事が判明していた。肩の事を考えず、構わず、ただ、がむしゃらに剣達を叩き落す。

「ケテルか、剣。剣、剣。素振りの練習は嫌いだって忘れたのか、あたし!」

 剣を在らぬ方向、空へと飛ばしながら慟哭した。

「面白いよ、あたしとあたしの殺し合い。何故か、殺すって事が楽しい」

 喋りながらでも、朝露ノ遥の指を鳴らす動作は止まらない。

「あんた、観空のお姉ちゃん失格よ。子どもには暴力は駄目。今の時代はゆとりなんだから、」

 観空を想う度にあたしの持つ剣は刃を赤く、眩く……輝かせた。剣をぎゅっと握り締め、振り子のように加速度をつける。

「ね!」

 加速度の付いた赤く輝く凶刃は当たりもしない無数の剣事、激突した剣先の羽根のように軽い光状の凶器を空に舞い上げた。

「小説家如きが! マルクト!」

 あたしに吹き飛ばされた剣が統率力を持つかのように直線を描いて、朝露ノ遥付近の中空へと集まる。

 集まった剣は自ら光を放ち、その光へと溶け込んでゆく。構成されたのは赤い刃を持つあたしの持っている同様の剣だった。

「あんたも元小説家でしょ。それにね、あたしはただの小説家じゃないの……。主人公が必ず、勝つ小説を書く小説家なのよ」

「はーねぇ」

 仰向けに倒れているはずの観空がいつの間にか、雫と冬架の手を借りて、あたしの所へと歩んでくる。雫は朝露ノ遥に頭にきているのか、いつもの天真爛漫な笑みはない。冬架も同様だろうが、常にクールを猫かぶりしてきた彼女の無表情は理解できない。

「みーちゃん、今こそだよ」

「馬鹿姫、エクスカリバーを借りるぞ」

 珍しく、真剣な雫の声に呼応して弱弱しい観空の声が紡がれた。

 雫の答えを待たずに冬架は言霊を呟き、光の粒子が生み出すカーテンの中で異様な姿へと変質してゆく。

 数秒も待たず、観空の両腰に二本のエクスカリバーと呼ばれる最強の剣を収めた鞘が具現化される。

「ご都合主義は……」

 十一対の翼をはためかせて鞘から流れる光の粒を纏う観空をはっとした驚いたような表情を浮かべ、ふと慈愛に満ちた瞳で見つめる。それが最期に見る何かのように。

 あたしはその瞳を知っていた。あたしだからこそ、気付く。あれは観空との思い出を読み返している時の幸福に満ちた瞳だ。

「え、あたし……だめ、あんた死ぬ気でしょう。どうして……」

 あたしは声を零してしまった。けれども、もう独りのあたしは観空を頼んだと言うみたいに四十五度、腰を曲げて丁寧に頭を下げた。俯いた顔から一滴、一滴と透明な何かが零れていた。

 頭を上げ、もう独りのあたしは芝居染みた怒りをぶちまける。

「読者にも、あたしにも、嫌われるんだよ!」

 そう言ってあたしの持つ剣の刀身を意図も簡単に剣で払い飛ばす。

 離れた剣は赤い刃が真っ二つに折れて、コンクリートへと何度か、バウンドして物言わず、仰向けになった。あたしは視線で剣の無残な姿を確認し、首を横に振った。

「どうして!」

 あたしは悲嘆に叫んだ。

 もう独りのあたしは、

「約束、約束があたしにはまだ、あったからね。もう一つの約束は破るけどね」


 はーねぇの剣が折れて地面に転がって、朝露ノ遥ははーねぇを突き飛ばした。

 突き飛ばした。その事実だけで死に値する。

 私の両手に握り締めた巨木な樫の杖が私の体内に存在するアリアマターと冬架のアリアマターを吸収して、杖の先端の一点に眩い光を生み出していた。

 冬架は耐えられないのか、低い呻き声を上げている。

 私は迷わず、両腰に携えていた二本の鞘を雫に向かって投げた。

 雫と冬架が何やら、喚いているが……どうせ、馬鹿の戯言だろう。

 口を硬く蕾み、朝露ノ遥に樫の先端を向け、

「その翼、遍く世界を越える虚無にして無限。その少女……全てのアリアの祖、イグドラシルに在りて神を制する者なり。確固たる意思において、観空が詩う」

 朝露ノ遥も私と同じように樫の杖を先端に向けている。先端が光輝いていた。

 朝露ノ遥が、私が異口同音に叫ぶ!

「具現化せよ! 言霊は神の裁き、ロストガーデン」

 直線的な光の束と光の束が激突する。

 断続的に続く反動が私の身体を襲う。十一対の翼の加護をロストガーデンに全て注いでいる為、踏ん張るのが精一杯だ。

 歯を食いしばり、全身の痛みに耐える。前腕から血が、両足から血が、両肩から血がじわりと流血した。

「観空、めっ!」

 はーねぇの悲痛な声が聞こえた。だが、それに答える余裕は無く、苦笑した。

「朝露ノ遥!」

「朝露ノ観空!」

 私と朝露ノ遥の悲鳴にも似た叫びに共鳴するように、光と光の合間に光渦が発生する。私と朝露ノ遥は成す術も無く……吸い込まれた。


             <八>


 私はいつもの滑り台の上で、月見遥という食料を運んでくる一般的な子どもを待っていた。遥の艶やかな髪をさらりと触るのが好きだった。それを思い出しつつ、滑り台の急坂を一気に滑り降りた。長い髪が微風に晒されて、ふわりと私の背へと戻たり、晒されたりと繰り返している。

 あれ? 顔を上げて私は私の姿を見回す。

 苺ジャムや、青色のペンキ、黄色いクリームなんかの染みが付着して、白いぶかぶかのワイシャツの色を侵食していた。

 髪を触った途端、手にはくもの巣が張り付いた。

 髪が伸びすぎて目の前が見え難い。私は髪を掻き揚げ、周囲の風景を眺めた。 

 夕暮れ時の日差しに照らされて、オレンジ色に染まる砂場。誰も乗っていないのに、風に弄ばれてゆっくりと前後に揺れるブランコ、大小様々な高さに設定された鉄棒。そして、公園の隅には懐かしいダンボールを何枚も重ねてガムテープで繋ぎとめた歪な家が在った。

「え、私の家。どうして、もう存在しないはずなのに。夢なのか、いや……」

「夢ではないよ。感情共鳴物質の臨界現象があたし達の一番望む世界を構築した。もう、帰れない遠き過去をね」

 周囲を木々に囲まれた公園の入り口に私とは対照的な清潔な真っ白い色のワンピースを着た少女がいた。両手には真新しい本が握り締められている。タイトルはここからは残念だが目視できない。

 少女は困ったように眉をへの字に曲げて、私を寂しげに見下ろしていた。

 私は爪先を伸ばして、背伸びする。

「でも、私ははーねぇを殺さなく、て……あ」

 歓喜の表情が見る見るうちに絶望へと彩られてゆく。瞳孔が定まらずに左右する。それでも私は受け入れるしかなかった。

 はーねぇとかつて呼ばれていた朝露ノ遥の身体が徐々に、透明に透けてゆく。

 透けた向こう側にはチラシのような紙がべったりと貼られている電信柱が見えた。 

「ねぇ、観空、そんなに悲しい顔をしないで。あたしは未来のない未来から解放されたんだからね」

 はーねぇはしゃがみ込んで私の目線に合わせてくれた。黒いびーだまのような双眸が私にほほ笑みかける。

 胸から込み上げてくる怒りを出さないように口を噤み、こくりと頷く。 

「昔の観空は素直だね。今の観空なんて口を開けば、一般人どもだね、こいつぅ」

 おどけて私のおでこを突付き、はーねぇは弱弱しく息を吐く。失敗したねと言っている様だった。

「はーねぇ、き、き」

 気遣いすぎだよと言葉にしようとしたが、上手く喋れない。涙がどうしようもなく、止め処なく、流れた。

「観空、覚えてる、この本?」

「はい、はーねぇ。なんでも知っている神様ですね。七歳の少女が読むにしては哲学的でした」

「うん、観空。それはね、観空が寂しそうな目をして絶望だけしか、この世界にないような顔をしていたからあたしが作ったんだ。希望はいつもどこにでもある、あたしが貴女の希望。神様になるよって」

「はーねぇ?」

 はーねぇが差し出した絵本を受け取ろうとした。

 絵本が何の前触れも無く、地面に落ちた。はーねぇの両腕が消しゴムで消されたように無くなっていた。

「どうやら、観空のロストガーデンがあたしの存在を蝕んでいるようね」

 ようねってはーねぇ! どうしてそんなに達観して!

 私は十一対の翼を発動させようと目を瞑る。

「あれ、なんで発動しない。嘘、そんな嫌! 観空、私の力はこんなモノなのか!」

 そう、こうしているうちにもはーねぇの身体は虚無に帰してゆく。

 私は必死に抱く! どくんって心から安堵できる音楽を奏でる心臓を持つ人を! 正しい道へと導いてくれた両手を持つ人を! 捻くれた私を受け入れてくれた黒い双眸を持つ人を!

 はーねぇを抱いた。

「観空、希望を捨てないで明日に向かいなさい」

 ぎゅっと、ぎゅっと、力を手に込める。けれども、感触はなかった。手は空気を掴んでいるようだ。

「これから観空は数多くの困難と闘う。けどね、負けそうになったら……思い出しなさい。心の片隅であたしが諦めたら、めっ!」

 桃みたく爽やかな夏風が私の髪を撫でて、はーねぇの消えた場所へと向かってゆく。

「ああ、あああ、はーねぇ! はーねぇがせかいを、こわす、いうからわたしは。しずくちゃんが、ふゆかおねぇちゃんが、きゃしぃーさんが、みるおにいちゃんが、いまのはーねぇがいるせかいをこわしちゃ、めっだから! いやだよ、はーねぇ、はーねぇ!」

 夕焼け雲を仰ぎ見て、大きな口をめいっぱい開いて泣き叫んだ。

 叫んでも、叫んでも、叫んでも、はーねぇは返事してくれなかった。

 私の声を聞いて仲間だと思ったのか、セミ達が騒々しい声で大合唱し始めた。


             <九>


 いつの間にか、意識がふんわりと途切れていた。異様に下手な音程外れの歌声によって私の意識は覚醒した。

 眠たいと目を擦る。

「丘を越え飛ぼうよ! らん、らん、らんらん、歌詞を忘れました。らんらん」

 叩いたら埃でも舞い上がりそうな茶色のシートにどっしりと腰を掛けた雫が歌っていたのだ。

 私ははーねぇの膝の上に縫い包みのようにはーねぇの両手で支えられていた。

「馬鹿姫さん、黙って操縦して下さい!」

 ヘリの操縦桿の一つであるステックを一定のリズムで叩く雫に対して激昂した。

「はーねぇ、その馬鹿は勝手に歌わせてとけ。馬鹿は死ぬまで馬鹿だ」

 私は右頬を膨らませてそう言った。

 ヘリの狭い窓枠からしばし、空を眺める。

 雲ひとつない晴天。建物一つない山々の碧色が何者にも侵されていない聖域のような気がして、妙に神秘的だった。

 私はふと、口を開いた。

「いつか、私とはーねぇは別れるのでしょうか?」

「別れないよ、観空。あたしは観空の傍に最期までいる」

「私もです、はーねぇ。例え、死んだとしても何かの方法で、私は」

「約束」

 私の後に続いてはーねぇも、

「約束」

 私とはーねぇは声を弾ませてそうお互いに言い聞かせた。

 生きてゆくと決めた、この地で。けれども、未来は示している。私達、姉妹がいつか、遥か遠い場所へと離れていってしまう事を示していた。

 私は信じる。

 ヘリの窓枠から観える空という世界が私の知る世界の全てではないように、未来もそれだけが全てではないのだから、未来を信じたいのだ。


 



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