一章、灰色の世界
一章、灰色の世界
<一>
漆黒のカーテンを被ったような夜空を体育座りで見上げながら、私は私という怪物を見つめていた。両手を仰ぎ見る。肌色であるはずの十本の指がべっとりとした血で染まっていた。血が指から前腕を伝い、肘の先端から零れ落ちた。肘から何度も膝へと滴り落ちる。それは何度、見ても慣れない光景だった。だが、そうしなければ、この世界に居場所などなかった。
いや、この世界にさえ居場所はない。
「私は……人間にも、和国の人間にも、なれないし! そもそも、私は本当の私は何なの」
「観空」
「はーねぇ」
「あんたの本当の名前が分からなくても、あんたの誕生日が分からなくても、あんたの出生が分からなくても……」
「うわぁ」
私は月見観空という仮の居場所を見ず知らずの月見遥にもらった時のように、両手ではーねぇに抱きしめられた。
「あんたが月見観空という仮の居場所を手に入れた時から、あたしは観空の姉になるって決めたんだから。姉は妹をこうやって静かにぎゅって抱きしめてあげるもの。束縛もしないから自由に自分を見つけなさい」
「はーねぇ」
だんだん、眠くなってきた。目を瞑る。誰かが髪を撫でてくれている。ここが私を見つける為の居場所。
あたしは眠りについた観空の髪を撫でる。血に塗れて汚れてしまった水色のリボンを解き、スカートのポケットに仕舞った。
「観空には血は似合わないよ」
ルビーのように煌びやかな赤い髪を手に取っては撫でる。
「みーちゃん!」
あたしと観空の元に訳の分からない熊さんパンツ丸見え痴女と、サラリーマンのヤル気なさを纏ったワイシャツの女性が猛前途、走ってきた。どうやら、みーちゃんとはあたしの超キュートな妹の渾名のようだ。
痴女は右手を振り上げて、左足を左手で庇うようにして歩いている。乱雑に結ばれた包帯が巻かれている事から怪我でもしているのかな。観空よりも背が高いけど、観空に似て裏のない無邪気な笑みを浮かべている。可哀相系な母性本能を刺激させられた。警戒という防衛本能を遂行すべきなのだろうが……その時にはなれず唖然としてしまった。
痴女の後をやる気の無さそうに片手を振り上げるという痴女の真似をしながら、ワイシャツの女性が後に続いていた。
二人はあたしが目視できる位置に止まった。
「誰?」
むっと睨み仁王立ちする痴女の熊さんパンツを凝視しながらあたしは言った。痴女の熊さんパンツは少し、染めている様で熊さんの黒い鼻の色が濃くなっていた。
あたしは両手で口を押さえ、笑いを堪えた。笑っては駄目だ。でも、熊さんパンツにお洩らしって。
「あなたこそ、誰? みーちゃんに何をしようっていうの人間! 言霊は神々の雷、ミュルニル」
人間ってあんたも人間だろう? って言おうとしたあたしはそれを言えなかった。いや、答えはすでにあったのだ。
痴女の手から具現化される淡い光が徐々に、急速に何かを形取ってゆく。痴女はアリアで形成された光状の槌を両手で構えた。
いきなり、敵対心剥き出しと思いながらも人を殺すような迫力で迫ってくる痴女にこう言うしかなかった。
「魔法、アリア!」
「死ね、人間!」
脳天に渾身の一撃を繰り出す為に息を荒くさせて、止まる事無く痴女は走り続けた。
あたしは妹の頭を抱きかかえながら自分の死を確信して、せめて観空だけは無事で、と願って目を閉じ、最後の抵抗とばかりに罵倒を浴びせる。
「ふざけんなよ、熊さんパンツチビリ女ぁあああ!」
「それには同意です。やぁ、馬鹿な雫たんにお似合いです」
ワイシャツの女性はあたしが月見観空の知り合いであろうと理解しているのか、平然と棒読んでいた。ならば、助けなさいよ。
「おっと、ストップ。何やってんだ!」
聞き覚えのある声に恐る恐る目を開けた。
猛牛のような痴女の前に声を荒げながら朱が空から現れたのだった。どうやら、アリアというのは空をも自由に飛べるようだ。今は朱のダサいセンスのマントが、風に翻る姿が稀代の英雄のように思い、マントに向かい、両手を重ねて拝んだ。
「止めるな、人間を殺すんだ!」
痴女は朱を鋭い眼光で睨みつけた。
「人間なんだけど、過去の人間だよ。ほら、連れてくるっていたでしょ、姫様」
にこやかな顔で朱は痴女に言った。
「あなたが……みーちゃんの姉の月見遥」
痴女はあたしの顔をじっと見て、自分の言った事が本当かどうかを区別しているようだ。くりくりした蒼い色のお目目がキュートだ、抱きしめたくなる。目のくりくり度が何処となく観空に似ているような気がした。
「……むぅむぅむ~」
そうアニメ声風の唸りを上げて、
「私のはーねぇは世界で一番美しい。セミロングの髪は艶々。あ、そうだ。紺色の制服を着るとさらに美しくなるのだ。一度、馬鹿姫にも見せてやりたいものだ」
いきなり、澄ました観空口調で喋った痴女。
「怖いんですけど」
石化したように不気味なくらい静であるあたしの正体検索中の痴女を見てそう言葉を出した。
「は、はじめまして、お姉様ぁ! 雫ちゃんは和国の姫、朝露ノ雫です。いずれは正式にお姉様の義妹になるもんでーすぅ」
先ほどの殺気に満ちた声から一変して猫撫で声に変わった。女優もびっくりな代わり映えだ。
「ちょっ、何、このネジの外れた人?」
あまりの態度の変化の早さに驚き、反射的に後退りした。
「病気ですから気にしないで。私は冬架。よろしく」
冬架と名乗った女性は人形のように直線的なお辞儀をした。棒読みがアイデンティティーなのか、また、棒読みだ。
「よろしく……何……これ」
ついにファンタジーな様相を見せてきた現実に対処しきれず、脳が強制的にシャットダウンを起こし、上体が地面へと落ちそうになる。
「お、お姉様!」
俊敏な身のこなしであたしに駆け寄り、両手で身体を支えた。それを確認するとあたしはすっと、気を失った。
ちょっと穴掘りへとか言う朱と別行動を取る事になって、楠木ばかりが自生する森を出てから約三十分。さらにあたしが冬架からこの世界での現在の時刻を聴いて十五分。時刻を聞いた時に冬架から貰った腕時計は午前四時三十分を差していた。
馬車の窓の景色が変わってゆく。大きな建物が何一つとしてない草原が目に飛び込んでくる。横転して放置してあった為、錆付いている軽自動車。窓ガラスの破片は既に何処にも見当たらない事から途方もない年月が過ぎたのだろう。その自動車が横転している場所は通常では考えられないマンションのベランダのような場所だった。もっとも…マンションという具体的な場所は憶測だ。マンションのベランダ部分だけが残り、砲台を損失した戦車の上に乗っかっていた。
景色が変わる中、そんな絶望的な風景があたしの心を不安という感情に震わせる。
先程から黒い雲が上空に居座っており、その影響で陽は陰り、ダークグレイ模様の空が世界を包んでいる。下界にはダークグレイの色が感染してゆくような悪意に染まっていた。それは人がここで争ったという痕跡。
かつては人間の力で舗装されていただろう大地は背の高い草が自生し、その大地の上には大小問わず乱雑に人の骨が転がっていた。小さな頭蓋骨も含まれていた。その頭蓋骨は何か硬いもので叩かれたのか、見るも無残な亀裂が頭上から顎の部位に掛けて走っている。恐らく、七歳くらいの子どものものだろう。
「馬車を止めなさい、霧神」
普段のおちゃらけた雫の声からは予想のつかない凛とした声が木製の馬車内に響いた。その声に馬車内でトランプを使った婆抜きをしていた冬架、あたしは雫を見る。
「はい、雫姫」
馬の愛くるしい声と同時にゆっくりと馬車は停止した。それを待てないとばかりに立っていた雫は手に持っていたカードをソファーの上に投げ捨てると、そのまま、外に出てゆく。冬架は雫の投げたカードを手に取り、むすっと頬を膨らませた後で外に出た。あたしはそれを拾い見る。
ジョーカーだった……。
取り残されたあたしは膝の上に乗せていた観空をソファーの上に起こさないようにゆっくりと置く。観空の可愛い寝顔を見つめた後、左頬に軽いキスをして雫達を追いかけた。
「やはりか」
「そのようですね、雫たん」
骸骨のそばに置いてある水色のリボンが結ばれたカチューシャを冬架は握り締め、無表情棒読みな冬架には珍しく、涙を流しながら諦めにも似た怒りの表情が見え隠れしていた。
頬を伝う涙に冬架本人も驚いているらしく、涙に触れた。
近くには泥水が入った皿とその上に乱雑に置かれたスプーンの上には腐敗した肉が在る。
「人間の所業なの。だとしたら、あたし達、人間はなんて罪深い」
そうあたしの口から無意識に溢れた。それはかつて、あたしの著作したライトノベル『魔法の園のアリス』で主人公亜理須が魔法の力を得て何でも願いを叶える代わりに人の心の声を聞いてしまうという亜理須が言った台詞だ。ちなみに亜理須のモデルは月見観空だ。
「その人は……」
「……」
「奈式風羽。月見観空先生の教え子の一人です。観空先生にみそらん先生というあだ名を付けて慕っていました」
静かに両手を合わせて死者への哀悼を奉げる雫の代わりに、隣でじっとしている冬架が淡々と答えた。
「どうして……こんな」
「食べられたんですよ、和国の外の人間に」
あたしの呟きに対して冬架は充血した目を擦りながらそう言った。
カニバリズムという言葉がある。それは人を人が食べるという行為の事を示す。絶対的なタブーである言葉を日常に有り触れている事実であるように断定した冬架。あたしはただ、条件反射のように言うしかなかった。
「なんで!」
服も何も身に着けていない骸骨という残酷なそこにある真実をもう見ていられない!
目を背け、観空の眠っているウサギ耳付きのピンク色の馬車を見つめる。涙で歪んで見えていた。
「和国の人間を食べれば、自分達もアリアを無限に使えると真実であるかのように信じられているんですよ」
淡々と雫が語った。
「あるはずがないのに」
「手遅れだった。今日はこの子の捜索の為に観空たんと朱たんという最強のアリア詩い手なら安心と思っていたが、こういう結末なんて。流石に冬架たんでも堪えられない」
まだ、冬架とあたしが沈痛な表情を浮かべているのに対して、雫は涙を流すことも悲痛な表情を浮かべる事無くあたし達の間を通り過ぎてゆく。
「涙を流している暇なんかありません。早く人間を一人残らず根絶やしにしてやる」
そこにいるのは馬鹿姫 朝露ノ雫ではなく、和国の復讐姫 朝露ノ雫だった。
<二>
「ここ、東京、だったの?」
古ぼけた案内標識に東京という文字だけが辛うじて読み取れた。その読み取れた標識によりあたしはそう驚愕の声を上げた。
案内標識は長い間、雨に曝されてきた為、雨が流れた後がくっきりと残って、青さが薄くなっていた。
道路のコンクリートは無残にも剥がれて柔らかい土が見えていた。こうなってしまえば、文明の利器である自動車は満足に走る事はできないだろう。
「これじゃあ、車も走れない」
「和国には車を作る技術なんてありません」
あたしの膝の上で猫のように左頬を擦りつけながら観空は気だるそうに答えて立ち上がる。
「そう、なんだ。それより、もう起きて平気なの……観空?」
「私は化け物だ。これくらい。それより脱ぐ」
そう言い、観空は自分の着ている血塗れの上衣を投げた。
「わぷっ。むぅ、みーちゃんの匂いつきお洋服ぅ」
投げられた上衣を目にも止まらぬ速さで雫が回収する。額には先程の婆抜きで負けた罰ゲームとして『みーちゃんの奴隷♪』と墨で書かれていた。続いて投げられてきたスカートもばっちり回収した。その変態ぷりはあたしの今までのファンタジーにおける姫様像を完全にぶち壊してくれた。だが、雫の変態ぷりは留まる事を知らない。
「冬架! グランから奪取したデジカメを持ってきたか?」
観空のちょっこんと存在する桜色の乳首を凝視し、舌なめずりをする雫にデジカメが手渡される。すぐさま、観空の谷間など存在しない芸術的なまでに平地な国宝的な胸をデジカメを構えて撮った。連続してピッコンという間抜けな音がするが観空はそれに動じる事無く、ソファーに座った。
「雫たん、後で観空たんの可愛い写真を私様にも見せてください」
悪乗りする冬架。
「わかってる、わかってるん。ふんふんふん。らんらぁんらぁん、みーちゃん、すごかわいい、ふんふん、らぁんらぁん、雫ちゃんのみーちゃん可愛ゆい」
「馬鹿だな。身体の形なんてただの飾りだろう」
奇妙なダンスを踊りながら、雫はまだ、筋肉というモノが発達していない今にも折れそうなほど細い未成熟独特な太ももを撮る。ついでにくびれのない幼児体系なお腹も撮った。
あたしは馬鹿姫と悪乗り不思議系女性の愚行に頭を抱える事しかできない。これが本当の固まるという文章表現なのだろう。
とはいえ、観空がだらしない格好をしているのは姉として許せない。
「はい、お洋服。着てなさい」
馬車に備え付けられている白い箪笥の中から勝手にゴスロリ系のブラウスを取り出し、あたしは観空に手渡した。
「ああ、馬鹿姫がくれた百着目の服ですね。とても動き難い服だからそこに捨てておいた」
着るのがとても嫌そうにブラウスを見つめる。その瞳はえっ、こんな襟元に赤色のリボンが付いている軟らかそうな素材でできた薄い赤色の上衣に、おまけにレースの裾付き。スカートは乙女チックな赤いリボンの刺繍が左右二つずつに薄い赤い色……なんだこの大人な観空様には似合わないと語っていた。その心情を知り得たのは長年、姉という立場にいるあたしだからだろう。得した気分になり、含み笑った。
観空は自分で白い箪笥を覗くがそこには大人サイズの洋服しかなかった。仕方なく、手に持った夢いっぱいのブラウスとスカートを着る。
着終わるのを待ってましたとばかりに雫が隠し持っていた赤色のリボンでツインテールを形成した。その犯行は僅かな時間内に行われた。
そして、素早くシャッターボタンを押す。
「雫たん、保存しましたか?」
「保存しました、冬架」
「らぁんらぁん。らぁん」
「ららりゃりゃあん」
観空の生着替えという思いがけない釣果に雫と冬架は両手を繋ぎ、二人の中心が輪のような形になるように保ったまま、狭い馬車の中を縦横無尽に踊る。一人は乱雑にただ、楽しく。もう一人は無表情な機械的な踊りを魅せた。
「楽しい人、達」
あたしのファンタジー世界が馬鹿姫に踏み壊されてゆく。
「狭いのに踊るな、馬鹿姫」
観空の足元付近に雫の白いハイヒールが来た時、大げさな動作を付けて白いハイヒールの爪先を踏んづけた。
「うぎゃあ。何、するんですか、みーちゃん。仮にも私は和国の姫。みーちゃんは怖くないんですか?」
痛みに飛び上がりながらも偉そうに言う馬鹿姫。
「無礼な態度を取った罰を受ける前にエクスカリバーを粉砕して、和国を壊滅させる事くらい簡単にできるぞ」
至極真面目に和国壊滅プランを頭に巡らせるくらいはやるあたしの妹はそう言った。
「具体的には……ガソリンを撒いたダンボールハウスの中に雫を閉じ込め、火炙りにするというビジョンが頭を過ぎり、どうしてもにやついてしまう」
「うわぁ、みーちゃんからどす黒いモノが!」
雫が観空の周囲から放出される悪意を感知した。
あたしはテーブルに置かれた小瓶にあるパンの耳を一本、手に取り言った。
「観空がキレタ。たまには良いかな」
あたしはパンを半分に折り曲げたり、また戻したりしたと自分でも意味不明だなと思うことをしていた。
「あ、本当だ」
冬架は何処か面倒そうな口調で棒読む。
馬車が左右に激しく揺れる。あたしは咄嗟にテーブルに掴まった。揺れはすぐに収まった。
「よく兵器を刺激するような話が出来ますね、姫様。私には恐ろしくてできませんよ」
霧神の声がした後、馬車は元通り、規則正しい微動を起こしながらゆっくりと前進した。
「みーちゃんは優しい人だから怖い事できません、ぷにぃ~」
弾力のある幼い子独特のマシュマロのような観空の頬を人差し指で押す雫。
「それはどうかな。殺すよ、人間」
「そんな事言って、ぷにぃ~。できないぷにぃ~」
さらに調子付いて観空の頬を押す雫。
「それはしないと思いますけど……生死に関係ない悪戯的な仕返しはしますからあまり、観空を刺激しない方が良いと思いますよ」
早速、仕返しをする為に動き出そうとした観空をあたしがぎゅっと抱きしめ、自分の膝の上に乗せ、手に持っていたパンの耳を観空の口に咥えさせた。
雫はバレバレのアイコンタクトで冬架に何やら合図を送った。冬架はこくんと首を縦に振る。
「そんな事あるわけないぷにぃ」
オリジナルの語尾を付け、観空の両頬を交互に冬架は人差し指で押す。
「ふ、まぁ、馬鹿姫。これでも飲め、お前の好きな砂糖入りのコーヒーだ」
器用に観空はパンの耳を咥えながら言った。
観空は不気味な笑みを浮かべると、妖精のレリーフが描かれた青色の箱を開け、そこに数ある瓶の中から一つの瓶を取り出す。
「ぷにぃ!」
観空の提案に雫はそう声を出して喜んだ。
観空はパンの耳を手を使わずに口で器用に消化しながら、コップをテーブルに置き、瓶の中の砂糖入りコーヒーをその中に入れてゆく。仕上げに青色の箱を開け、青色の箱の中を冷やしていた幾つモノ氷の中から大きな氷を一つ選ぶと、それをコップに入れる。勢い良く、雫の頬にコーヒーの露が飛び散った。
「最近、下痢気味だなって感じた事はないか、馬鹿姫?」
「うわぁーい、ごくごくぅ」
観空の言葉を聴かずにテーブルの上に置かれたコップを両手で支えながら勢い良く飲み干す。飲み干した後、雫は唇を前腕で拭く。
雫が飲み干したのを確認してから観空は、
「ほれ、原因はこいつだ」
と言って雫の隣にある脱ぎ捨てられた観空のスカートの中から小さな小瓶を取り出す。
その小瓶のラベルには『すごっく効く下剤』と観空の適当な字で書かれていた。
「あ! こっちでもこんな妙なモノ作ってるの、駄目没収!」
あたしは観空の手の中にある下剤の小瓶を掻っ攫う。
「はーねぇ! 私の自信作、返してくれ。もう、馬鹿姫にしか使わないから」
「駄目」
馬車の窓から小瓶を投げ捨てた。小瓶はガードレールの残骸に打つかって、小瓶が割れる音を響かせる。物欲しそうな瞳で窓の枠に両手で掴まり、その間にだらしなく顎をつけている観空の視界から小瓶は消えていった。
「ちょっ、今の下剤入りなんですかぁああ」
両手で腹部を押さえながら、空のコップを片手に持ち苦しそうに言った。
「常に馬鹿姫の飲み物には下剤入りだぞ、自作だぞ、お前の為に自作だぞ」
自慢の下剤を失い、落胆している観空は投げやりな声を上げた。
あたしは馬鹿を極めると下剤の無効力化を手に入れられるのかと一人、頷く。感心したのではない。呆れたのだ。
相変わらず、窓から見えるのは灰色の世界だ。
人の骨が無数に広がり、ボロボロになった汚い布切れが宙に舞う。
駅前で見かけるような巨大ディスプレイが今は何も映す事無く、地面に寝そべっている。巨大ディスプレイの破損したモニタから楠木が映えている。その周辺にも廃材を縫うようにして、あるいはその上に新たな自然が息づいてきている。
灰色の世界は始まりの世界でもある。
曇っていた世界は晴れ渡り、息づく全てのモノを照らす。
四輪で馬一頭の力で進む人の乗る籠のみの馬車が数多く通り過ぎてゆく。あんなにも凸凹していた道から石を敷き詰める事によって舗装された道へと変化してゆく。
周辺で道の整備をしている土木関係者が手を振る。彼らは皆、奇抜なウサギ耳付きピンク色馬車が自国の姫、朝露ノ雫専用の馬車だと誰もが知っているらしい。そんなにも親しげに接する事が出来るのは雫の馬鹿能天気な性格がそれを可能にしているのだろう。
あたしは観空の良い遊び相手だ程度にしか好感を持ってないのだが。観空と雫の二人を観察する。
観空は喚き散らす雫を完全無視し、ぼんやりと窓の枠に両手を出して、子犬が自動車の窓から身体を乗り出しているのと同じように観空は身体を乗り出していた。その間にも雫が喚いていた。
「自作なんですかぁ。さすが、みーちゃん。賢者様! っていうと思いますか! あ、お腹さんの具合がぁああ!」
「賢者って称号、お前の周辺の人間しか言ってないだろう。というか、簡単に人の渾名を増やすな。コアラんみーちゃん、死を招くもの、全てを知る者、破壊神とか何の脈絡がないだろう、馬鹿姫」
お腹を抱えて蹲る雫に下痢止めと書かれた小瓶を手渡そうとしたが、観空は躊躇する。結局は渡す癖にとあたしはくすっと含み笑った。案の定、馬鹿姫である雫の為に適正の量だけ、錠剤をあああという唸り声を上げている瞬間を狙って雫の口の中に放り投げていた。
「苦いよ、みーちゃん」
「当たり前だ、薬だからな」
「さすがは馬鹿姫。あの兵器は姫様の事を気に入っているようだ。姫様の和国の為ならば、ロストガーデンを使う事を意図はないだろう。だが……馬鹿姫は……」
雫と観空の漫才のような会話を盗み聞いていたのだろうか、霧神がそう小さく呟くのをあたしは風に乗ってきた霧神の声で知った。嫌な奴は何処の世界にもいるものだと首を横に振った。
「何? あの大きな門」
前方の窓を覗くと東京タワー程の高さとベルリンの壁のような果てしない長さの両方を兼ね備える壁が見え、その中心くらいに大きな門が見える。驚愕のあまり咄嗟にそれを指差しながらあたしは質問したのだ。
「あれはアリアゲートです。壁が周囲を囲み、門は前門と裏門両方あり、その周囲内にある和国の領土をいかなる攻撃からも守ってくれます。エクスカリバーに次いで朝露家の奥義とされるアリア 天使の羽根が前門と裏門に付与されているから可能となっているのです」
自慢げに、観空は解説をした。これには実は意味がある。自慢げにという事は褒めて、褒めて、構ってのサインである。全く健気な子だ。すごいねという意味を込めて観空の頭を撫で撫でした。
「えへっ! 凄いでしょう、お姉様ぁ」
本来、自慢げにするべきはずである雫もやはり、自慢げに言った。
でもちょっと待てよ小説家、朝露ノ遥。こんな若い子がそんな凄い術を使えるはずがない。自分が物語を書くとしたら使えるのは杖を突いた老大魔法使いだ。待て待て、それよりも気になるファンタジーワードを話さなかったか。あたしは首をちょっこんと傾ける。
エクスカリバー? エクスカリバー!
「エクスカリバーがあるんですか! あの最強の剣のエクスカリバーを手に持ってみたいんです、あたし! エクスカリバーを貸してください、馬鹿姫さん!」
観空の解説の中に『エクスカリバー』という憧れの聖剣の名が挙がっていた事を見逃すわけもなく、雫に問い詰めた。雫の偉そうな態度を無視して、雫の両肩を激しく揺らす。
「ばかひめ~違うよ。めがまわるぅ~」
「……」
雫の哀れな姿を見て自分は黙っていようと冬架は沈黙する。それが命取りですよ。
「冬架さんがエクスカリバーを所有しているんですか!」
それがそういう事を意味すると勝手にあたしは解釈した。
「私がエクスカリバーです。尤も、唯一使いこなせるはずの朝露ノ雫姫がヘッポコなので、エクスカリバーたるお姿はお見せできません」
雫のように目を回したくない冬架はあっさりと断った。
「いや、いや、見たい、見たい!」
憧れのエクスカリバーを見てみたいという一心だけで冬架の両肩を揺らし続ける。あたしの心には今、二本の剣が金色に輝いている!
「みーちゃん、何でお姉様は壊れているんですか?」
今も冬架の両肩を機械的に揺らし続けるあたしを見ながら漠然と問う。
「はーねぇは物書きでエクスカリバーは物語の中ではよく最強の剣として描かれる事が多い。だから憧れているんだ、強大な聖剣にな」
<三>
みーちゃんの姉であるお姉様が望むのは聖剣エクスカリバー。正義を行う為の力。でも、雫ちゃんが望むのは全てを破壊できる魔剣のような力。それを持っているのに怖がって使うことができないみーちゃんを見て言った。
「そんなに、いいもんじゃないですよ。雫ちゃんはみーちゃんのロストガーデンが良かった」
みーちゃんの力を私にちょうだいと言った。
みーちゃんはいつものような雫ちゃんを馬鹿姫と呼ぶ時の年相応の無邪気な子供の仮面を投げ捨てて、悲しみも嘆きも哀れみも同情も、そして諦めも混じった混沌とも呼ぶべき深い笑顔を浮かべながら、
「馬鹿姫、本当の化け物の力を望むな……。いいもんじゃない」
そう雫ちゃんにだけしか聞こえない力無い声で呟いた。
<四>
時刻は午前八時を差している。その腕時計の短針を見つめながらあたしはようやく城下町へと到着したのかと思い、窓から城下町の風景を眺望する。
奇抜なピンク色の馬車がアリアゲートの前門を通過してゆくと、そこにはモーセが海を真っ二つにしたような光景が広がっていた。
馬車が通過する予定の通路右側に数え切れない程の国民。
「お帰りなさいませ、姫様!」
とカフェから丁度出てきたメイド喫茶の女性店員が深く頭を下げた。
「姫様!」
と八百屋の中年店長がご自慢の大根片手に馬車の方へと手を振った。
馬車が通過する予定の通路左側に数え切れない程の国民。
「姫ぇえええええ、萌え!」
と雫が印刷された紙袋を両手いっぱいに持って、リュックサックを背負った男性が叫んだ。
「姫様、和国に栄光あれ!」
自分の横をピンクの馬車が通過するのを見計らって老人はあらん限りの声で叫んだ。
「悪い人間達から私達を守ってください。姫様ぁ」
ピンクの馬車の窓が開いている事に気づいた七歳くらいの少女が両手を伸ばして小さな黄色の花を窓の向こうにいるはずの姫様に手渡そうとしているのだろう。少女は自分の長髪が乱れるのを気にする事無く、走り続けた。あたしが席を立ち上がるのを観空がそっと、手で制する。
「渡しておこう」
一生懸命、馬車の横を並走している少女に優しく微笑みかけ、観空は少女の手の中にある花をそっと摘み取った。
「いやぁ! さっさとあんたなんか消えればいいのに!」
少女は咄嗟に観空の手を払う。少女の先程まで満面の笑みを浮かべていた顔が今や、凍てついた絶対的拒絶を浮かべて観空を睨みつけ、眉はあまりの恐怖から顰めている。観空が触れた指先が汚いと言わんばかりに指を摩りながら足早に去ってゆく。
「何、あれ?」
あたしはその光景を見て腑抜けた声を洩らした。強大な力を持つ観空の存在は彼らにとっては英雄のようなものではないのかと憤りすら覚えた。
「あ」
観空はそんな間の抜けた声と一輪の小さな花―菊芋をあたしの両手の半分サイズの両手で強く握り締めながら……何かをぶつぶつと呟いた後、あたしの横で涎を床に垂らしながら眠っている雫の頭に菊芋の花をそっと乗せる。
菊芋の花があんな小さな子まで、雫という姫様を信頼しているという証なのだ。その証を無意識に雫は両手で抱き、外的から身を守るかのようにぎゅっと。あたしだけは同情して良いよねと俯き、雫を見下ろす観空に目線を送った。きっと、あたしが観空の一番欲しい証をいつか、探すよ。
「馬鹿姫、お前のファンからだ」
観空は雫の口から流れる涎を指で拭き取る。拭き取るその指を、
「ぱくりん」
目を覚ました雫が口に含んだ。
「おい」
苛立つ観空の声には耳を貸さずに口に含んだ指を舌で器用に舐めるべし、舐めるべし。
「れろれろ、れろれろ……うん、みーちゃん味」
「返せ、私の期待をな」
みーちゃん味という訳の分からない新味覚を生み出した雫に対し、観空は物理的な暴力に訴えるべく目を左右に走らせながら強力な打撃を与えられる武器を探していたが見当たらない。そんな観空の肩を叩き、冬架は自分自身の顔を指差す。あたしの解釈が正しければ、私を使えと言っているのだろう。すぐに観空は冬架の腕を掴んだ。
「冬架パンチ、どぴゅーん」
冬架はそんなやる気のない声を出し、拳を形取り雫の脳天に直撃させた。
「うぎゃぁ」
相当、本気で打ちこまれたようで律儀に菊芋をテーブルに置いて、遥の膝の上で頭を抱えて悶えた。それを哀れに感じたあたしは観空と冬架に対して言う。
「めっ」
二人のおでこにでこピンを食らわせた。冬架は無表情のまま、動じる事がなかったが、観空はでこピンが到達する瞬間から目を硬く閉じていた。
「姫様! 何故、兵器をまだ、廃棄なされないのですか!」
二十代くらいの優男が言った。
「兵器などなくても私達のアリアで敵を粉砕出来ます!」
三十代くらいの主婦らしい風貌の女性が勇敢にもそう声高に宣言した。
「朱様、アリアマスターがいるじゃないですか!」
十代の学生服を着た少年が石を馬車に投げつける。
「こら、何をする少年!」
霧神が注意するが、十代の学生は馬車に向かって投石を続けた。
「どうして! お前、五十万人もの人間を一瞬にして殺せる兵器の癖に! お前が躊躇しているから……和国の人間、友達がどんどん、死んでゆく。もう、お前なんかに頼らない! さっさと消えろ!」
十代の学生服を着た少年を含めて……街の人……皆が憤怒している。
「小さな女の子は純真でいるべきなのに。勝手だ、この国の人は」
呟いた。心が冷めていた、あたしは。
「兵器廃絶!」
「兵器廃絶!」
「そうだ、兵器廃絶だ!」
群衆が一斉にそれらの言葉を大合唱した。不協和音のようにリズムなく、雑音で聞くに堪えない罵声だ。馬車の中にいる姫様ではなく、兵器―月見観空の精神を揺さぶるように響く外の罵声に、観空は両耳を塞いでしゃがみ込んだ。
「私……私……兵器……違う。違う。私がやったんじゃないセフィがやったんだ。兵器はセフィの方だ」
念仏のように否定の言葉を繰り返す観空に対して、ある疑念を抱く。セフィロトという人物は存在しないのではないか? この過酷なバッシングや生きる為に枷られた殺人を、自分の心で処理出来ないが故のバグ―セフィロトなのではないかと。それを確かめるという事は同時に月見観空という幼い妹を無限の後悔地獄に追いやる事になるのでは?
出来ないと両目を閉じ、両目を開き馬車の外に向かって叫ぶ。
「うるさい! 観空は兵器なんかじゃない!」
最後の語尾を息の続くまで叫び続けて、両肩を上下させながら深い呼吸をした。それでも呼吸が不安定になる。見えない人々の観空に対する憎悪が痛いと、あたしは床を叩きながらそう感じた。
冬架は無表情だったが、民衆の態度が不快だと思っているらしい雫はソファーに深く腰を掛けながら沈黙を守った。
「さっさとグラン国も滅ぼせよ! エフェリル国も、カイト国も! 滅ぼせ!」
「兵器は役に立ってなんぼだろう!」
人々の罵声は兵器を乗せた馬車が視界から見えなくなった後もしばらく、続いた。警備兵の後日談によると幾つもの場所でデモ活動が起こり、その鎮圧のおかげで通常業務が滞ったとの事だ。
<五>
人工的に作られた丘の上に白亜の城は存在していた。丘の斜面は険しく人が徒歩で城へと行く事は不可能だ。その為、人が登らないように注意書きの看板が丘の関所の前に設置されていた。雫の直筆で『遊び半分で登山すると死にます、牛です。雫より』と書かれていた。
そんなとても親切な馬鹿姫様―朝露ノ雫が現代の王、朝露ノ真が病死してからは事実上、白亜の城―朝露ノ城の主であり、和国のトップだと観空が馬車内で語ってくれた。
白亜の城へは関所を通り抜けて、最期の橋と呼ばれる橋を渡るしか手段はないようだ。そんな厳重な防衛に対し、城には砲台というモノが一切ない。開けた庭の奥にある城の左右には見張り台として高い塔が併設され、城の中からも行き来出来るように城と繋がっている。
城の外壁は全てコンクリートと防衛のアリアで生成されたオリハルコンで形作られており、かつて世界の文明を滅ぼしたロストガーデンの一撃にも耐えられると和国の国ではポピュラーな宗教―澪聖女教の経典である『朝露ノ預言書』には語られている。そんな事柄を馬車内で自慢げに紙を見ながら雫があたしに話した後、後で自分の部屋に来るようにと耳打ちされて今現在、雫の部屋に一人で訪れた。
「突っ込んでいいのだろうか? ファンタジーと思ったら、これかよ」
あたしはそう呟いた。明らかにファンタジーにありがちな中世ヨーロッパ文化がこの部屋には溢れていない。代わりに壁には観空の写真が無数に貼られている。全ての写真に雫が書き込んだと思われるコメントが波線のような筆裁きで書かれていた。みーちゃんとお風呂場にてみーちゃんのおむねに触ったきねんというコメントに対して目の前にいる和国の姫―朝露ノ雫を殴りたい衝動に駆られた。
部屋中には畳が敷き詰められていた。畳特有のい草の草汁ぽい香りが漂う。日本人であれば、落ち着く事の出来る香りだ。質素な布団が置いてあるのだが、子猫の形の枕が二つある。一方の子猫の枕の方には水色のリボンが無造作に置かれていた。これにより瞬時に誰と雫が寝ているのかを理解した。
「あの馬鹿姫めぇええええ……」
羨ましさと怒りを込めた囁きが雫の背中に刺さる。いっそう、本当に刺さればいいと素で思うあたし。
「何、呟いてるんですか、お姉様?」
雫はそう言った後、扉を開いて緑茶を持ってきた冬架を部屋に招き入れる。冬架はテーブルの上に緑茶の入った湯呑みを二つ置く。
「ごゆっくり」
冬架は二人にお辞儀して部屋を後にした。一連の動作が流れるようだ。
「呟く? あっ……思っていたより違うなぁって」
「そうでしょ、そうでしょ。雫ちゃん、さすが姫様って感じでしょ」
「はい」
引き攣った不細工な笑顔で嘯いた。心の中でそんなわけがないというツッコミを入れておく。
「それよりお姉様に未来の義妹からこの国での注意事項です。その一、決してお姉様が普通の人間さんである事をばらしてはいけません」
「うん。それは研究所の……」
朱が言っていた事が脳裏に過ぎり、やはりここは優しい世界ではないんだ、とあの馬鹿無邪気な雫の顔が別人のように無表情無感動な表情を装っている事から察した。
「知ってるんですね。モルモットにされた化け物さんの子孫達ですから、弱いアリアならお腹減っちゃうくらいの代償で使えるんですよ。その二、決して過去から来たなんて言ってはいけません」
「その三、決してみーちゃんと仲良くしたり、お姉様だって言ってはいけません」
「何で!」
その無慈悲な発現に声を上げながら雫に詰め寄った。
「恐れられているからですよ、残念なことに」
雫はぽろぽろと涙を流しながらあたしの腰を掴む。
「そんな、優しい子なのに」
「それを誰がわかりますか! みーちゃんはエデンと呼ばれる敵国を一撃で滅ぼしました、たった一撃で。英雄にするにはあまりに功績が凄いんです。雫ちゃん達でも到底、できる技ではありません。相容れないからこそ、周辺国と虐殺し合うしか選択のないこの国のように……本当に残念です」
「姫様」
「立場上、雫ちゃん、いえ、私は演じなければならないのです。頼りがいのある絶対的な君主という存在を」
雫は自分の背ほどある窓ガラスを覗き込み、そこから見える草の上で昼寝をしている観空の姿を悲しげに見つめながらそう言った。
「あたしには、姫様のように守るべき者が多くいません。あたしには観空さえいれば良いのです。観空と同じ待遇で構いません。あたしは自分に嘘を吐く必要はないのですから」
あたしの目には猫背になった雫の背中が寂しそうに映った。
「はい、承知しました。では観空の元に行きましょうか」
深く雫は頷いた。
「あたしは何処かで浮かれていた……ごめん」
雫が部屋から出ていた後、呟いた。
この世界で何処か自分の小説に出てくるファンタジーを無理やり見出して、現実から少しでも逃避したいと考えていたが……それは卑怯だという事に、自分の気持ちに全身全霊で素直になる事の出来ない姫様の後ろを着いて行きながら反省した。
いつか、この世界が現実になってしまうのが怖かった。だが、ここでは立ち止まれないと木製の扉にそっと触れた。
<六>
城下町、そこには必然と人間どもが群れを成す。昼時である現在は当然のことながら、人間と人間の間を掻い潜らなければならないくらいの混雑さとなる。身長の低い私、月見観空のような固体は歩き難いだろう。だが、人間は底知れない恐怖には脆弱な貧相でとても可哀相な精神しか持ち合わせていない為、私の通り道は自動ドアのように開けてくれていた。
私と目があったものなど、殺さないでくれと口走りながら走っていった。
改めて私を勝手に兵器扱いしている人間の城下町を観察する。
レンガで構築された家にしっかりとした窓。だいたいの建築物が煉瓦建築だ。一階建てもあれば、二階建てもある。だが、三階建てというものはこの国へと入国してから見た事がない。そこまでの建築技術を市民生活へと提供できないのかもしれない。憶測だが、全てを自給自足で賄っている和国では日本のような爆発的な経済発展は見込めないと考える。単純に競争相手がいないからだ。
とはいえ、寿司屋や、ケーキ専門店、和菓子専門店、刀剣店等の店が連なり、そこへと人間達が吸い込まれるように入ってゆく。まだ、この国の経済は破綻していないようだ。だが、遠くない未来にこの国は破綻する。回避しようのない理由―圧倒的な物量と圧倒的な生産力、科学力を持つ周辺諸国による攻撃に晒されて……。
「平和なものだ」
「形だけの平和だよ」
「むにゅう~」
アカの腕を両手で掴んでいる私の頭を、アカは乱雑に撫でた。
アリアマスター、朱……渾名、アカ。和国の連中……いや、この世界の連中で最も長い付き合いではあるが、この人が喜の感情以外の感情を私に見せた事は一度もない。感情の読めない人間というのは相手に感情を読ませないようにしているのだが……自然体のように思える。馬鹿姫なんぞはそういう性格だと考えているのだろう。
嫌い。そう、天才特有の残酷な冷静さを持つ私と同種の人間である存在など敵以外の何ものでもない。だが、紅蓮の髪と同色の瞳を持ち、素顔を隠すかのようにマントのローブを深く被るアカという性格偽造者に私は懐かしさのようなモノを感じていた。今、両手で掴んでいる細い腕に抱かれた記憶? 妄想? 願望のようなものが時々、疼く。今も。
「可愛いのに避けられているね」
にこやかに毒舌をふるったが、アカという人物を知る私からすれば私の事を心配しているという意思表示を含んだ善意の言葉だと簡単に解釈できる。
「兵器、兵器とうるさい人間どもは所詮、何もできない。そんなの物理的脅威にはならないし、何とも思わなければ精神的脅威もない」
心配、要らないと回りくどくアカに伝えた。
「ふん、ただ精神が図太いだけではないか、兵器」
私とアカの背後にいる一般兵が、確か霧神とかいう名前の奴が不機嫌そうに鼻を鳴らした。反論するのはとても面倒だ。
「そうとも言える」
「面倒だと言わんばかりに言うな」
心を読んでいたかのように嫌味を言った。
「さてと……」
両手でお腹に触れながら今朝からパンの耳しか食べていない事に気付いた。
「そこの人間。ここの店のお惣菜を全てくれ」
これから行く蒼代学園の生徒に配るのも良いだろうと考え、一軒のお惣菜屋の棚に並べてある商品―唐揚げ、ハンバーグ、豚汁、肉じゃが、キュウリの漬物、野菜サラダ、おでん、たこ焼き、鯛焼きの入った木箱を一つ残らず、指差した。
「え、全てですか、兵器様?」
中年男性くらいの容姿である太めの店主は私の姿に怯えているのか、額に大量の汗を掻きながらも答えた。
「全てだ。さっさとしろ、殺すよ人間」
私に何か意見を述べたそうな顔色を伺う店主に必要ないと、殺気を込めて低い声で言う。
アカには子どもが背伸びしてるよと思われているのか、ニコニコしたまま成り行きを見守っている。
「全てですか、これ、全部持てるんですか?」
私のスリムでクールな容姿を保ちつつ、それでいて縫い包みのように愛くるしい姿を凝視して言った。
店主の述べたい愚言は想像がつく。
「ちび、幼女、小さなお嬢さん、小学生には無理だと思っただろう」
それが故に私はちょっと遊びたくなった。わざと敵と対峙するのような鋭い細い目つきで店主を射抜く。
「は、はい」
「私もそう思う」
「遊んでるよ、無邪気だね」
何を思っているのかは理解不明だが私を時々、雫や冬架、アカといった人間はすぐ、頭を撫でたがる。そう、今のように。まるで子ども扱いだ。
「殺気に満ち溢れているのは気のせいか」
一人、意味を理解していない私達側にいるべき霧神一般兵がそう言った。
「はい、これで全てです」
店主は素早く、布袋詰めを完了させ、空になった木箱を退かして、棚の一番上にそれをずらりと並べた。
六袋という事は一人二袋のノルマだ。店主は命の危機から開放されたと言わんばかりに荒々しい息を吐きながら、手拭で額の汗を拭く。
「ありがとう、一般人」
礼を言い、お金を店主に手渡す。私の背後でぼっーと突っ立ている霧神の手に次々と荷物を握らせた。先程までは一人ずつ持とうと思ったが、袋を最小限に抑えるために乱雑に詰められ、袋の破損する可能性があるモノなど持ちたくない。霧神は黙って成り行きを見守っていたが、奴はそんなに使える奴ではない。当然、反発されるだろう。
「おい、何故、俺が持たされている!」
「こんなに可愛い少女に全ての荷物を持たすというのは社会の倫理上不味くないか? 想像してみろ」
「う、確かにそうだな。兵器とはいえ、お前は幼女だ」
ささやかな抵抗だろうか、納得していないような感じを首を傾げる事により表現する。私はヒトラーみたく完全無欠の独裁者ではないからその事は見逃してやろう。だが、世の中にはパンドラの箱の最期の中身のように触れてはならない事柄が存在する。それは私を表すのに幼女という言葉を用いる事だ。用法が間違っているだろう!
「あちゃあ~霧神。それは不味い」
「何が不味いのですか? 朱様?」
アカの言葉に耳を傾けた瞬間を狙い、助走をつけて素早く上空へ低時間の飛翔!
「ほらね」
どうやら、アカは私の気配に目を向けることもせずに読み取ったようだ。
「観空ちゃん可愛いよキック!」
掛け声と同時に私を幼女―未成熟と罵った霧神の背中に一撃を喰らわせた。だが、身体を反らす様子もなく、背中を摩りながら霧神は叫ぶ。
「幼女じゃないか!」
条件反射的ツッコミでも入れる癖があるのか、哀れにも霧神はまた、あの言葉を言ってしまった。勿論、許すなどという事はしない。跳び蹴りでは今度は清算できない。私よりも怖いアカの手によって。
「レディに失礼だ。あたしは男性には常々、ジェントルマンでいるべきだと考えていてね」
アカは霧神にバイバイと手を振った。その笑顔はきっと、霧神が最後に見る人の表情だろう。じっくり、味わえ、霧神。
―統べてのアリアの祖 イグドラシルよ。
我に最強の武器を与えよ。
我はイグドラシルの子なり。
言霊は勝利の剣、フレイ。―
アカが紡ぐ完全なる言霊は絶大な効果を発生させる。一瞬にして具現化された女神の刻まれた刀身を持つ剣。それは知らぬ者にとってはただの美術品のような剣。だが、ここにいる私を含めて三人は知っていた。それは生存を脅かす普遍的恐怖だと。
「おい、アカ。それはやり過ぎ!」
「朱様」
その絶大な力を喰らう前に、霧神は失神して石の敷き詰められた道に頭から倒れ込んだ。随分と芯の通ったヘタレだと手を差し伸べて起こそうとしたが、アカの手に遮られ止められる。
「可愛い少女に幼女と言う言葉を当てはめる兵士さんは、あの場所に連れてゆくべきではないでしょう。ねっ、観空?」
アカは道端に落ちた六つの袋を手提げ部分同士を結んで一つの袋のように持ち易くする。そしてそれを右手でいとも容易く持ち、左手で私の手を強引に引っ張った。
「うわぁ、アカ!」
私達は霧神という荷物を残して、和国の中でも裕福な階層に当たる人々が行き交う通りを足早に立ち去って行く。
一時間くらい私達はあれから歩き続けている。あんなに賑わっていた先程の場所とは異なり、同じ和国の城下町で在りながらもひっそりとしていた。それもそのはずだ。建物は幾つかあるが木造の一戸建ての狭い民家がまばらにあるだけだ。どれもが屋根が吹き飛んだ所を雑に板を打ち付けて雨露を凌げる程度にしたり、壊れた窓をそのままにして風が荒み放題だったり、もう既に人が住んでいない全壊した建物等、荒んだ景色が続く。だが、それとは別に子ども達のはしゃぐ声が聞こえてくる。大人たちの日々を過ごす声が聞こえてくる。
私の姿を見た瞬間、彼らは「観空様、お帰りなさい」という大人の声、「みーちゃん、遊んで、遊んで」という子どもの声を発した。それらから察するに先程の城下町で賑わう場所にいた富裕層とは異なり、貧民層の人間は私に対して過剰なまでに親しみを込めているようだ。
そんな通りを抜けてすぐの場所に木造の校舎が建っていた。校舎を構成する木材は傷一つなく、綺麗な肌だ。この木造の校舎は建設されて一年しか経っていない。
校門には蒼代学園という表札があり、整備されたグラウンドを通り抜けて、校舎内へと入る。そして下駄箱の直近くにある職員室へと、私とアカは扉を丁寧に開き入った。
職員室という木のプレートの掛かった部屋は和国の城下町とはイメージ的に異なり、どちらかというと古き日本テイスト漂う部屋だ。職員の机や椅子は木製。私の住んでいた世界にあるパーソナルコンピューターは存在していない。その代わりにどの机にも乱雑に紙の束が塔のように積み重なっていた。その一つ一つが重要な書類なのだろうが、あまりにも乱雑だ。だが、それらは学園内部だけで通用する内容である為に利用価値は皆無だろう。手に入れても情報を人から人へと伝えるネットワークが和国では形成されていない為、徒労に終わる。一番身近なネットワークは富裕層の方々がよく利用する馬車での運送屋のみだ。
隅には私の身長よりも四十センチほど背の高い鏡が置かれていた。フレームは飾り気のない緑一色である。
「こんにちは、キャシーさん」
「こんにちは、キャシーさん」
それぞれ白い上衣とジャージのズボンを着込んだ茶髪のショートボブという容姿である中年の女性にお辞儀をした。中年の女性はキャシーという名前でこの学園が建設される前は澪聖女教のシスターだった。今は学園の国語教師だ。
椅子に座りながら書類の上をキャシーの黒瞳が忙しなく動いていた。
私達に気づき、書類に目を離して、キャシーはお辞儀をしながら、
「こんにちは、朝露ノ澪様、朝露ノ詩衣夏様」
私の事を朝露ノ澪、アカの事を朝露ノ詩衣夏と呼んだ。
何故、そうキャシーが呼ぶのかというと、あまりにもその人物に似通っている為だ。だが、本物という事は決してない。和国の公式発表では朝露ノ澪と朝露ノ詩衣夏は事故死したと発表されていた。その事を思い出した私は愛想笑いを浮かべた。
「そんな名前で呼ばないで下さいよ、縁起が悪いじゃないですか」
そう答え、近くに置いてあった木製の椅子に腰掛ける。
「癖なんだろうけど、いい加減にあたし達の名前を呼んでくださいよ。とはいえ、もう諦めていますけどね。あ、これお土産です」
アカは自分の持っている六つの袋を少し前に掲げた。
「いつも悪いね、澪様、詩衣夏様」
アカがキャシーの机の上に置いた六つの袋の中身を確認しながらキャシーはそう言った。
「いえ、私にできるのはこれしかないですから」
私はキャシーの机の上が食べ物の入った袋で埋まってしまったのを横目で見て、流石に買いすぎたかとツインテールの右部位を手でふわっと触る。
「足さえあれば、もっと役に立てるんだけどね。本当に情けないよ」
キャシーは自分の左足の存在しない膝から下の部位を悔しそうに眺めながら重苦しく言った。
目で追うと、キャシーの左足の存在しない膝から下の部位は無く、その部位に当たるズボンの布地は何処からとも無く入った隙間風で微かに揺れていた。
「キャシーさんは十分過ぎるほど働いてくれてます。おかげで蒼代学園を成り立たせる事が可能となっているんですから」
同情するような偽善者笑顔で業務的に私はそう言った。私の知る限りではキャシーの失われた部位は周辺諸国の人間に食われたらしい。近所の噂なので信憑性に疑問があるが。このような悲劇というモノに慣れていないと、目を反らした。
「戦いのない世の中に備えて平和利用を主とするアリアの使い方と過去の日本義務教育を中心とした勉学。それに部活。天才だよ、澪様」
「天才だから当たり前だ」
天才か。幼い頃から天才と周囲から賛美されている為、聞き飽きた言葉だとそっぽを向く。
「ふふ、背伸びして。なんでこんな良い子が和国でも兵器として恐れられる存在なんだろうね。世の中、狂ってるよ」
キャシーの溜息交じりの微笑みはどうしようもない人の罪を体現しているかのようだった。
世界は常にどうしようもなく、狂う事を私は知っている。私が元々、いた世界は観空―子どもを平気で捨てたり、自分の意思が通らないからと小さな悪口―精神的殺人から大きな戦争―肉体的殺人までしたがる。全く、はーねぇの小説―空想よりも逸脱した混沌的な醜悪さに彩られている。だから、諦められるんだろうねと唇をかみ締めた。
「人は脆弱な生き物だ。私は腕をもぎ取られたり、心臓を刺された程度では死なないからな。差別されるのも当然だ」
その言葉を否定するかのように乱暴な音が突如、部屋に響き渡った。
振り返ると扉が開いており、
「随分と冷めたモノの見方をされるんですね。おはよう、兵器ちゃん」
いつものみーちゃんという親しみが偽りと言わんばかりに冷たい視線を私に投げかける。それがここでは普通の光景なので私とアカは動じる事はない。
馬鹿姫、また始まったとばかりに、相手にしないという脱力した視線を雫に投げかけた。
「ひ、姫様」
キャシーは驚愕のあまり、左手を隣の机に置いてある書類の山にぶつけてしまった。思わぬ力を受けた書類の山は紙の雪のようにゆらゆらとゆっくり床に落ちる。
「どっちが本当なのだか、わからん」
だが、実際は民の目があるからそのような態度を取るのだろうと、小学生のたのしくない算数の問題を解く時並みの刹那さで理解していた。だが、その事を暴露すれば子どものように暴れてみーちゃん馬鹿っと言うだろう。察する事の出来る私は自嘆した。
「今日はどのような用件でこのような貧民街のボロ屋敷に……」
口を必要以上に開きながらキャシーはそう言った。
「喜べ。兵器ちゃんのお姉さんを連れてきた。当然、ここへと住んでもらう。これで貴女の家の防衛もオーケーだぜ、マイケルぅ。凄い、これは買いだね! 今なら雫ちゃん寝顔写真付き!」
「は、はい。仰せのままに、姫様」
商人がモノを消費者に買わせる為にやるコントを一番、それから遠い和国の馬鹿姫が職員室中に響くアホ声で演じているのを目の当たりにして、キャシーはああ、朝露ノ澪様が生きておられたならと思いつつ、地面に跪いて首を垂れるのだろうと私はフロイトみたく精神分析した。
それに満足して何度も頷く雫。
「雫ちゃんは失礼させてもらいますよ」
「じゃあな、王の器にない者よ」
せっかく、雫が頑張っているから遊んでやるという意を込めた変わった挨拶をした。
「じゃあねん、覚悟のない大量殺戮兵器ちゃん」
一方、雫は締りの無い笑みでそう言った。
雫と私の両者がすれ違おうとした瞬間、雫の手を握る。振り向く雫。
「ロストガーデンは使わせない。ならば、奪うしかないだろう。目の前にある絶対的な力を王ならどのようにして奪う。王なら?」
「エデンを消滅させる力を持つ存在に強攻策か、兵器ちゃん?」
馬鹿姫の仮面を脱ぎ捨てた修羅姫が楽しそうに嘲笑った。
「浅いぞ、人間」
お前は王に相応しくない優しい人間だから強攻策などできないと握った手に圧力を加える。
「さすが、雫ちゃんのお人形」
雫は自分自身の顔を右手で隠しながら、震えた声で言い私に背を見せ、歩を進める。
場の空気を読まずにまたしても扉が大きな雑音を上げて開かれた。その扉の向こうから現れたのは紺色の制服に身を包んだ月見遥こと、はーねぇだった。
「雫ちゃん、何処に行ったの! 足、速いよ。あ、いた」
はーねぇは雫を見つけるや否や、雫の所に駆け寄った。
だが、
「澪」
その謎の一言を言った後、雫ははーねぇには目もくれずに職員室を後にした。
「ん? どうしたんだろう」
首を捻るはーねぇの手を私はぎゅっと、握り締め捕まえる。
「澪様のお姉さんはそこにいる方かい、澪様?」
「澪? まぁ……そういう渾名ね」
はーねぇはそう呟いた後、
「はい。観空の姉の月見遥と言います。これから観空共々、よろしくお願いします」
微笑みを零し、編集者に挨拶する時のような四十五度、腰を曲げたお辞儀をした。
「はい、よろしく。じゃあ、私は子供たちの夕食を用意しないといけないから、詳しい話は、そうだね……澪様に聞いてね。澪様、頼める?」
慌てて引き出しに閉まっていた腕時計を取り出し時計の針を気にしながらキャシーはそう言う。
ちらっと覗くとキャシーの腕時計は十二時三十分を差していた。
「そうですね、学生達がお腹を空かせてますね。私の弟子が暴れだしちゃう前に準備の方、お願いします」
キャシーの慌てた素振りがそれのせいだと気付き、苦笑しながら私はそう言った。
「はいよ。遥ちゃん、またあとでね」
まだ、出会って間もないはーねぇに気さくにも手を振った。その大らかさにはーねぇはきょとんと呆然とするしかなかった。
「言霊 一時の浮遊 スカイ」
そうキャシーが呟くと、キャシーの腰が椅子から一センチほど浮く。それを見届けると静かにキャシーは歩き出した。歩き出したというよりも上空一センチほど浮き歩いたといった方が正しいだろう。そのまま、キャシーは職員室を後にした。このような浮遊系のアリアをここまで使いこなすのはキャシーとアカ、私しかいない。尤も、朱と私のアリアの技術は、それとは次元が違う。
「アリアって何でもアリだね」
ふと思いつくままに零したはーねぇにアカは残念そうにはーねぇの耳元で何やら呟く。
すると、はーねぇは赤面してしまった。
はーねぇのお陰で誰もが喋りにくくなった空間を土足であがるように突如、それは扉のノブをぶち壊して現れた。
「お腹すいたぁ! キャ……あ、観空先生! 帰還なされていたんですね。今回は救助任務だったんですよね? きっと、観空先生の事だから成功ですよね!」
自分の破壊した扉のノブを右手に持って、壊したという事実を忘却の彼方へと忘れてきたような喧しい声を発した。
その男の子は非常に類を見ない特徴を持っていた。例えば、大きな口に見える犬歯。ウェーブの掛かった首筋までの黒髪。蒼代学園の女子の方の制服。女子の制服は純粋を表す白色のブレザーとプリーツスカート。黒いニーソックス。十五歳の男の子としては絶対に間違っているその容姿。だが、童顔である為、恐ろしいほどに全く違和感がない。
「誰ですか、観空? この女の子は?」
初対面であるはーねぇがその男の子―踝深瑠の正体に辿り着いていないようだ。
また、馬鹿が目の前に現れたという哀れみの瞳で深瑠を見つめながら深瑠を指差し、断言する。
「変態。それ以上でもそれ以下でもない」
「いや、違う。この子は男の子で踝深瑠君。奈式風羽っていう生徒とこの学園で一二を争うアリアの詩い手で、最強のアリアの詩い手である月見観空の二番目の弟子」
すぐさまアカが私の故意による失態のフォローをした。
「へぇ、偉くなったね、観空」
とんでもない俊敏さで私の両脇に両手を通してブロック。そして私の髪の毛はミキサー内のバナナのように弄ばれた。
「うわぁ~、はーねぇ。髪の毛がぐしゃぐしゃぁあああ」
甲高い声を上げて喜んだ。じたばたと振り回す私の両手を今以上に動かせば、はーねぇの両手を振り解く事が可能だが、そうしたくない。嫌だけど、楽しい。楽しいけど、嫌だ。
「あたしは月見遥。よろしく深瑠君!」
「よろしくお願いします。過去の世界の人だと観空先生から伺っていたのに適応力、凄いんですね。未来はもっと、進歩していると思っていたでしょう」
「進歩か……。人は進歩していないよ。いつの時代も人が人を殺す。それは何か理由が、あるからだ。けど! あたしはあれが、あれが! 理由に成りえる事柄があるなんて思えない! 人間は確実に退化しているよ」
人を殺し、人を喰らうという行為。はーねぇは当人しか知り得ない何かを押し殺し、私に気付かせないように、あらゆる事に興味がある小説家、朝露ノ遥の顔をした。それは怒りのように思えた。だからこそ、聞けないのだ妹の私は。
「見てきたんですね。奈式ちゃんだって、もう。和国の法律では三十日以内に行方不明者が発見されない場合には、死亡って事になるんです」
はーねぇ、奈式風羽の死を私が知らないと思っている……。
奈式風羽は私の一番弟子というだけではなく、いつも私に付き従い、人々から恐怖の対象となっている力と十一歳には似合わない英知を持つ私を崇拝していた。私に学んでいる風羽は私の加護を受けているから死ぬ事はないと勘違いしていた。出会ったばかりの踝深瑠もそう思っていた。それから抜け出せなかった風羽がクレアル収容所にいる和国の人々を助けに行くと言うのは時間の問題だった。止めるべきだったという後悔が私の頭をずっと堂々巡りしていた。
私の罪が一つ、増えたのだ。馬車の中から見てしまったのだ。この世界に来てはじめての友達であり、一番弟子にあげたお気に入りの水色のリボンがあるはずのない荒廃した土地にあったという事実と小さな亡骸。それでも、自分を気遣う姉の為に黙っていようと大人びた。それでも、二番弟子である踝深瑠の為にいつもどおり接しようと大人びた。
「奈式風羽があそこにいた者ならば……私は……兵器にもなり得なかったのか」
ふと、死者の声を思い出してしまった。
『みそらん先生、約束してください! 先生の力でいつか、二十一世紀の平和だった日本を私に見せて下さいね! ストーカー小学生からのお願いですよ?』
遠い夕暮れの中で、記憶の果ての夕暮れの中で、死者は今……微笑んだ。薄い緋色の影に染まる笑顔と遠慮している薄い笑窪が印象的だった。
だから、こころはおれた。
「観空、あなたは……」
「先生、奈式ちゃんは死んだんですね」
「あ……ああ……あ……」
はーねぇと深瑠の問いに対する答えを鼻水で口の中が粘着いて、発音の悪い声で必死にそう言った。
「僕は、僕は涙を流す事ができないんです。でも、こんなに涙を流したいなんて!」
近くの机とは離れた場所に無造作に置いてあった椅子に深瑠は腰を掛けて、背もたれに背をつけて眉間に皺を寄せて眉毛を垂らしても、涙すら出ない嘆きの表情が観られないように天井を仰ぎ見る。深瑠の涙は深瑠の両親の肉片と共に喰われてしまったから、深瑠は心で泣くしかないのだろうと私は哀れむ。
「私は、私は、もう遅いかもしれないけど」
その言葉を口にした時、
『私が誰なのかを知ってる?』
生きていると認識した時から零である月見観空の人生を費やすに値する命題が頭に鳴り響いた。それは頭痛のように鳴り響いた。
「私は兵器だ。第三次世界大戦中、世界の文明を消滅させた唯一の言霊、神の裁き……ロストガーデンの詩い手!」
否定を肯定に変える為に叫んだ!
兵器。慕ってくれた友達の為に私は選択した。
無意識に十一対の翼は開く。白、灰色、黒、青、赤、黄色、緑、橙色、紫、群青色、輝色の翼達は復讐心に反応してよりいっそう、その色を神々しくさせた。そしてそれは禍々しくもあった。光に包まれた私の身体を見た朱、遥、深瑠は目を眩ませる。その隙に慌しい足音を立てながら扉を乱暴に開けた。
<七>
目の前の光が消え去り、あたしの妹である月見観空も姿を消していた。理性というモノで怒りという感情を自生出来る妹は怒という感情を何処か冷めた目で見下ろしていた。何でも理性で片付けようとするのだ。だが、あの全てを焼き尽くすかのように鋭い目つきの紅い瞳はそれとは異なっていた。
哀という感情しかない小さな新しい妹に昔、名前をプレゼントした。
『あんたは本当の自分を見つけるまで月見観空ね』
そうしなければ少女はいつか、哀さえも捨てて、生きる事を冷めた目で見るようになると当時の小学生だったあたしでも、それが分かるくらい観空は自分を求めていた。
『うん!』
仮であっても自分というモノを見つけた観空は微笑んでいた。子どもらしく、何も考えずに。
だからあたしは叫ぶんだ。
「違う!」
それなのに足が動かなかった。この世界の月見観空という人間があたしの知る月見観空と微妙に違う。だが、本能のようなモノ―思い出が知っていた。月見観空が兵器であるはずがないと。震える足で無理やり、扉へと歩を進める。一歩、二歩、誰かの手があたしの指に触れた。観空の手のようにお日様みたいに暖かい手。
その人は言う。
「そうじゃないなら行こう。今の月見観空ではロストガーデンに飲み込まれる。絶対的な自分を確立していない観空は最強最悪のアリアを撃てない!」
手のぬくもりに一瞬、朱の中に月見観空を感じた。いつも微笑む朱という人間は一体、なんなのだろうという訳の分からない疑問を抱きながらも朱の言葉に耳を貸した。
床の上を翔る慌しい音。私は怒りに身を任せて獣のように猛く走り続ける。
それは何に対する怒りか! それすらも既に証明できない。証明しようにも数字では計れない未知の仮定―感情だけが存在した。
何人もの、生徒が観空先生と私の事を呼ぶが子どものように泣きじゃくった顔を見られたくない私はそれを無視して、階段を二段飛ばしで駆け上がった。
「うわぁああああああぁあああ、うくっ、どうして私は誰も救えないセフィ!」
「観空さんと私の力は強すぎるから誰も救えないんです」
同一人物の口から二つの意思がはっきりと交差する。自分の力ではどうにも出来ないと学園中に響く声で泣き喚く私と、毅然とした態度で冷静な分析をするセフィロト。
「何人! 何人! 一体、何人! 殺された! あんな馬鹿姫に言われなくともロストガーデンを今ぁ、うわぁあ、使ってやりゅ! 第一セフィラ開放、第二セフィラ……」
背にある白、灰色の翼が大きく羽ばたく。まるで私の行為を歓喜するように、賛同するように。
「ダメです、それは。人の器では到底、使いこなせない。神でない限り……。偶然、一度目は成功したのです!」
ロストガーデンを蒼代学園の屋上から放ち、グラン国を滅ぼそうとする観空の計画を邪魔するように自らの口から出てきた言葉と別の意思によって階段の踊り場に足止めされる。それは金縛りにも似ていた。
「あれが? 成功だって! 罪のない人を殺したのに! 国を滅亡させたのに!」
この世界に突如、私が現れたと同時に無意識で放たれたロストガーデンを忘れる事などあるはずがない。そこで生活していた人々がたったの一秒もしないうちに素粒子へと還った。人のみを排除した素粒子分解アリアを思い返した瞬間、唇が震えた。
「では今、貴女がやろうとしている事は罪でないというの?」
セフィロトの適切な問いに自分の罪が蘇る。
自分さえ現れなければ、ロストガーデンは放たれる事はなかったという罪。
これが罪ならば世界は幾千年もの間、罪という雨に打たれている。
「いや、罪だ。けど、けど、だけど!」
罪と復讐との間で苦悩のあまり、しゃがみ込む。
目をぎゅっと瞑り、生前の奈式風羽の姿を思い描く。
髪先が軽くカールの掛かった腰まである長い金髪に、深瑠と同じ白いブレザーに、プリーツスカートに、素足のままで黒い長靴を履くスタイル。百五十センチという長身。そして私から貰った水色のリボンは右前腕のみに巻かれていた。七歳の少女特有の雛人形のような見事なまでに可愛いという言葉がぴったりに洗練された顔。今はこの世界にない。風羽を壊したあいつ等が生きている事こそが罪。
「罪じゃない! 第三セフィラ開放!」
私は再び、立ち上がり、屋上の扉を開けて穏やかな昼の一時を破るように慟哭した。
日中の眩しい陽光にも目もくれず、遠い先を睨みつける。その瞬間、黒い翼が大きく羽ばたく。待ちわびたぞという声が今にも聞こえそうな禍々しさを渦巻いて。
『みそらん先生! アリアは意思がキーになってアリアマター―感情共鳴物質が意思に答え、力が具現化される。でしたら私にも撃ってるようになりますか、ロストガーデン』
意思の篭った風羽の言葉を思い出す度に力が漲ってゆく。
「第四セフィラ開放、第五セフィラ開放、第六セフィラ開放……第七セフィラ開放……第八セフィラ開放……」
無表情で淡々とロストガーデンを行う為の準備を進める。青、赤、黄色、緑、橙色の翼が大きく羽ばたいたと同時に淡い光の礫が私の身体を包み込んだ。いや、体内にあった身体を構成するアリアマターが体外へと放出されて包み込んでいるように見えるのだ。それは鬼気迫るという言葉がぴったりの光景だ。
光り輝く空間から十メートルくらいの樫の杖が出現し、私の前に浮遊する。
何百年もの年輪を重ねてきた木の杖に無数の枝葉が巻きついていた。その樫の杖に浮遊しているアリアマターが虹の曲線を描くように吸い込まれた。
「馬鹿な! ロストガーデン!」
アカは扉を開けて口を開けたアホ面のまま、その場に固まっていた。ロストガーデンの絶対的な恐怖がそうさせているのだろう。
「アカ、私は止めないぞ!」
私はアカに向かって鬼気迫る声で強く叫んで、
「第九セフィラ開放、第十セフィラ開放……」
同時に紫、群青色の翼が大きく開花した。両手を広げて歓喜の表情に満ち足りる。
やっと、殺せる! その一言に集約された紅い瞳が多くの他者の血を望む。
樫の杖を私は手にしようと右手を伸ばす。
「はぁ、はぁ、はぁ、はっ、あああああ!」
何処からともなく、人の荒い息とはーねぇの声、
「やめなさい! み、観空ぁ!」
私の右手を激しい痛みが襲った。
「え」
私の気は反られ、樫の木は完全な具現化を成立させる事無く、意思があるかのように白光の空間へと戻ってゆく。
私は赤く腫上った自分の右手を摩る。
卓球のラケットを握り締めたはーねぇが涙を浮かべ、郵便ポストみたく顔を赤くさせて怒っていた。
「お姉ちゃん! うわぁ」
はーねぇに目を向けたとき、再度……頭をラケットで力なく叩かれた。それに驚き情けない声を発してしまった。
頬を膨らませて怒ってますよという表情で、はーねぇは私の瞳をじっと睨みつける。
「観空のしようとしている事は虐殺の連鎖に加わる事だよ! 連鎖は一体、誰が終わらせるの! 稀代の天才さん!」
空気中に浮遊されたアリアマターが自分の中に戻ってゆくのを見つめながら、呆然とはーねぇの言葉を聞いた。そして知る。当たり前の世界にそれが終わったという実例がない事を。
「終り……終り……なんて存在しない。何処で終われば良い。何処まで私は殺せば良い」
頭の中で幾つモノの具体案が浮かぶ。周辺諸国のグラン、エフェリル、カイトをロストガーデンで壊滅寸前にまで追い込み、昭和時代の日本と同じ平和憲法の道を歩ませる。だが、それでも和国がかつてのアメリカのような存在になり、理由をつけて人を死に追いやるのではないか?
新たな展開が新たな虐殺の連鎖を生む。そうならば、ロストガーデンという力は無意味だ。
「姫様はロストガーデンがどうしても欲しいようだ。和国の言いなりになり、全てを滅ぼすのか?」
アカは陽気な表情でどす黒い和国の政策を噂話程度の手軽さで話した。そのような話術が真実だという事を物語って、決して空想などではないと私の胸に言葉の刃を突きつけた。
だが、望みどおり、ロストガーデンを使い滅ぼしたとしても、テロという形で何十年も報復に告ぐ報復が待っているであろう。かつての中東のように。
「それでは終わらない。人の感情はそう容易くないからな」
「泣きなさい観空。きっと、奈式風羽さんはあなたに復讐なんて望んでいないから」
冷静に分析しようとする大人びた私に対して、はーねぇは自分の打った私の右手を両手で摩りながらそう言った。こんなにほんわかした光景はこの世界にはそぐわない。けれど、知っているのだ。この世界にはないほんわかした平和という世界を。
どうして一人一人が許しあう心を持てないのだろうか……。だが、自分は持てない。その事に酷く罪悪感を感じながら小さな妹である私は姉の胸の中で、
「あ、あい、おねぇちゃん。うわぁああああ!」
ただ、泣きじゃくる。
それが許される世界が姉妹なのだから。
「うわぁああああ! ごめん、助けられなくて」
観空は遥か遠い空に、手の届かない場所に行ってしまった友人に、生まれてはじめて出来た友人に謝った。
私が目をそっと瞑ると、風羽と交わした会話の数々が映画の名場面のように思い出せた。
四月、風羽の両親がグラン兵に殺され、私が風羽を助けた。私の姿が風羽の愛読書『朝露ノ預言書』の中に出てくる朝露ノ澪に似ている為、何度も澪と呼ばれた四月。私は、
『私は観空だ。覚えておけ、凡人』
七月、こんな暑い日は泳ぎたいなと言った私を満足させる為に、風羽が子ども用プールを用意した七月。私は、
『心地良いな。私の生徒も入れ』
そして月日は経ち六月。梅雨時に熱を出した風羽を遠慮がちに尋ねた私の六月。私は、
『早く元気になれよ、ストーカー小学生』
少しの間、記憶の海に漂っただけでも私の中には風羽という存在が浮かんでくる。すぐに思い出せる存在。それが友達。
「私は学問という分野ではなく、友情という分野を学習しておけば良かった……そうすれば」
私の悲痛な泣き言にはーねぇは優しく相槌を打つ。
「風羽ちゃん、友達になりましょうって言えたのに! 自分善がりの友達ではなく、本当の友達に」
「きっと、風羽ちゃんは観空の事、友達だって思っていてくれたよ」
私ははーねぇの言葉に頷き、広大な風景を俯瞰した。
レンガ創りの大小、様々な形の家々に住んでいるのは命ある人々。その先に目をやると草木の生えた緑の色に溢れた原風景。
咽るような排気ガスの含まれていないそよ風が優しく、はーねぇの髪を揺らしていた。
私はさよなら、最初のお友達と風に乗せるように声ではなく、心を乗せた。その乗せた心は風羽ちゃんへと届いているだろうか?
<八>
数分前、あたしは淡い期待を抱いていた。昭和時代真っ只中の建築物ではあるが、それは見せ掛けで天井には煌びやかな蝋燭の炎が何本も灯るシャンデリア。そして二百名くらいが一斉に各自がゆったりと食事してもまだ、有り余る広大な部屋の面積。壁際には有名な巨匠達の絵。具体的に述べるならばルノワールの『ピアノに寄る娘たち』のような何処か人を安穏とさせる生活感のある絵画が飾られている。そんな夢のファンタジー風景は瞬く間に打ち破られ、現在の月見遥は学園の何の脈略もない外と内の差に頭を抱えていた。
「なんだろう、これ」
あたしは四方八方、挙動を変えながらそう言い、今にも壊れそうな木の椅子に座る。座った瞬間、軋む音がした。
現実とは得てして妄想との格差が激しいものだ。縦長の木製のテーブルには蜉蝣の如き儚げな火を灯す燭台が中央に一つ、右端に一つ、左端に一つ。行儀良く三十脚ある椅子に生徒達が座っているはずもなく、下は七歳から上は十五歳まで白いブレザーに身を包んだ生徒達は思い思いの場所で食事をとっていた。椅子に座り黙って食事をとるキャシーはそれについて注意事を述べる事はない。自由なのだ。その自由―学園を創設した観空が自分の両手を鳥の翼のように見立ててあたしの目の前で言う。
「日本の学園を再現してみたぞ。この学園では日本の義務教育とアリアの安全な使用仕方が無償で学べる」
「そうね。充実してるよ。まさか、日本と同じ教育制度なんて」
箸を握り締めながら皿の中にある唐揚げを弄ぶ。だが、視線は騒がしくも愉快な他者とのコミュニケーションを試みながら食事する生徒達に向けられていた。
「一時間目の数学の因数分解っていうの分かった?」
「全然わかんない。脳なんておかげで、レンジ後のチーズ」
食器の底にスプーンがぶつかる空音がする中、あたしと観空にとっては懐かしい会話を座って食事をしている二人組みの男子生徒が嫌そうに話していた。
「観空先生って可愛いよな」
「幼女だよなぁ、小さなお胸」
誰かが描いた月見観空の似顔絵を何枚も持った女子生徒とそれを一枚、貰って喜ぶ男子生徒との会話があたしの耳に入った。あたしと観空がいた世界にもこのようなちょっと危ない人がいる。
自分のいた世界と同じ所もこの世界にはあるんだと周囲を観察しながら物思いに耽った。そんなあたしのセンチメンタルな心を壊すように観空は嬉しそうに言う。
「しかも、土曜休日のゆとり教育って奴だ。土曜は二度寝し放題。私はなんて生徒の心を理解できる素晴らしいさを通り越して、考え自体が美しい才女なんだろうか」
純粋に観ていた光景が観空の一言によって純粋さが半減したような気がした。そんなあたしの想いにも気付かず、自分の存在自体を賛美し続ける観空。
「こんな天才は褒めるしかないよね、はーねぇ」
ちょこんと首を傾け、円らな瞳があたしの瞳を捕らえた。褒めて欲しい。ただ、そのご褒美の為に学園を創設したかと思うほどの瞳の輝き。
それに目を奪われている間を狙い、
「よし! とこいつはここに退けて……。う~ん、ハンバーグうまうまだぞ」
あたしが横目で見ているのも知らずに、観空は音を立てないよう慎重、かつ素早さを兼ね揃えた箸捌きで皿の上にある人参を一掴みし、床に落としてゆく。
それは熟練した技だ。歳月を経て、あたしという天敵から観空自身の好物だけを口にする為に編み出されたのだ。ハンバーグの中心に箸をぶっ刺して、そのまま大口を開けて一噛みする。
「朝露ノ澪様が生きていれば、エクスカリバー継承者は澪様だったのに。あんな馬鹿姫が使いこなせるはずがない!」
微笑ましいお子様な観空の向かい側に座る深瑠が横にいる男子生徒に話しかけた。話しかけられた男子生徒は角刈りの頭を掻きながら同意するように頷いた。某先生よりも大人な会話だ。
「そうだよね。澪様は預言書に出てくる世界を変革させる神様様じゃないかって当時は騒がれていたよね」
深瑠の友達は言った。
そんな知的な会話が行われている同じテーブルで十一歳の少女の真面目な嫌いな食べ物撲滅作戦は続いていた。天敵であるあたしに見つかるというスリルのあまり額に汗を垂らしながら、最後にピーマンを床に投げ捨てた。ばれているのにさ。その開放感のあまり、観空は天敵の顔を見てしまった。そう、鬼気とした顔を見てしまった。あたしは一部始終みていたけどね。
「こら! 観空! ちゃんと人参、ピーマン食べなさい! 牛乳飲みなさい」
箸でピーマンを突き刺し、涙目の観空に食べろよと差し出した。
「私は人参を食らうエオヒップスじゃない、可愛い観空ちゃんだ。ピーマンはいかにも熟してない感じの色じゃないか。ふむ、これはまだ、熟していないな」
声色を変えてより可愛く、何でも許してしまうくらいの観空の甘い声はあたしの脳内に響いた。それは人間に媚びる猫の声にも似た愛嬌漂う声。だが、その声を視線で払い除け、食べろと箸を進める。観空の唇に嫌いなピーマンが触れた。
「うっううう……」
唸り声を上げて、観空は嫌がる。その愛玩動物のような唸り声に深瑠は反応して、観空に目を向けた。
「そういえば、観空先生って似てない?」
先程の話題になった朝露ノ澪の顔と月見観空の顔を頭の中で照らし合わせているらしい。
「似てるね」
すぐさま、深瑠の友達は意見に賛同した。
そんな彼らの会話をあたしは小耳に挟みながら、コントのようなあたし達のやり取りは続く。
「食べられない。熟すのを待とう」
観空はピーマンを箸ごと手で払い除けた。
「食えって! 言ってんだろう!」
そんな頭の悪い言い訳が通用するはずもなく、観空の考えとは裏腹にあたしの逆鱗に触れていた。迷う事無く、観空の口を片手のみで開けて、その中に躊躇う事無くピーマンを数個放り込んだ!
「あがぁ、あがぁ、あぐぅううう」
口の中は急激に充満した苦味によって人の言葉を喋れないくらいの状況に陥っているのだろう。観空は本来、食道に通す事さえ躊躇するピーマン、人参嫌いだ。
「観空先生。十一歳だったよね?」
観空の兎目を凝視しつつ、深瑠はテーブルから身体を乗り出した。観空はロボットのように首を上下する。
「朝露ノ澪様って五歳の時には十一個くらいアリアをマスターして、二年後に雫様にとっては母の親友であり義母にあたる朝露ノ詩衣夏様と朝露ノ澪様が城の中で謎の失踪」
人参だけはせめて食道の中に通すものかと歯で人参を押さえ込む観空と、突破口を開こうと観空の白歯に人参を擦り付けるあたしに深瑠の友達は実に冷静にそう言った。
「あがぁ、あがぁ」
興味を持ったのか、観空は舌のみを使って言葉という地球上で人間のみが確立できた技を試行した。だが、それは深瑠と深瑠の友達には伝達されずに二人ともはっ? という間延びとした表情をする。
「朝露ノ預言書に出てくる神様の容姿に近い少女がどうしたと観空は言ってるよ?」
観空をフォローしながらも、ついに観空の口の中に人参を入れる事に成功した。次に観空に牛乳を飲ませる為に牛乳の入ったコップを手に持つ。それだけは嫌だと机にぴったりと観空は顔面を伏せた。
「ど、どう考えても最強のアリア詩い手、詩衣夏様とその娘、澪様が失踪なんておかしい」
とばっちりは嫌だと深瑠はあえて話を強引に続けていた。
「エクスカリバー継承者問題と王位継承問題が当時、話題だったよね」
深瑠の友達は牛乳を一気に飲み干す。そして続きを喋ろうとするが、その前に観空が割り込む様にして淡々と話す。
「澪とかいう人間を殺してしまえば、自分がエクスカリバーと王位を継げるとでも馬鹿姫が考えたというのか。あいつはそこまで頭を使えない。未だに九九の九の段が言えないのだからな」
観空の最もな推測に深瑠と深瑠の友達は頷いた。
あたしが手に持っている牛乳入りのコップを観空は掴み、自分の口へと到達するのを防いだ。横目であたしをちらっと覗き、開いている方の手でブイサインを作り、堂々と魅せつけた。
深瑠の手から牛乳入りのコップを奪い取り、
「飲みなさい! わがままするんじゃありません」
その言葉と共に第二の牛乳入りコップは観空の目の前にコップが割れんばかりの勢いでテーブルに降り立った。降り立った衝撃で中にある牛乳が波を立てて少し零れる。零れた牛乳の白い液体が私を飲めと無言で観空に語りかけるのか、観空はブルブルと子羊の如く、震えた。
「うわぁ、はーねぇ、うご、ごめんなさい」
その無言の牛乳の意思を汲み取る事など到底出来るはずもなく、観空は自分の敗北を認めてあたしに頭を下げた。だが、あたしは甘くない。ピーマンのように苦いのだ!
「飲めなかったら、罰として馬鹿姫さんの家庭教師を一週間やりなさい」
それは観空に過酷な労働を強いるという刑罰にも似たお仕置きの宣告だった。
観空は頭の中では恐らくこんな想像が再生されているであろう。第一章、家庭教師の月見観空を稀代の御馬鹿の朝露ノ雫は喜んで受け入れる。第二章、勉強はそっちのけで観空のない胸を四六時中触り、ツインテールの先っぽを頬で撫でる等のありとあらゆるレズっぷりを発揮する。そして、暗い未来。
観空はがくがくと椅子を激しく揺らし、あたしの服の袖を必死に引張る。
「凡人を何の利益なしに教えたくない」
頬を膨らませてあたしに視線を向けずにぶっきらぼうに言った。行動と心理が一致していない。
「ん、何でこの子達の先生なんてしてるの?」
意地悪くあたしは膨らんだ観空の頬を突きながら言った。罰有無よりもそちらの方を観空の姉としては聞きたい。何故なら、観空という十一歳の少女はここでも、向こうでも異質な存在で積極的に他者とは関わろうとせずにむしろ、避けて通る少女だからだ。心配だ。
「それは……」
観空は懐かしむように目を閉じて、何かを思い出しているようだ。
あたしは観空ではないからそれを知り得ないけど小説家のあたしだったら、こんな場面では観空は最初のお友達の事を考えているのだろう。
観空の目じりが何度も瞬いて、
「間違っている世界をいつか、修正する為にだ」
力強く、言った。
「まずは教育からってこと」
「そうです」
観空は牛乳を少しだけ飲む。そして、小さな嗚咽をした。
そんな嗚咽をした観空を可愛いと口々に生徒たちは言い放ち、愉快に笑う。拒絶の笑いではなく優しい顔でみんな、微笑むのだ。あたしの目から一滴の涙が零れた。