序章、あたしの知らない世界、私の新しい日常
序章、あたしの知らない世界、私の新しい日常
<一>
十一歳の小学生だった妹 月見観空がぺちゃんこになって死んだ……。
酔っ払い運転の乗用車が歩道へと進入し、妹を突き飛ばし、そのまま五メートルくらい引き摺って乗用車は何の躊躇いも見せる事無く、逃走したと目撃者の四十代主婦は重々しい表情であたしに語ってくれた。
あたしの中にある慟哭という感情が死に場所はそこだぞ、月見遥と囁いた。霊安室で妹の死体を前にして二時間もの間、泣き続けたあたしにはそれが自分にとって残された手段であるかのように思えた。
病院から抜け出して、あたしと観空との思い出が詰まった学園―詩乃学園を仰ぎ見ていた。
夜闇という漆黒色に一つだけ目立った所々、薄汚れた灰色の学園はそそり立っていた。あたしは考える事無く、正面玄関へと足を運ぶ。
あたしはいつものように自分の下駄箱を開き、真新しさを残した清潔な青色のスリッパを手に取った。
「はーねぇ、いつもありがとうございます。これ、プレゼントです」
もう、何処にも存在していないはずの妹の声があたしの耳に木霊した気がした。詩乃学園では自由に上履きとしての役割を果たすスリッパを持参するシステムになっていた。男勝りなあたしは百円ショップで適当に取捨選択すれば良いや程度に考えていた。だが、百円ショップに行く手間をせずに済んだのだ。いつもなら気を使うという事をまるで学習しない妹がさくらんぼのように赤面しながらあたしにそう言って青いスリッパを手渡したのだ。咄嗟に周囲を見渡す。
古い木材で作られた下駄箱の群が六列くらい規則正しい間合いを開けて並んでいる。あたしはその間合いを一つ、一つの隙間を確認してゆく。観空が実は生きていて学園にいるのではないかという期待に胸を膨らませる。
結局、野球部が部室の倉庫に仕舞い忘れた『朝露ノ遥たん、はぁはぁ』と油性ペンで走り書きされたバットが放置されているだけだった。
はぁと小さく溜息を吐き、何の意図もなく下駄箱付近にある硝子のみの機能性だけを追求した鏡を見入る。
そこに映っているのは肩にぶつからないくらいの長さの宝玉みたいな紅い髪、生気のない輝きを失った血のような真紅の瞳、シャープな顔立ち、ついで胸は女性だと判別できる程度にある小説家 朝露ノ遥が詩乃学園指定の紺色尽くしのブレザーと短めのスカートを無駄な皺のなく着こなしていた。ここまでならば、あたしはあたしをメインヒロインに抜擢したファンタジー物を一作品拵えるだろう。だが、こいつには致命的なモノが欠けていた。表情が鬱々しく、喜怒哀楽の感情が欠落した人間としての基本要素が抜けている美少女ヒロインに誰が萌えという文化を見出されるのだろうか、見出せるはずがない。
「はーねぇは世界で一番、可愛くて美しいお姉様、か。なわけないでしょ? 観空」
鏡に映る自分に辛口コメントを残して、あたしは世界にさらならする為に歩き出す。
喧騒のない廊下に響く音はあたしの不規則な靴音だけ。右足、左足、左足、転倒しそうになる、上体を維持し右足、左足、右足、転倒する、起き上がる、歩く。
詩乃学園は真面目な良い子ちゃんばかりが通う進学校だ。だからなのか、埃やパン屑、おにぎりを包んでいたビニール包装紙、誰かがうっかり落としてしまった恥ずかしいラブレター、エトセトラという青春を謳歌している若者達が集う学び舎に漂う生活観というものがない。ここまで整理されていると何か圧迫感のようなモノを感じてしまうのだから人というのは不思議なモノだ。あたしの妹、観空はよく小学校からあたしを学園まで迎えにくると、こう感想を述べていた。
「凡人が少しでも私のような天才の領域に近づく為に独房のようなつまらない空間を自ら、生産し頑張っているのか。はーねぇ、これを無駄な努力って言うんですよね」
数多の天才達に続く能力を持つ十一歳の同年代の中でも背の小さい妹が必死に背伸びをしながら、あたしのコンタクトレンズを本物の眩い真紅の瞳が捉えていた。
先の見えない暗い廊下を歩いてゆく。ふと、自分の靴音とは違う音に気付く。水が落ちるような音。あたしは自分の頬に触れた。生暖かい涙の粒が指に付着した。
「もう、涙は流せないって思ったのに、何処か、壊れちゃったのかな」
何度も妹の前で泣いたのにまだ、泣けるのかと可笑しくなって口を歪ませて笑った。
ただ、壊れたマリオネットのように不揃いな足取りで階段の手すりに手を置いて登ろうとした。
「あ」
足を滑らせて階段に膝をぶつける。痛々しい表情で顔を顰め、あたしは膝を片手で押えて階段を一段一段、登ってゆく。じーんとした痛みは徐々に酷くなってきた。
だが、痛みに立ち止まっていては妹のいる世界へ辿り着けない。
「今、ただいまを言いに行くよ」
空虚を見つめる双眸が屋上へと続く階段を仰ぎ見る。登る度に窓硝子が悲鳴を立てるように何度も風に揺らされて悲鳴を上げる。
あたしにはわかっていた。いや、わかっていない程、意識が朦朧としているわけでもなく、心的病を患っているわけではない。
あたしと妹の為にあたしは生きてきた。その生き方が音を立てて崩れたのだ。
幾つモノのホテルを所有していた両親はあたしと観空には訳のわからないテロリストの集団のリーダーの解放を両親の住んでいた国の大統領はテロには屈しないという宣言で要求を拒否し、それが理由による爆破テロに巻き込まれて死んだ。親戚はあたしと両親の残した遺産は面倒を見るが得体の知れない月見家に本来、いるべきではない赤の他人だからという理由で妹を施設に預けようとした。あたしはそれを拒絶し、両親の遺産を親戚にほとんど渡し、あたしは妹と生きてゆく為に中学生時代からずっと、小説家を生業としていた。決して楽な暮らしではなかったがそれでも毎日、笑顔に溢れていた。そんな陽だまりの中をぬくぬくしていた生活は終わったんだ。
一歩、一歩ゆっくりと階段の段差を踏み越えてゆく。コンサートホールのような素晴らしい音響で再生される足音は淡々と響いていた。
ポケットの中で携帯電話が暴れている。あたしはいつもの癖で携帯電話の着信に応えてしまった。
当然、電話に出る未練なんか、この世に残してはいない。あたしは携帯電話を持った手を握り締めて切ろうとした。
「もし、もし! 落書堂の舟木千鶴です。遥ちゃん、これは一体、どういう事!」
携帯電話の向こう側から中年女性の甲高い声が聞こえてきた。それに混じって紙の音が微かに聞こえる。推測だけど、あたしの残した世界の恨みつらみを淡々と書いた駄文であろう。
確か、こんな文章だったと思う。
運命というのは何処まで人を弄ぶのだろうか。そもそも運命という言葉は誰の視点において形成され、何処へと帰化してゆくのだろう。人の数だけその言葉には終着駅がある。だが、得てして人は舞台の脇役にしか過ぎない。
そんな文章を最期に朝露ノ遥こと、月見遥の小説家としての命は既に潰えていた。
「そう言う意味ですよ、千鶴さん。今までありがとう」
「駄目よ! そんな事観……」
あたしは自分の決意を鈍らせる千鶴さんの説得に耳を貸したくはなかった。廊下の床に強く携帯電話を投げ叩き付ける。携帯電話はあたしの意図した通り、断末魔の悲鳴を上げて身体が粉々に吹き飛んだ。それを見届けると口を開く。
「ありがとう、千鶴さん。観空と一緒に天国で見守っているから今度会ったらまた、あたしの編集者として就いてくださいね」
あたしはもう、言葉を届ける事のない携帯電話に向かってお辞儀をした。あたしはわざと笑みへと持ってゆこうと、誇張した笑窪を作る。天国には観空が待っていてくれるのだから笑わないといけない。
「観空」
その単語を一語、一語区切るように……愛しむように……両手で抱きしめた。
ふと、昔の光景が脳裏に浮かぶ。
『はーねぇ、今度の小説はどんな話?』
あたしが机に向かって懸命にキーボードを操作している傍で、小さな両手が机の端を掴む。
観空の身長は低い為、両手で机の端を掴んだままでは床には足が着かない。両足を左右に揺らしながら机の脚を軽く叩いた。木製の机独特の重低音が響く。太鼓のようだ。
無邪気な動作をあたしがぼんやりと眺めていると、痺れを切らしたのか―
『はーねぇ。黙秘した場合は観空特性の自白剤で無理やり吐かせるよ』
自白剤と書かれた小瓶を宝物のように両手で掲げてあたしに見せびらかした。どうやら、観空の自信作らしい。自白剤の小瓶を掴んだ観空の指を一本一本、ゆっくりと小瓶から離す。
『今度はね、魔法の力で主人公の両親が生き返るお話なんだよ』
『人間は心臓が停止したら約十分程で死亡するからはーねぇ、蘇生できない』
『そ、そうだね』
『あ』
小瓶を奪うと素早く引き出しの奥に仕舞い込む。こんな当たり前で退屈でくだらない。でも、ささやかな幸福をまた、堪能するんだ。そんな一心で固く閉ざされた扉を開く。
開いたと同時に冷たい風があたしの顔を襲った。一瞬、顔を背けた先には意外な光景が広がっていた。
「あ、あんたは?」
雪がふわっと舞い落ちる中、傘も差さずに胸の大きい妖艶な女性は仁王立ちしていた。まるで誰かを待っていたかのように口は堅く閉ざされ、赤々しい両眼だけがあたしを射抜く。
睨むとかいう負の感情ではないが、無表情な笑みを向けて女性はあたしの元へ一歩、近づく。同時にあたしは一歩、後退した。さらに後退しようとするがそれより先に女性が言葉を発する。
「もし、あんたの妹さんが別の世界で生きていたら、そこがどんな世界でもあんたは行きたい?」
紅い瞳に魅入られたように突然の問いに、あたしはすぐに応える。
「 行く。もともと、この世界に居場所なんかないから直ぐにでも」
「自分の世界に本当に、本当に未練はないの?」
女性の再度の問いかけに激昂し、左手でフェンスの金網を激しく叩き揺らした。
自分の世界に未練があるだって?
身寄りのない子を捨てる社会。
自分の世界に未練があるだって?
子ども達、二人が世間の目に冷たく晒され口ばかり達者な世界にさよならしたいくらいだ。
ふざけるな!
「あたしはこの世界が嫌いだ」
両手でフェンスに鷲掴みにし、地に脛を付ける。脛からコンクリートの冷たさが脳へとダイレクトに伝わった。だが、そんな自分の無様な状態よりもあたしが気になったのは、風の流れに身を任せる雪の結晶達に混じって、流れに乗り消えてゆく自分の涙だった。あたしはそれを必死に隠すように両手で顔を隠した。
「え……み、そ、ら」
下から零れ落ちる水を吸い、黒色の生地に異なる黒色が生まれる。あたしの両手に包まれた黒色の布は温もりに溢れていた。それは観空のお気に入りのハンカチだった。飾り気のないところが観空らしい。
このハンカチにもエピソードがある。
「観空が使う可愛いハンカチを買ってきなさいってお金、渡したらこんな質素なハンカチを買ってきたんだ」
ハンカチをぎゅっと握り締めた。感情と呼応する。ハンカチをさらにぎゅっと握り締めた。
「うん」
女性は小さく呟く。
「あたしが、可愛くないハンカチを買ってちゃんと選んだのって言ったら―」
「月見観空なら関係ない。ハンカチには変わりないって言ったんだろ? あたしの知る月見観空ならばそう答える」
「知ってるんだ?」
涙で隠れていた晴れ晴れとした微笑みで見知らぬ女性を始めて観た。
あの時、観空が返した言葉ははーねぇ、ハンカチというのは物質を拭く為だけに存在を許されているんだ。故に可愛さといったステータスは必要ない。そう言ったのだ。表現は異なるが、意味は同義だ。
「やっと、あたしの言葉を聴くようになったね。あたしの名は朱だ」
ローブの袖の中から腕を外部に晒し握手を求める。
握手を求める手にあたしの指先が重なり合う。
「あたしは月見遥。知っての通り、月見観空の姉」
「あたしを信用してくれたようね。あたしの言葉も信じてくれる? あんたを妹さんのいる世界に連れて行く。それが月見観空の願いだからね」
朱は両手を広げて、
「本当ですよ。例えば、あたしはこんな事もできるんだから。これがアリア」
―統べてのアリアの祖 イグドラシルよ。
我に最強の武器を与えよ。
我はイグドラシルの子なり。
言霊は勝利の剣、フレイ。―
朱の右手と左手の間の空間―何も在らぬ場所から、零という数字から有限という数字が生じてゆく。剣のような先端が生じ始める。血塗られた禍々しい朱色に染まっていた。
だが、あたしにはそうは見えなかった。脳裏に浮かぶ白銀の刀身が何ものをも切り裂き、絶命させる剣が今、虚無の世界から現実世界へと帰す。その刀身に描かれていたのは美麗な女神の何かを求めるように天へと手を掲げる絵だった。その絵をあたしがじっくりと観察しようとした瞬間、
「あ」
剣に触れた雪の粒が刹那に炎の粒へと姿を変え、コンクリートを焦がす。雪が剣に触れる度にその現象が発生し続けた。時間を置く間もなく、剣の周囲で発生する為、蛍火のように夜の暗黒に淡い紅色を添えている。
なんと神秘的な光景か。
「魔法。違う。これが現実世界の魔法。詠唱、アリア。凄い、これなら。本当に連れて行ってくれる?」
「はい。アリアはあたし達、世界でいうところの魔法。まさにファンタジー。要領はまぁ、向こうに着いたら月見観空大先生にでも教えてもらうと良いよ」
朱は軽くフレイと呼ばれる剣を振ると既にその剣はそこに存在しておらず代わりに、あたしが飛び降り自殺をしようとしていた夜空が遮る物質を失った事で瞳に映る。
最もあたしにはもう自殺の意思はない。別の意思が芽生えていた。それを口に出す。
「行こう、観空の所へ」
「そういうと思った。戻る時の成功率は当社率百パーセントなんで安心して行こうか」
朱はあたしに向かって、何年も親友をやって来た人に話すような調子で軽やかに言葉を出した。気さくに喋る朱を何故か、あたしは信じていた。
直感という奴なのかもしれない。少年漫画で初めて出会った奴と命を賭けたチームを組む。なんていうありきたりの熱い展開を冷ややかな目で、そんなの打ち解けるの早すぎと酷評する類の一人であるが。
今、わかった。事実を伴わなければ、人の感情というものに奥底から左右されないんだ。
それが直感であり、運命。
そんな訳のわからない事を脳の一部を使い考えている内に瞼が重くなってきた。そういえば、最期に寝たのはいつだっただろうか? 三日前。それとも。
「おやすみ、……。願わくば、……の夢だけはこれからも優しい世界で在りますように。だってね……世界……は」
朱が何か言っているのは理解できるが、内容が理解できない。あたしの脳が眠れと指令を出しているからだろう。良いだろう、その指令に乗ろう。最も虚ろな意識ではそれしか選択肢はない。
あたしは眠る。明日からはまた、優しい世界が待っているのだと信じて。
<二>
車が急ブレーキを掛ける音。それが聞こえるまでは私の日常は醜さの中に優しさがある世界に存在していたのだ。
私はいつものように一人で商店街を歩いていた。いつものようにピンク色のランドセルを背負いながらゆっくりと歩いてゆく。
私が通る事になるであろう通路を一般的な主婦が楽しい気に話を咲かせていた。退屈だったので少し、耳を傾けて見る。
「昨日のバーゲン、何が安かったの、細田さん?」
バーゲンとは低脳な話を話題に掲げるのだな、福与かなお腹をお持ちの一般的な主婦一。ちなみに私は『くもひろ』という食パンが安くなる食パンバーゲンにお小遣い二千円を全て注ぎ込むぞ。
「あら、城也さんは行かなかったのね、冬物のセーターが半額だったのよ」
「行けば良かったわん」
そうガリガリの体型の一般的な主婦二に、一般的な主婦一が下品な笑みを浮かべて言った。
「あら、あの子ちょっとやだ」
「あらあら」
私が一般的な主婦一と二の限られた狭いスペースである横を通り過ぎようとした時、口々に悲観に満ちた声で一と二は言った。
私は立ち止まり、反論しようとしたが無駄だという事は理性で理解している。感情に走るのは月見観空らしくない。
無駄だというのは私の容姿が一般の人間からして見れば、異様過ぎるからだ。
琴の弦のような繊細で細い髪質を兼ね備え、淡い赤い兎の瞳色の髪色がさらに際立たせる。十一歳よりも二つくらい年下に見える童顔という特徴を生かした両端の髪を結わえたツインテールに似合う白い軟らかな布地で出来たフリルが特徴的の夜色の上衣とスカートを身に着けていた。おまけに赤い真丸とした瞳と痩せ細った体型。両前腕に巻かれた水色のリボンがチャームポイントだぞ。
複合的に見ると一般には精巧に幼女美を体現した天使は私以外、いないだろう。だが、一般的な人間程、普通を逸脱した存在に一種の不快感を覚える事が多々ある。
「可愛くない訳ではないのだから良しとしよう」
一般的な主婦の視線を背中に受けながら私ははーねぇと一緒に暮らしているボロアパートの一室へと帰る為に足を動かそうとした。
「赤毛の女の子、避けて!」
「一体、何を言っ」
一般的な主婦一のカラスのような喧しい声に振り返ろうとしたが、背中に十一年を生きて感じた事のない強い衝撃を感じた。感じたという認識が脳へと伝わる前に私は青々しい空を仰ぎ見ていた。
キーキーという車の激しいブレーキ音を聞いてああ、本当にそうなのかと納得した。
身体を支える物は何もなく、ただ太陽の光が目に直接入ってきて眩しかった。なんだ、眩しいと感じて私は腕でそれを防ごうとした。無数の注射針で突き刺されたような痛みを感じるだけで腕が動く気配はなかった。首や、とにかく色々なところを動かそうとしたが動かない。
理解した。死ぬんだ、私。
私の確信を後押しするように周囲の人間の怒号や、悲鳴が響き渡る。
眠ったら暗い、暗い闇が待っているのは承知だったが、死の引力に引き寄せられ、私は深い永遠の眠りに就いた。
「あ、れ?」
私は眼を開いた。当然、そこには天国という都市があり次の生命へと生まれ変わるまで楽しく遊べるのだろうと考えていたが、別の光景が広がっていた。開いた口が塞がらない。
背の高い高層ビル群、そのビル群の間に雑草のように転々と生えているアパートやマンションがあり、お馴染みのスーパー『くもひろ』まで存在していた。だが、ここは日本ではない。私の知る限りでは電車が試験管のような管の中を走り、その管の下には車道はなく、黒人、白人、人種を問わず様々な人々がアスファルトの床の上を忙しなく歩いてゆくなんて光景を見たことがない。
「うわぁ、私が浮いているではないか!」
足元が寂しいという感覚が私自身も変だという事を教えてくれた。落ちるという現象が当然の如く起こるだろうと一気に背筋が凍ってゆく。身体も諤々と震え、急激な尿意が私を襲った。
「おい、誰か助けてくれ!」
私は両手をメガホンのようにして叫んだ。だが、高層ビルと同等の高さにいる私の存在に気付く人間はいるはずもなく、私の声は青々しい晴天の空に消えていった。
「あ、なんで。そうか。だからあっははは」
挙動不審気味に首を振るという行為が今の自分を簡単に説明してくれる新事実を発見してくれた。ビルの巨大なガラス窓に映った何処の欠損もない私が映っており、車の事故があったという事実を証明するかのようにピンク色のランドセルは私の血で所々、赤く染まっていた。ランドセルの真ん中の膨らみが完全に埋没していて歪な平たい箱のような形になっていた。ここまでは九死に一生を得たし、傷もなんか、完治しているし。少々気味が悪いが長い人生、色々あるとでも不思議現象に対して眼を瞑れば良い。
「羽根……生えてますよ、ニュートンさん」
背中には白、灰色、黒、青、赤、黄色、緑、橙色、紫、群青色、色の識別不可能な輝しい色の十一対の翼が生えていた。それを認識した途端に頭の中をある文章が漂ってきた。その感覚は私がゲーテルの不完全性定理を覆した高揚感にも似ていた。
私は禁断の果物を口にするかのようにゆっくりと紡ぐ。
「その翼、遍く世界を越える虚無にして無限。 神の子、月見観空に在りて神を制する者なり。始まりのアリアを歌え。言霊は覚醒の息吹、ロストガーデン」
その言葉を言い終えた刹那、背中が焼けそうなくらい熱さを徐々に帯びてきた。もう、耐えられないと口にしようとした。だが、適わなかった。
白い光が当たり一面を包み込んだ。その光は尋常じゃないくらい、私を魅了した。かつて私に月見観空という名前を与えてくれた人の次に好きと言える程に美しい白い光は自分の十一対の翼から発生しているようだった。
周囲の人間がこちらを見ている。ここから黙認できないがきっと、同年代の一般的な子どもと同じように、こう言うに違いなかった。
「天才様は僕たちと違って赤い毛と瞳の宇宙人だ。お前はあっちに行け」
私の中に小さな殺気が生まれた。ああ、いっそう、私の前から消えてなくなれば良いのに。
白い光が完全に私の視界を奪った。足に地が付いていない事からして私はまだ、飛んでいるのだろうか。ぼんやりと意識が遠のいてゆく。気持ち良い意識の低下という感覚の中で私は溜息を吐いた。
やはり、これは天国へ行く前にささやかな最後の夢だったんだ。
「夢なら、はーねぇを出してくださいよ、神様。私ははーねぇの膝の上で……死……」
今度は何処へと、天国か。私はゆっくりと目を瞑った。
それはしばしの間でしかなかった。
私が再び、眼を開けたら建物だけを残して眼下にいたはずの数十人という人間が全て、そこにいたという痕跡も残さずに消えていた。これが意味する事は、
「殺してしまったのか……私が! いや、違う。いや、違う、違う。うぁああああああ、違う!」
その奇声に答える者は残念ながらいなかった。私の心に罪悪感と発狂してしまえば逃れられるかもという安易さが渦巻く。
「いや、違う。私じゃない。セフィだよね?」
「はい、観空」
なんだ、私の中にいる別の私がやったんだ。ほっとして誰もいなくなったアスファルトの上に降り立った。でも何でだろう?
「涙が出る」
一閃の涙がアスファルトに零れ落ちた。
それが醜さだけの世界で初めて体験した事であり、私達の人殺しの記念すべき日ともなった。
今の私は闇深い、深い森にいる。私を見下ろす楠の木々が不気味で恐ろしかった。だが、私は朱という仲間を待っているのでここから離れるわけにはいかなかった。息を殺しながら潜む。暗闇の外套の中から出てきた私の周囲を旋回する一匹の黄色い蝶を眼で追う。
「お前は怖くないのか、ステファニー?」
天才的な閃きによってステファニーと名づけられた蝶は頷くように、私の前で上下に旋回してみせる。一寸置く間もないまま、ステファニーはゆっくりと飛んで私の元を離れようとする。
「ステファニー、そこに行ったら、私がお前を殺めてしまうかもしれないぞ」
ステファニーは楠木と楠木の間に見える都市の灯りに誘われて、その灯りへと吸い込まれてゆく。
「だから、最初に謝罪するよ。いつか、ロストガーデンでステファニーやグランだけではなく、全てを壊すかもしれない、悲しいな」
その都市、グランは私の住んでいた東京という都市と似ていた。いや、そういう文明が残って復興した地なのかもしれない。
背の高いコンクリートジャングルの木々が離れた距離からでも、雄大さを眼に強く焼き付けてくれる。空を仰ぎ見ると、雲の合間から飛行機雲が見えた。それを追ってゆくと小さな点のような光が瞬いた。朱は私にとっての希望の光を取りに行った。
だが、誰だって絶望の沼に希望を落とすような真似はしたくないと両手を強く握り締め、地面をただ、見つめ続けた。
<三>
これは多分、きっと夢。でもこれは昔のあたしの出来事。
お気に入りの真っ白なワンピースを着て七年前のあたし―十歳のあたしはいつもの公園へと遊びに行くべく、走っていた。辿り着いた先は勿論、いつもの公園だがその公園には昨日まで無かったものがそこに在った。
公園の木陰に真夏の日差しを避けるようにして公園の隅にそれは存在していた。ダンボールで出来た家のような形状、いわゆるダンボールハウスだ。
きっと、中にいるのは中年の冴えない男性だろうと想像していたが、ダンボールハウスから出てきたのは泥にまみれて茶色になったウサギの縫い包みを引きずった四歳の少女だった。油でべっとりした真紅の髪はボサボサで前髪は目が隠れるくらいで、後ろ髪は腰の辺りまで伸び放題。身に付けている大きめのワイシャツには謎の赤い染みやら、青いペンキなどとにかく、ワイシャツの清潔さとは正反対の色が目立つ。
少女はパンの耳を口で咥えながら器用に食べていた。一言も言葉を言わずに黙々と食べ、虚ろな瞳で燦々と輝く太陽を仰ぎ眺めた。
「ねぇ、そこの一般的な子ども」
「なん、なんですか。金なんかないですよ。お菓子も持ってないです」
当時、か弱い小学生であったあたしには奇妙な少女に話しかけられたという動揺の影響で咄嗟に変な言葉を繰り出してしまった。
そんな言葉を無視して、
「私が誰なのかを知っている?」
言葉が出なかった。まだ、小さな子どもだというのに自分というモノをわからないなんて。
しばらく、あたし―月見遥と名無しの少女―後に月見観空はセミの鳴く中、ただ立ち尽くしていた。
<四>
私が誰なのかを知っている?
私は知っている。今のあなたは私の妹―月見観空。
だが、妹は根本的な存在を証明したがっている。
それこそ、全てを創造した神に聞かなければならないくらいの存在証明を求めている。
鈴虫の声が聞こえる。ゆっくりと視界を開いた。
暗い部屋。天井は低い。簡易テントと同等の天井の低さ。床はとても固く寝心地はとても悪いのだが暖かい。どうやら断熱性に優れている素材で床や天井、壁面等は出来ているようだ。
「暗くて色が判別できないけどダンボールか。昔を思い出すなぁ」
額に手を起き、息を吸い吐いた。
左側にぷにっとした軟らかな感触が伝わってくる。弾力のある人肌、寝息。隣に誰か寝ているのだろうと推測し、あたしはその人物の顔を覗こうとした。
「はーねぇ、因数分解を理解できないなんて脳外科に行った方が良いです。絶対に記憶障害です」
寝言さえも自分の価値観でしか語れない人物は月見観空しかいない。微妙に酷い内容ではあるがあたしはその内容には目もくれず、歓喜の涙と嗚咽交じりの声で言う。
「起きて、観空」
「うるさいな。眠らせてくれよ、アカ」
眉を顰めながら器用に寝言で抗議する人物はあたしの想定した通り、真紅の髪と紅い瞳が特徴的な月見観空だった。黒い上衣に白いヒラヒラの裾が付いた黒いスカートを身に着けている。
生意気そうな童顔と長い睫毛を持つ観空は耳を巨大なウサギの縫い包みで塞ぐ。それでは甘いと思ったのか定かではないが、身体に掛けていた白いボロボロの布の中に頭から潜る。
「起きて、観空」
「アカ。私の眠りを妨げると」
肩を揺らす度に面白いほど、左右に水色のリボンで結わえられたツインテールが振り子のように揺れる。
「妨げると少量のトリクロロメタンで眠らせて」
「こら、めっでしょ、お友達にそんな事」
小学生らしからぬサドな言葉に罰として振り子状態のツインテールを捕まえて引っ張る。
「ん、痛い。痛い」
「おはよう、観空」
「うわ」
「おはよう! はー。くっ」
元気の良い挨拶から一変した苦虫を噛み潰したような顔をして、そっぽを向く。
「どうしたの? ゲンコツ、強すぎた?」
「お前みたいな一般人。いや、あなたみたいな可愛らしいお姉さん、知り合いの中にはいない。アカがお姉さんを助けてここに連れられてきた。気を失っていたようだから……わから……んと思うが」
「観空! どうしてそんなバレバレな悲しい嘘を吐くの。はーねぇはそんな妹に育ってた覚えはないよ」
「育てたって。今日、出会ったばかりだ」
俯きながら観空はそう呟いた。
「その腕に巻いた水色のリボン、解いてみてよ」
観空の両前腕を指差す。髪の毛を結えていた水色のリボンと同色のリボンが両前腕に巻かれていた。それはあたしの知る観空と同じ容姿だった。
「う」
観空は心から嫌がるような拉げた愛らしい声を上げた。
「水色のリボンの下には観空が自分で傷つけた切り傷が無数にあるはずだから。あるでしょ、あたしの知らないあたしの妹に似過ぎた女の子」
「そ、そんな事よりお腹空いているだろう? これを食べるか。アカはこんなモノを食べたら食中毒で三日寝込んでしまうと言っているが、私の自信作」
鉄の鍋の中身をあたしに見せびらかす。先ほどまで苦虫を潰したかのような表情だったが、それを見せびらかす姿は無邪気な子どもそのものだ。
肝心の鉄の鍋の中身は色が混ざる事無く、赤、黄、緑などの色が同居する世にも不思議な液体だ。だが、鍋から香る匂いはカレーの甘みを的確に表現した昔ながらの食堂のカレーだ。
これを見せられた瞬間、あたしは怖いくらい満面な笑みを浮かべた。
「食事なんて人間が日々を営む為の動力源なんだ。ちょっとくらい面白いほうが良い。そういうつもりでしょ。食べ物を観空と同じように面白くしちゃうあたしの知らないあたしの妹に似過ぎた女の子さん!」
「腕を! 腕を掴むな!」
あたしから逃げようとしていた観空の腕を掴み、素早く身動きが取れないように観空の背中に伸し掛かる。
「ダ、ダイエットして下さい、はーねぇ。具体的には有酸素運動による効果的な減量」
手足をジタバタと動かし、尚も抵抗を続ける。
あたしは暴れまわる腕を捕らえて素早くリボンを解いていく。リボンの下に隠されていたのは無数の痛々しい躊躇い傷。まるでその傷跡一つ一つが深層心理の不整脈を表しているようだった。
「ほら、傷がある」
「そうだ。私が月見観空だ。でも、そうでないとも言える。セフィ」
セフィという聞き覚えの無い単語に目を丸くするあたしを無視し、観空は自分の中にいるらしいもう一人、セフィなる人物に話しかける為に目を閉じて、神経をセフィとの会話へと移行させているらしいが、
「ぶつぶつ言ってるだけだよね」
言葉というプロセスを用意ない会話がなされたらしい後、静まり返ったダンボールハウスに明りが灯される。
その明りは十一対の翼が灯す光。
その光はそれぞれ白、灰色、黒、青、赤、黄色、緑、橙色、紫、群青色。そして色の見ないくらい輝く色。それら十一色は樹の枝葉のようだ。そして樹である観空を淡く輝かせていた。
眩く光る羽根達は幼い身体を外部から守るようにして羽根を畳んでいたが、観空が見開いたと同期に十一対の羽根は展開する。同時に淡い光の粒子がダンボールに落ち、消滅した。
「あ、観空が天使に、なった」
「私は観空ではありません。私はセフィロト。観空さんの心に住む代償を必要としない完全なるアリアという奇跡を生み出す者。私が示せる完全なるアリアの一つ、ダアトをお見せしましょう。勿論、月見観空の意思によってです」
―我はイグドラシル。七つの世界の根源。
奇跡は我の必然。
示す奇跡は永久たる傷の癒し。
人たる肉体の維持。
言霊は未知なる英知、ダアト。―
この世の者とは思えない気品に溢れた立ち姿。その立ち姿は子どもの観空にはないような気がするが、演技かもしれない。いや、演技だろう。
紡いだアリアが直、効力を発揮しだす。
薄い光に帯びた両前腕にある傷が、独りでに過去の艶やかな肌に戻るかのように塞がってゆく。
人間の自己再生の限界を超越した能力。それは間違いなく魔法だった。
「傷が治ってゆく。魔法、何も代償なく奇跡をもたらすライトノベルにおけるファンタジージャンルに必須の力。凄い! 凄いよ、観空」
完全に傷が治った前腕の肌をまじまじと見つめたり撫でたりした。しまいにはあたしは観空の成した偉業に対して憧憬の眼差しを向けながら歓喜の拍手した。
「観空? まだ理解していないのですね、私という存在を。次に私が表へ出る時には理解できます。戦いの場で」
「何、言ってんの? 観空?」
あたしの言葉に対して何故か、落胆の溜息を吐いた後、観空は指を鳴らして十一対の翼を仕舞う。
「はーねぇ。仕方ない。超常現象の類か、精神分裂症に観えるし、考えようによっては」
また、落胆の溜息を吐く。
「観空、精神分裂症?」
あたしは疑いの表情を観空に向ける。
「違う。でも、こんな事が出来る化け物だったか? 月見観空というアインシュタイン級天才は」
戯けた言葉で自分を誤魔化そうとするが……。
「観空」
あたしにはわかっていた。それが苦し紛れの言葉だという事を。
「これだけじゃない。今の私は簡単には死なない。腕を切断しても、心臓を貫かれても! 瀕死の状態ならば、自動的にダアトが発動するからだ。これが月見観空か! 私は車に轢かれて死んだ。そうでしょ、はーねぇ!」
確かに観空は永遠に失われた。だが、どう観ても観空だ。百三十センチのチビでここまで情け容赦もなく言える少女は観空の他にはいない。しかし、車に。矛盾した解決できない難題はあたしを悩ませた。
「う、うん。けど、どう見たって」
あたしの観空だと言葉にしようとした。
「今の月見観空はエデンという国を滅ぼした存在。人間のほとんどは水分で構成されている。だが、私はアリアマター、感情共鳴物質で構成された、」
言葉を切り、
「人外という存在だ!」
捲くし立てるように、観空は真実を淡々と述べた。
「そんなこと無い!」
すっと立ち上がり、観空をウサギのような真っ赤な瞳で睨みつけた。自分の言うことが全て真実だと語る強い否定の瞳。充血し、涙を溜め……止め処なく、観空の髪の上に零れる。
観空はその瞳に耐えられず俯き、何かを抑えるようにスカートの裾をぎゅっと握り締めた。
あたしの流れる涙、観空の濡れる髪の毛。観空の髪の毛から一滴、一滴と観空のスカートの裾に落ちてゆく。それは染みとなって観空に訴えかける。
あなたは月見観空で良いと。
「わかるものか!」
観空はあたしの顔に自分の黒いハンカチを投げつけ、ダンボールハウスの出口であるボロボロの白い布を乱暴に捲る。そのまま、振り返る事無く走ってゆく。
すぐに観空の後を追い掛けようとするが、見えない重力に足を止めざるを得なかった。
見えない重力。それは何を述べれば良いのかという人との対話において最も大切な内容だ。今のあたしにはその重力に贖う術はなかった。
「あ、ああ、どうして」
そう呟きながら、この世界での最初の景色を見渡す。
あたしの身長―百六十センチなんぞ虫けらと言わんばかりに四十メートル前後の楠木が群を成して周囲一体に自生し、それぞれ立派な青々しい葉を付けている。まだ、身は熟していないところから秋ではないようだ。この楠木達が空気を正常に保持しているからだろうか、空気を吸う度に段々と気持ちが落ち着いてゆく。まるで自然の精神安定剤のようだ。
空を見渡す。
望遠鏡という近代の素晴らしき発明品を使用しなくとも、はっきりと星の海を望むことができる。だが、今はそれに感動する余裕はなかった。
ベガ、デネブ、アルタイルが出ている事から、この世界が自分達のいた世界ではない事を確認する。ベガ、デネブ、アルタイルは夏の大三角だ。これはテレビのクイズを観ていた時、夏の大三角と呼ばれる三つの正座は何? という問いに対し、観空が一般人はこんな簡単な問いにも答えられないのかと同情的な物言いで答えていたから覚えていた。
「どうしてって」
あたしは背後から朱の声を聞いた。振り向くが、誰もいない。
耳から聞こえた声を追って、外から見ると意外と大きかったダンボールハウスの裏手にやって来た。その人物はこちらへ来いと手招きしていた。
焚き火をじっと見守りながら、朱は白い歯が覗く笑みを魅せる。
とても爽やかな口調と焚き火はとても合っているのだが、サスライの旅人? 悪く言うとバグだらけのロールプレイングゲームの旅の魔道士のようなダサいローブは似合っていない。
「朱さん」
そう言って朱の間迎えにある朱が座っている丸太と同じくらいの大きさの丸太に腰を落ち着かせた。
「あんたも月見観空の正体をわかっていないからだ。ごめん、ちょっと、話がきこえちゃった」
朱は自分のすぐ隣に置いてある赤い色のバッグを開き、手を入れる。
「いえ、良いです」
「ま、これでも食べて落ち着きなさい」
バッグからパンを取り出す。
ふっくらとしたその福与かな佇まいはとても美味しそうだ。当然のように涎が口の中に充満してくる。溜まらず、あたしは手を伸ばした。
「ありがとうございます。でも」
人間は時として第六感という超便利な感覚が働き、手にしたパンを二つに千切る。
そこから悪魔が覗けた。パンの中に本来、餡子やクリームといったモノが入っているところに見たことのない青色のドロッとしたおぞましいスライム状に複数の謎の錠剤が乱雑に突き刺さっていた。
「食欲が激しく出ない観空料理は要りません」
それを言うのが必然のように諳んじた。いくら愛しい妹が作ったであろうパンだとしても、料理ではない工作という工程で生成されたものなど食べられるはずがない。言うなれば、ラジコンのタイヤを食べられるか? 否という事だ。
「やっぱり、そう。やっぱり、あたしの方が常識人だったんだ」
朱は疲れた表情で炎を見つめながら弾んだ声で言った。
「はぁ」
やっぱりと声を上げるまでもなく、常識ですという意味での溜息が出た。
「まともな料理なんて観空料理しかないし、困ったなぁ」
「ちょっと、良いですか?」
観空作のパンを丸太の上に置く。それを待っていたと言うばかりに、ふんわりとした毛並みがチャーミングなリスはパンに近寄る。パンを目の前で見た瞬間、リスは慌てて逃げた。近寄る時よりも速い。やっぱりね……。
「ん?」
朱は飯盒を用意し、その中に米を入れて手ごろな石を両端に置き、飯盒を小枝に通し、火の上に吊るす。その一連の動作はとても洗練されていた。
「観空もあたしがこの世界に来る事を希望していたんですよね」
「本音ではイエス。本音ではないところではノー。複雑なんだよ、本音をはっきり言うにはね、優しくない世界だから」
「優しくない世界?」
「鮭ふりかけが残っていたか。観空にしては珍しい」
先ほどのバッグではなく、綺麗な瑠璃色の布の上に置いてあるピンクのランドセルから、鮭の絵が描かれた布袋を取り出すとあたしの方へと投げた。
あたしが両手で布袋を掴むのを確認してから、
「これとご飯で食べてね」
飯盒の鉄板を小枝で軽く叩いた。
「ありがとうございます」
「あんたのいた世界はこれから終わるんだ。終わった原因は第三次世界大戦の最中、隕石に混じって強制的に撒布されたアリアマター。感情共鳴物質とも呼称をされている。当時の人々は事を極秘裏にして軍事使用しようと考えた。そして突き止めてしまったんだよ……。核を越えた悪魔の所業を成す業をね」
感情のない預言書のようにあたしにとっては未来、朱にとっては過去を語った。
「もしかして魔法、アリア」
「空気中にある間は人には一切、害は無い。人の感情とイメージに呼応して空気中のアリアマターは様々な性質へと変化する。これがアリアのメカニズム。それを利用したアリアボックスと呼ばれる爆弾が全ての文明を滅ぼした……。人って愚かだよね?」
「……」
言葉に出せるはずがない。まだ、あたしには未来だと思っていた話。それとは別に朱が言う事が真実であるのならば、あたし達の世界はもう、終わってしまったのだ。煌びやかな街の灯火、しっかりと整備させた道を我がもの顔で走り続ける自動車の群れ、朝の時間帯の人々の群れ。その終わらないと思えるほど怠惰なゆっくりと過ぎてゆく風景がもう、何処にも存在しないかもしれない。
「最初はちょっとした利権争い。アリアというモノを調べていた観空が言ってた。自分を守る為には他国を完全排除しなければならないって考えたのか。最初のアリアであるロストガーデンを生み出し、一撃で日本大陸ほどの国土が消滅した。この辺の詳しい事柄は和国っていう人外達の国で調べるしかない」
朱の紡ぐ言葉の一つ一つに衝撃を受け、指が小刻みに震え、足に力が入らなくなってきた。子どもの頃、観空と一緒に映画館で観た映画ではもっと未来は輝いていた。違う。どうして。どうして。
「和国、日本?」
「そう、正確に言うと日本にいた生き残った人ね。人間の器で気軽に使えるようにする研究の生き残りで他の人間達から差別されている存在。虐殺の対象でもある。その国の人以外はアリアを生涯に一度しか使えない」
「一度?」
「使ったら死ぬから……二度目はないんだ」
「観空と朱さんは……」
「あたし達はそれとは違うけど……例外ってやつ。強いアリアを使おうとしない限りね。お、客人のようだ」
「すいません! 助けてください! 姫様を! アリアマスター、朱様!」
楠木の影から慌てて長身の男性が現れた。切り方が乱雑な前髪に左右の髪の毛は外側に跳ねていて、そんな髪型とは正反対に地味な茶色の制服をきっちりと着こなし、両腰にはそれぞれ刀を帯刀していた。
「そのファンタジーネームで呼ぶって言うことは姫様というのは、朝露ノ雫お子ちゃまですか。全く、あの姫様は。また、一人で軍勢を相手するってお馬鹿な事を言って、個人行動を取っているんでしょ」
姫様という人物を小馬鹿にするような赤ちゃん言葉混じりで朱はそう言った。
「朝露ノ雫って?」
「無礼者! 呼び捨てとは」
あたしの問いには答えず、火の上にある飯盒を躊躇なく蹴り飛ばす。蹴り飛ばされた飯盒は蓋が開き中の米が軟らかな土の上に零れ、泥色に米粒が染まってゆく。それを朱とあたしは見つめた。あたしの目に恐怖が宿ってしまう。
「ご、ごめんなさい」
「ああ、良いんだよ。無礼なのはあちらさんですから。この子は月見遥。兵器、月見観空の姉君です」
「し、失礼しました。兵器にはこの事は御内密に。殺されてしまいます」
月見観空という名前を出された途端に軍人の態度は一遍し、軍人はまだ観ぬ恐怖を避けるべく地面に手と膝を付けて頭を下げた。
こうまでさせるほど、観空が恐ろしい対象になっている事に違和感を覚える。
「殺されるってそん」
「さて、それよりもお子ちゃま姫を助けに行こう、遥と、名は?」
あたしの反論を妨げるように早口に言った。
「俺は霧神瑠多。先週からそのお子ちゃま姫の護衛役だ」
腕を伸ばし、友好の証である握手を朱に求めるが……。
「ん、瑠多。行くか」
霧神に背を向ける。
「ああ」
それは想定されていた事なのか、霧神は動じず業務的に答え走り出す。朱とあたしもそれに続くが、スポーツという爽やかな生活の潤いから長い間、遠ざかっていた為、何分もしないうちにあたしと朱達との距離は離れてゆく。
「ちょ、ちょっと、速い。置いてかれる!」
「しょうがないな。お姫様抱っこだ」
見かねた朱は引き返し、軽々とあたしを両手で抱きとめ、先ほどと変わらないペースで走り出した。
「うきゃ」
まさに走るという表現に相応しい猛走に驚き、情けない声を上げた。
楠木と楠木の合間を縫うようにして、左右ジグザグに道無き道を進んでゆく。勿論、足元は何処かのハイキングコースのように歩き易いという事はなく、歩く障害となる大きな岩や道を塞ぐように倒れている楠木や雨で削られて出来た半径三メートル程の水溜りを走り抜けた。
先の見えないほど暗い闇の中に軍人が、プロが恐れるほど、絶望的な事態が待っている。その実態は自分の安い憶測など越えてゆく。生唾を飲んだ。
<五>
静寂な夜明け前という時間を恐怖の時間へと変える重々しい足音が聞こえる。
四名の従者に左右前方後方を守られながら雫ちゃんは足音から逃げてゆく。
危機的な戦闘を迎えなければならない事実を知っていたら、奇抜な格好をして来なかった。雫ちゃんは自分の格好を見渡す。確かに十五歳の雫ちゃんにぴったりのコーディネイトだ。
上衣は漆黒の色に、両肩には造花の紫の薔薇。漆黒のスカートは両手で裾を持ち上げなければならないくらい長い。裾には白いレースが付いていて走る度にひらひらと風に揺れた。これで胸と身長さえあれば、神秘的な少女というフレーズにぴったりなのだが、走る度に胸は揺れない。雫ちゃんはきりっとした威厳に満ちた表情で前を見据えているが、身長が低いせいで見えるのは前方の兵士の汗で服から透けて見える隆々たる逞しい背中。
「姫様はお逃げください!」
雫ちゃんに対し、後方の兵士がそう叫んだ。
叫んだ兵士は足を止めて、両腰に帯刀していた日本刀を引き抜く。
芸術品とまで各国から謳われる日本刀の刀身は所々、刃毀れしており多量な赤い血により半分、紅く染まっていた。だが、兵士はそれを見てチッと舌打ちして道を引き返して行った。その兵士の後を続くようにして、姫様である雫ちゃん―朝露ノ雫の元から離れて後に続く。
「雫ちゃんより弱いあなた達がお逃げなさい!」
頼りない容姿とは裏腹に凛々しい声が戦場に響く。これでは闘えないと判断し、スカートの裾を迷う事無く、手で千切り短くした。
ポニーテイルの位置を両手で直しながらアリアを詠唱する。読みなれた詩のように。
――全ての主神。雫ちゃんはあなたの心に詩う。
捧げるべきものは雫ちゃんの根源。
示す奇跡は貫く雷光。天空の覇者の如く一点を制す。
雫ちゃんを邪魔する者に裁きを。
言霊は神々の雷、ミョルニル。―
そのアリアが完成した時、雫ちゃんの片手は柄の長い槌を握り締めていた。それが奇跡の試行の結果だった。
「姫様、お願いですから逃げてください」
兵士の一人がそう言いながら雫ちゃんの腕を手に取るが、払い除けて銃を持った十人からなる部隊へと突っ込んだ。
部隊は突っ込ませはしないと、雫ちゃんに狙いを定めて硬い引き金を引く。卵が弾けたような怪音の後に銃弾が乱雑に雫ちゃんを目掛けて殺到した。
一発の銃弾が頬を掠める。裂けた皮膚から鮮血が溢れた。それを痛みで知りながら、目を渇開き横に槌を振るう。
すると雲ひとつ無い夜空から一筋の雷光が現れ、銃弾を雫ちゃんに撃った兵士達の身体を通り過ぎてゆく。兵士達も突然の事で悲鳴を上げる間も逃げる間もなく、墨のように黒く焦げた物体が鈍音を立てて背の高い雑草の中へ消えた。
かつて同僚だった黒い物体を見ながら言葉無く、雫ちゃんの力に衝撃を受けるが……もう、遅い。
何故なら彼の頭上には槌を持った雫ちゃんがいたからだ。口を歪ませながら、躊躇無く振り下ろす。頭蓋骨が見事に陥没し、目を見開いたまま、絶命した。生死を確認せずに獣のように駆けてゆく。たった、数分で人を殺害したというのに精密機械の如く次の獲物を探した。
「強い。あれが姫様のアリア、ミョルニル。その名が示すとおり、打ち砕くもの」
「ひ、姫様に続け!」
「おう」
「ああ」
それぞれがそれぞれを励まし合い、雫ちゃんに続いた。
五十人いた雫ちゃんの護衛隊が隣国のグランに、一方的に壊滅させられた時点で四人という人数は口に出さなくとも戦力的には絶望的だ。それでも兵士達は祖国である和国に忠誠を誓う身として美しく戦い続ける。
「あれがアリアか! 怯むな! 前出ろ!」
銃を持った二十人もの屈強な男達が小柄な雫ちゃんの前方を塞いだ。一斉に撃たれたら間違いなく血だるまになるだろう。避ける算段を思考する間もなく、銃弾は放たれる。
「姫様!」
四人の兵士が一斉に雫ちゃんの盾になるべく、走り出した。一人が間に合い、雫ちゃんに敬礼して銃弾が頭、腕、右手、左手、右膝、左膝、心臓、肺……様々な部分に減り込み穴が開き、血を噴出す。空に舞った血が周辺に落ち、土を赤く汚した。飛び散った血液は雫ちゃんの上衣にも付着する。付着した血を小指でなぞる。倒れている自分を守った兵士に気を取られているうちに楠木の背後から無数の銃弾が放たれた。
そんなの予測していた。人形如きが雫ちゃんを殺せるはずがない!
「ミョルニルを……ただの攻撃アリアだと思うな!」
激昂の雄たけびと共に槌を空へと投げる。投げた槌は黄色い光に姿を変え、網目状に地面に突き刺さる。網は見事に銃弾を捕らえ離さない。
「何! 銃弾が囚われただと!」
「こんな不細工な弾は入りません。返しますよ。とりゃああああ!」
網目状の光に触れ、自分の方へと強く引っ張り離す。網に張り付いていた銃弾は加速度を付け、放たれた方向へと飛翔してゆく。楠木の幹が血に染まった。
どうやら、意図した方向へと正確に命中したようだ。ほっと息を吐く暇もなく、銃弾が雫ちゃんの処へと放たれた。横に跳び倒れ込む。
「う」
完全に避けたと認識していたが、その認識は甘かった。左足から血が流れ出す。
撃たれた箇所を左手で庇いながら、右手で地面を着き、立ち上がろうとするが左足に力が入らず再び地に伏した。上衣は砂に混じれ、繊細な肌に砂粒が付着している。
そんな状態の雫ちゃんを守る為に残り三人の兵士達が自分達の身体で壁を作る。前方、左側、右側に陣を組んだ。
前方の兵士が刀を地面に突き刺して叫ぶ。
「姫様を守れ! 言霊は冷徹なる氷の刃、アイスソー」
「調子に乗るな、人外ども!」
言霊が完成する前に突如、出てきた敵兵に心臓を抉られる。
「うぎゃあああ」
前方の兵士は絶命の悲鳴を上げるが、倒れる事無く姫様―雫ちゃんを守る為だけに立ち尽くした。
左側の兵士が敵兵の首を刀で跳ね飛ばす。
「う」
跳ね飛ばした首は勢い良く楠木に打つかって、草の中に落ちた。緑の色がすぐさま、赤色に染まりきる。
「あ」
その残忍な人の殺し方を目の前にしてそんな間抜けな声が雫ちゃんの口から漏れた。スカートの中の熊さんパンツが湿ってゆく。恐怖のあまり、年相応の感情が戻ろうとしている。姫としての覚悟という陳腐な鎧が脱げた。
「死んじゃうよ……雫ちゃん……このまま……」
せっかく、みーちゃんが雫ちゃんのところに帰ってきてくれたのに死にたくない。お人形じゃないお人形がいるのに。雫ちゃんは歯を食いしばった。
「もう、姫様は十分、闘われました。逃げてください」
左側にいた兵士が憔悴しきった雫ちゃんの両手を持ち上げ、そのまま抱えた。
「もうすぐで私達には兵器と味方が届く手筈になっています。後退しましょう」
右側の兵士がそう言った。
が……彼の言う兵器とは雫ちゃんの脳裏に思い浮かぶモノは一つだ。アリアを唯一、無限に使用できる国である和国をも超えるアリアの詩い手、月見観空。みーちゃん。
小さなみーちゃん、雫ちゃんだけのお人形を汚いお人形の血で汚さなければならないのか?いいえ、それは自分が許さない。
「アホ! 可愛い、可愛いみーちゃんを戦いなんかに出すか! ボケ!」
兵士の両手を振りきる。
「言霊はミョルニル、神々の雷」
今の自分の状態では完全な状態のミョルニルは使えないと考え、力を増幅させる前言霊を省略し、槌を手にした。前文を述べていないアリアと述べているアリアとでは威力の差が違いすぎる。今のミョルニルでは普通の槌同様の打撃と同時に電気的な衝撃を与える事しかできない。普通のアリアの詩手ならば自分の力をセーブして戦う前文無しのアリアが通常手段。だが、姫様である雫ちゃんは十分にその訓練を行ってはいなかった。
「敵はたった四人だ」
「和国の姫は生け捕りにして食用肉にする」
食用肉という言葉が兵士達の耳に入った。兵士達は互いの顔を見て頷くと雫ちゃんを残してその言葉を言った敵国の兵士に襲い掛かる。二人の兵士が向かってくるという事態に焦燥し、それが一気に反撃という形に爆発した。震えた指で発砲、発砲、発砲を何度も繰り返す。
その結果、
「うぁ」
「姫様、お逃げ下さい……うっ」
辿り着く事無く地面に伏した。二人は二度と起き上がる事はなかった。
「ミョルニルさえ使いこなせないのか。こんなところで死ねるかぁああ!」
自分一人しか生存者はいないという事実に冷や汗を掻く。
もうすぐ来るであろう数十人の敵兵の足音を聞き、もはやヤケクソと言わんばかりに走った。
「あひゃん、いや」
「待て、姫。相変わらず、猪のように猛進する事しか知らないんですか、雫たんは」
音も無く雫ちゃんの背中からナイ胸をむにっと鷲づかみする。そのやる気のない棒読みの声はよく知る人物だった。
「冬架!」
そう呼ばれた女性は、よぉと言う代わりに右手をちょこんと上げた。左手は依然として胸を掴んでいる。どうやら、雫ちゃんの胸がお気に入りのようだ。
無口な口調に合うようなフランス人形風の顔立ちに左目は漆黒の前髪によって隠され、エメラルドグリーンの右目は雫ちゃんの愚行に対して頭にきているのか、怒りのような感情が見えた。
左右のツインテールは紫の薔薇の着いた黄色の輪ゴムで形成され、地面に着くか、着かないかの位置まで伸びている。いわゆる不思議ちゃんという系統の女性だ。肌の艶がある事から二十代の女性である事がわかる。ノースリーブのワイシャツをだらしなく、着こなしても様になる……悔しいくらいに。チェックのスカートとそのワイシャツの隙間にあるおへそに嫉妬を覚えた。
「冬架! じゃありません。今回は特別です。朝露ノ澪しか冬架たんは認めていないのですが、今回だけ力を貸しましょう。ただし、力はかなり抑えます。馬鹿姫の力量では扱いきれませんので。私と一緒に勉強したアリアの詩を紡いで」
冬架は胸を掴むのをやめ、雫ちゃんの美しい高貴な金髪の髪の毛を小指でくるくると弄ぶ。
「ありがとう、冬架。え~と」
「ごめ、ごめん」
棒読みな為、謝罪している気がしない。だが、それは毎度の事なので何も気にせずに、上空に向かい手を上げる。その手に冬架は手を添える。
そして奇跡を起こす言葉を詩う。
「我が」
「我が」
冬架に続き、雫ちゃん。
「契約によりて我は感情を欲し」
「契約によりて我は望みを欲し」
二人の手の触れた箇所から淡い光が発現する。
「その元で交わせし無限の軌道!」
「その元で交わせし無限の軌道!」
その言葉を雫が言ったと同時に冬架の身体が淡い光に帯び、雫ちゃんの指先近くの上空に留まる淡い光に吸い込まれてゆく。そして、現れる和国最強の神剣。
雫ちゃんの蒼眼に闘志の火が灯る。
「言霊 悠久なる王 エクスカリバー」
幾つもの伝説を築き上げ、その剣に斬れない物はないとも謳われた和国最強のアリア エクスカリバーが雫ちゃんの両手に今、在る。それも二本。
伝説では第三次世界大戦において和国の人々を助けるため、朝露の祖先がロストガーデンを防いだともされる。その他にアーサー王と呼ばれる人物がマーリンと呼ばれる魔法使いから手渡され、彼を英雄にまで開花させたと言われる最強の剣だ。
一本目は片刃の刀身、二本目は両刃の刀身だが、どちらとも柄は黄金である。その黄金の中に複数の小さなダイヤが散りばめられていた。
雫ちゃんの両腰には二本の神剣を納める金色の鞘が出現し、淡い光の粒―アリアマターを放出し、それぞれ二本の神剣の柄へと消えてゆく。
「人外が一人で何が出来る!」
楠木の森からその言葉を先頭にして、銃で武装した何十人もの人間が雫ちゃんを睨んだ。
エクスカリバーという剣があまりにも有名すぎる為、その力を誰もが知っている。曰く、持つ者に永遠の体力を与える。曰く、斬れない物は存在しない。優勢なはずの彼らを脅かすのはその伝説が真実なのではないかという恐れ。そして人は得てして得体の知れないモノには脆弱だ。
優勢だった彼らと雫ちゃんの立場は一気に逆転した。それを理解した雫ちゃんは思わず、笑みを零しまった。
「何を微笑んでいる馬鹿雫たん」
両方の剣から声が、冬架の声が聞こえた。
「雫ちゃん達の力にチビってるよ、こいつら」
「チビったのは熊さんパンツたん、だ」
余裕の会話をしている間に何十人もの銃から銃弾が発射された。
雫ちゃんが片刃のエクスカリバーを振るっただけでそれは無効化され、破片が水溜りの中に落ち、泥水に浸かった。瞬時に五十メートルも移動し、首を一閃する。
「人外!」
一人の敵兵はそう言い残して絶命した。
「あれ? 左足の痛みがない」
左足を見ると紅く血は付着しているのだが流れる気配がない。
「説明していなかったが、二本のエクスカリバーを使用している時はエクスカリバーが痛覚を消し、疲労を全く感じる事はない」
「私に続け! 至近距離ならば奴だって!」
その言葉に数十人もの敵兵が殺到した。一人の人間を殺害する事など容易い。物量で圧せば容易く勝利できる。だが、その法則は通じない。雫ちゃんはそれを可能とする奥義を思い出した。
そして、実行する。
「死んじゃえ、人形ども! エクスカリバー融合。真なる悠久の王、冬架!」
エクスカリバーが一本の大剣へと化した。その大剣の長さは十メートルにも及んだ。突きの構えを取り、地面を蹴り、そのまま突撃する。走り抜ける度、人間が串刺しになってゆく。
五人もの人間がエクスカリバーに突き刺さり、刀身が一瞬輝いた。すると、突き刺さっていた人間が黒灰と一瞬にして化し、地面に落ちた。
雫は膝を付き座り込む。雫の左足から血が勢い良く流れ、窪地で水溜りを形成していた。
「あぁあああ」
痛みに耐え切れず苦悶する。
「思った以上にヘタレだ。エクスカリバーの本来の力に耐え切れないなんて。誤算ですね」
人の形を形成した冬架が蹲る雫ちゃんを見てそう冷然とした態度を示した。冬架に一応、給料をあげているのは雫ちゃんが統治する和国なのに酷い仕打ちだ。
鋭い風が雫ちゃんの頬を撫でる。
「跡形もなく吹き散らせ血を……」
「もらった!」
二つの声が雫ちゃんの頭上から聞こえた。
「な」
地面の影を見て上を向く。
「雫たん!」
雫ちゃんの頭上に二人の敵兵がナイフを持って殺到する。
もう、駄目だ……。ここで雫ちゃんの人生は終わる最期に、
「みーちゃん、和国をお願いします」
俯きながら静かに呟いて眼を瞑った。
何秒、待っても雫ちゃんに終りは訪れない。はっとして頭上を見入る。
強い光線が頭上の二人の敵兵を貫いていた。
一人は光線が頭に当たり即死し、泥水の中へとダイブした。もう一人は光線が足に突き刺さり、頭から硬い岩に落ちて首の骨を折り、泡を吹いて絶命した。
光線に見えたのは、淡い光―アリアマターで形成された剣だった。
「誰?」
「誰?」
冬架と雫はその剣が飛んできた方向へと振り返る。
そこにいったのは屈強な男でも、美麗な女アリア使いでもない。幼いツインテールの女の子だった。両前腕には水色のリボンが巻かれている。月見観空だ。みーちゃんだ!
はーねぇに会わす顔がなくなってしまい、途方にくれていたら……変なモノを発見してしまった。奴当たりには調度良い!
私の周囲にはアリアマターで形成された剣 ケテルが十本浮かんでいた。嗚咽しながら青い顔をしてゆっくりと歩む。
「みーちゃんなの? 翼がない。完全なるアリアの象徴が!」
馬鹿姫、基、雫はそう言い、私の身体を支えようとするが無視した。虚勢を張らないと立っているのがやっとだ。
十一対の翼を私の時でも展開してアリアを使用できたら、馬鹿姫とじゃれる余裕があるものを。和国の人間ではない私がアリアを使用するには自分自身を形成している身体に含まれるアリアマターを使うしかない。それは命を削る行為に等しい。尤も、そんな芸当が可能なのは私だけらしい。人間はアリアを貯蔵できないからな。つまりは化け物の証という事だ。
「咄嗟に……力の発現と……力を抑える事は……セフィは苦手なんだ。それよりもまだ、いる。セフィ。ケテル完全開放……」
十本のケテルを伴い、私は楠木の群衆へと入ってゆく。
「観空。貴女の身体が!」
「この状況を打開する為にやるしかない。ケテルならいける。コントロールは私が付ける」
走りながら自分の中にいるセフィロトに言った。
「ですが」
「今はそういう気分だ。大丈夫。私は、ばけもの、だ」
流れる涙を吹こうともしなかった。
楠木が一本も生えていない場所へと出て、敵兵が六十人いる事を確認した。十本のケテルが私の意思により、敵兵へ次々と心臓部に的確に突き刺さる。
「みーちゃん。雫が冬架と!」
悲痛の叫びが楠木の森に響き渡った。左足が痛みにより動かない状態の雫では不可能だ。
「冬架を完全に使いこなせないからまだ、姫なんだろうが人間。人間と化け物ならば、化け物が戦うのが道理だろう?」
そう叫びながらも敵を殺害する手は止めない。私、自らもケテルを握り締めて、一人の敵兵の喉元を割切る。
「うが」
低い唸り声を上げて倒れてゆく。返り血が左目の中に入った。
「違う! みーちゃんは化け物じゃない!」
『そんなこと無い!』
はーねぇの言葉が脳内に再生される。
その間にも六十人いた敵兵が三十人へと減っていた。
「言霊は最期の剣、ケテル」
九本のケテルは私の言霊とともに現れる。九本というのが不満だと、唇を噛んだ。
「骨を打ち砕け! これが化け物の戦いだ」
『そんなこと無い!』
九本のケテルも首、眉間、目、頭等の人間の最も弱い箇所に突き刺さり、ケテルの本数分の人間が倒れてゆく。
「げほ。血なんて関係ない。私は人間じゃない」
私は気づかぬ間に、肩に一撃、両足に一撃ずつ、銃弾を受けていた。だが、私は無意識に骨や筋を痛める事無く避けていた。それでも多量の血は流れ、嗚咽する。同時に血が口から吐き出された。
「心臓を貫け! 肺を打ちぬけ!」
言葉通り、近くで肩を震わせていた若い兵士の胸と肺を二本のケテルを手にして突き刺した。抜くといった無駄な動作は一切しない。僅かな時間で私の意思から外れたケテルは消失してゆくからだ。
『そんな事ない!』
「もう、やめてくれよ。小さな女の子が血塗れになる事、ないだろう!」
土下座をして命を乞う兵士に対して宣告する。
「駄目だ! 化け物には慈悲なんかない。そう……慈悲なんか……ないんだ!」
頭を地に伏していた兵士の頭部から串刺しにする。ケテルの先端が顎を突き抜けて見えた。
化け物だからこんなにも惨い戦い方が出来る。月見観空ではなく、化け物としての方が存在は確立されるのではないだろうか。今の月見観空がそれなのだから。
<六>
あたし、月見遥は観空の話を冗談だと思いながらも何処かで、もしかしたらと思っていた。
朱さんと一緒に楠木の森を抜けて広い広場のような開けた場所に出る。
そこにあった光景は今までの月見観空というあたしの妹の存在の定義のようなものを完膚なきまでに崩壊させてくれるものだった。望んでいないのに……。望んでいないのに!
「はーねぇ、こんな私でも私は、月見観空?」
あの優しかった観空が悪魔のように微笑んで涙を流しながら、
「ああああああああああああああああ!」
獣のように叫びながら既に息の切れた兵士の胸を何度も光る剣のようなもので突き刺して、突き刺していた。
「ああ……本当な……んだ……みそら」
涙と共に観空の話が、朱さんの話が全て真実だという事がわかった。
そして、この光景。観空の周囲に広がる数分前までは人間だったモノ。赤く染まった血溜まりの中に腕、足、手、頭、上半身のみ、下半身のみ。それは一体だけではない。少なくとも四十人以上もの五体不満足の人間が転がっていた。
一筋の月光に照らされた観空は疲れ果て体育座りをして、じっと私を見上げていた。
その哀れで円らな瞳は昔のように語っていた。
『私が誰なのかを知っている?』
あたしは昔のように答える事ができなかった。
人というものはなんて儚く脆いモノなのだろうか。まるで溢れそうなコップの水のよう……。
そう……あたしの心の中に響く。




