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第九話 裏切り

 有岡城へと乗り込んだ官兵衛を待っていたのは、かつての朋友、荒木村重の変わらぬ笑顔でした。


 家族の近況を語り合い、世間話に花を咲かせる二人。しかしその穏やかな空気の下には、どろりとした『不可逆の時』が流れていました。


 知略で人を動かし、天下を読んできた軍師、黒田官兵衛。

 彼はまだ気づいていません。自分がすでに、人生最大の罠の中に足を踏み入れたことに……。

 最も信頼し、最も蔑んでいた『人の心』が、いま官兵衛を奈落の底へと突き落とします。

 「官兵衛殿、はるばるこの有岡まで、よう参ったな!道中、さぞお疲れでござろう。まずは足を休めて、ゆるりとなされぃ!」

 

 荒木村重は以前のように官兵衛の肩を叩き、親しげに身を乗り出してきた。その手の温もり、屈託のない笑い声。それは官兵衛がよく知る、豪放磊落(ごうほうらいらく)な『荒木村重』そのものであった。

 官兵衛はわずかに首を横に振った。長旅の疲れより、あの巨大な獣の口のような城門からこの部屋までたどり着く心労の方が、よほど重かったからである。

 

 「さあさあ、官兵衛殿、まずは(さかずき)を交わそうではおへんか。何のお構いもできぬが、(ぜん)の用意もさせておるゆえ。さ、こちらへ……。」

 

 多少(やつ)れてはいたが、最後に会った時と変わらぬ村重だったことに、官兵衛は喉元まで迫っていた緊張を、わずかに飲み込んだ。

 番所では官兵衛の戻りをひたすら待っていた栗山善助(くりやまぜんすけ)母里太兵衛(もりたへえ)井上九郎右衛門(いのうえくろうえもん)の三人が、目を閉じて祈るかのように静かに待っていた。

 この時、三人は、外の世界から切り離されていくような、妙な疎外感(そがいかん)を覚えていた。

 

 「松寿丸は息災(そくさい)か?(てる)殿はどうしておる?」

 

 「松寿は、昨年より筑前(秀吉)殿の長浜にて、それは大事に育てられておると聞き及んでおりまする……。(てる)も、今朝わしを送り出す折、松寿に渡すかのように『干菓子(ひがし)』を持たせてくれましてな。お笑いくだされ……。」

 

 荒木は声を上げて笑った。その笑い声は、かつて共に戦場を駆けた時と同じ、陽気な響きを(たた)えていた。

 

 「それより摂津(荒木)殿、摂津一、見目麗(みめうるわ)しいと名高い、だし殿は息災でござるか?」

 

 「だしは朝から晩まで、キリシタンの祈りとやらばっかりしとるわ!わしに近づこうともせぬわ。がははは!」

 

 一通り世間話を楽しんだ。いや、二人とも楽しんでいたわけではない。これから始まる悲劇の序章であり、両者ともども、内心ではできれば始まってほしくない、不可逆(ふかぎゃく)の『時』が来るのを、必死に言葉で押し留めていたのかもしれない。

 

 だが、手ぶらで帰るわけにいかない。官兵衛は、姿勢を整え、一度咳払いをした後、(わず)かな沈黙を切り裂くように切り出した。

 

 「摂津(荒木)殿、こたびは安土殿に()びを入れ、翻意(ほんい)してほしいという願いを届けに参った。」

 

 その瞬間、村重の顔から温度が消えた。

 さきほどまで部屋を暖めていたはずの笑い声が、氷の破片となって床に散らばったような錯覚に(おちい)る。村重の瞳が、深く、どろりとした闇を(たた)え、官兵衛の輪郭を冷たくなぞった。それは、親しき友の顔をした『死神』の表情であった。

 

 少しの間の後、村重はひび割れた土塊(つちくれ)のような声で口を開いた。

 

 「官兵衛殿…。こたびは誠にすまぬが、その願いは叶わん。官兵衛殿、上様は、少しでも粗相(そそう)があれば、今までの功など(ちり)のように打ち捨てなさるお方や……。

 次は、この村重の番やもしれぬ。一度疑われれば、もはや弁明など通じぬ。このまま首を洗って待つよりほか、道はなかったんや……。

 お主も、あの御方の冷酷な目に、いつかその身を焼かれる日が来る。わしは、ただ座して死ぬことを拒んだ……。それだけのことや……。」

 

 官兵衛は、想像していた村重の言葉に対し、すかさず切り返す。

 

 「摂津(荒木)殿、正気に戻られよ!摂津(荒木)殿が信長様を恐れる気持ち、分からぬではござらん。

 されど、今の織田の勢いは、もはや誰にも止められぬ奔流(ほんりゅう)のごときもの。

 ここで背を向ければ、摂津の民も、お主の身内も、すべてが業火(ごうか)に焼かれることになりまする。

 上様は、一度は疑いを持たれたやもしれぬ。なれど、自ら出向いて誠を尽くせば、道は必ず開けまする。(それがし)が、筑前(秀吉)殿を通じて、命に代えてもお()()しいたそう。 摂津(荒木)殿。わしとお主の仲ではござらぬか。」

 

 こんな甘い言葉で『そうか』となるほど、村重の決断が軽いものではない事くらい、官兵衛は知っていた。だからこそ、さらに追い打ちをかけるように続けた。

 

 「このような袋小路(ふくろこうじ)で、摂津(荒木)殿のような(ごう)の者が()()てるのを見るに()えぬ。

 今、この場で門を開き、わしと共に安土へ参りませぬか。頼む、早まった真似はしてくださるな!」

 

 官兵衛の言葉は確かに村重の心に届いていた。だが、一族の命運を賭けて謀反の返り血を浴びた男にとって、いまさら届く『情』など、毒に等しい。

 

 「官兵衛殿、お主は運が悪い男よ…。実はな、お主がここへ来ることを、誰よりも待ち望んでいた男がおる。」

 

 村重の唇が、(いびつ)な三日月のように吊り上がった。彼は懐から一通の書状を取り出すと、それを放り投げるのではなく、官兵衛の足元へ、汚物でも捨てるように落とした。

 

 官兵衛は村重の冷え切った眼光から視線を逸らさず、指先の震えを抑えながらその書状を拾い上げた。広げた紙の上で、官兵衛の目は泳ぎ、そして一点で凍りついた。

 そこに並んでいたのは、見紛(みまが)うはずもない。幼き頃より見慣れ、幾度となくその右筆(ゆうひつ)をなぞってきた我が主君・小寺政職(まさもと)の、震えながらも確信に満ちた筆跡(ひっせき)であった。

 

 「今般(こんぱん)、官兵衛を説客(ぜっかく)として貴殿(きでん)の元へ(つか)わし(そうろう)

 此奴(こやつ)は心底より織田に心酔(しんすい)し、我が小寺家を無理やり信長に引きずり込もうとする、真に目の上の(こぶ)御座(ござ)る。

 これ幸い、此奴を捕らえ、煮るなり焼くなり、貴殿の御心のままに御成敗(ごせいばい)下さるよう。

 もし官兵衛の首が挙がれば、拙者(せっしゃ)も迷いなく信長と手を切り、貴殿と起請文(きしょうもん)を交わし、一味同心仕いちみどうしんつかまつ所存(しょぞん)御座候(ござそうろう)。」

 

 文字が、黒い蛇のようにのたうち回り、官兵衛の視界を侵食(しんしょく)していく。

 『煮るなり焼くなり……』。その卑俗(ひぞく)な言葉が、官兵衛が捧げてきた忠義のすべてを嘲笑(あざわら)っていた。主君を守るため、家を守るため、心血を注いできた軍略の報いが、この一枚の紙切れに集約されていた。

 

 (殿……これが……これが、殿がわしにに下した最後の下知(げじ)か……。この官兵衛、天下の情勢は読めても、人の心の底に()まった、この暗い醜さまでは読み切れなんだか……。)

 

 官兵衛の手から力が抜け、書状が膝の上に力なく落ちた。全身の血が足元から抜けていくような、耐え難い虚脱感(きょだつかん)。さきほどまで(りん)と伸びていた背筋が、目に見えて崩れ落ちていく。

 喉の奥から、熱く苦い塊がせり上がってくる。それは裏切られた怒りではなく、他人の心を操れると思い上がっていた己の傲慢さに対する、激しい嫌悪と吐き気であった。

 

 「官兵衛殿、お主の『知略』とやらは、主君の『嫉妬』一つ殺せなんだか!」

 

 知略で世を渡れると信じていた若き軍師が、その知略によって最も残酷な形で突き放され、奈落(ならく)の底へと蹴り落とされた瞬間であった。


 第九話をお読みいただきありがとうございました。


 ついに運命の裏切りが描かれました。

 村重の豹変もさることながら、官兵衛の心を最も深く抉ったのは、長年仕えてきた主君、小寺政職の非常な一通でした。


 「煮るなり焼くなり……。」

 忠義を尽くしてきた男が、主君にとっては『目の上の瘤』に過ぎなかったという残酷な現実。この時、知略に生きてきた官兵衛の誇りは死に、変わりに何かが生まれようとしています。


 次回第十話、

 今までは史実に沿った物語でしたが、ここから史実の空白を埋めるオリジナル・ストーリーが色を添え始めます。

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