第八話 荒木村重
織田信長に反旗を翻した荒木村重。
誰もがその真意を測りかねる中、軍師、黒田官兵衛は有岡城への乗り込みを決意します。
『知略』を武器に乱世を渡ってきた官兵衛。しかし、この日の有岡城を包む空気は、これまでの戦場とは明らかに異なるものでした。
妻、光との穏やかな別れ、そして脳裏をよぎる天才軍師、竹中半兵衛の不穏な予言。
官兵衛の運命を大きく変える、あの一日が始まります。
「開門せよ! 播磨、御着城主、加賀守が名代、小寺官兵衛殿のお着きである!荒木摂津守殿へのお取次ぎを頼みたい!」
その声が響いてすぐ、城内は急に慌ただしくなり、内側から野太い声が聞こえた。
「しばし待たれよ! 案内を申して参る!」
高くそびえる門の上から、鉄砲を持った兵がじっと官兵衛たちを見下ろしていた。謀反を起こした城だけにいつ鉄砲をこちらに向けて構えてもおかしくない。その姿がさらに緊張感を高める。
時間にして十分も経たないうちに門は開いた。
門をくぐるとそこには欅のまるで血のように赤く染まった枯葉や銀杏の黄色い落ち葉が散りばめられていた。一見して風情があるが、今の官兵衛には不吉な予兆にすら見えた。
官兵衛と栗山善助、母里太兵衛、そして井上九郎右衛門の足音がその枯葉を踏みしめる乾いた音が、静まり返った城内に響く。 くぐってすぐ栗山善助ら従者は番所に留め置かれるのであった。
その時、奥から一人の武士が静かに歩み寄ってきた。加藤又左衛門重徳である。
彼は官兵衛の前に立つと、一度だけ深く頭を下げた。その瞳は、以前会った時のような快活さは失われ、深い霧の奥に沈んでいるかのように暗い。
「案内いたそう……。これより先は、家臣も入る事を許されぬ我が殿の聖域。お供の方は、ここでお待ちくだされ。」
又左衛門の声は低く、まるですでに死者を悼んでいるかのような湿り気を帯びていた。
善助が思わず
「殿!」
と官兵衛の袖を掴もうとしたが、官兵衛はそれを手で制した。
「加藤殿。摂津(荒木)殿は……ご健勝か?」
官兵衛の問いに、又左衛門は答えなかった。ただ、廊下の奥へと続く暗がりを黙って指し示しただけだった。
晩秋ともなれば虫の音も途絶え、ただ風の音だけが聞こえる。
左右を高い石垣と白壁に囲まれた通路は、晩秋の影に沈んでひんやりと冷たい。一歩進むごとに、外の世界の喧騒が遠ざかり、代わりに『死』のような静寂が自分を包み込んでいく。
善助たちが不安げな表情で見送る中、官兵衛だけが廊下の奥へと案内されていった。官兵衛はあえて振り返ることもせず、取次役の武士の背を追って、有岡城の奥深くへと歩みを進めた。
官兵衛は腰の刀を預け、取次役に導かれて薄暗い廊下を歩いていく。草鞋の音だけが板張りの廊下に響いた。奥に導かれていくにつれ、先ほどまで馬上で保っていた威厳が、一歩ずつ奥へ進むごとに削ぎ落とされていくような感覚を感じた。
案内される廊下のいたるところに、奇妙な違和感があった。
かつては華やかな調度品が飾られていたはずの場所には、代わりに研ぎ澄まされた槍や、無骨な盾が整然と、しかし不気味に並べられている。
さらに、城内に漂う匂いが違った。
贅を尽くした香の匂いではなく、使い古された油と、湿った土、そしてどこか『鉄の錆びたような匂い』が混じり合っている。それは、戦を待つ城というよりは、巨大な獣の腹の中のようだった。
(摂津(荒木)殿……。お主は一体、この城で何を見ておるんや)
一歩進むごとに、板張りの床が「ギィ……」と悲鳴のような音を立てる。その乾いた音が、静まり返った城内にやけに高く響き、官兵衛の心臓の鼓動と重なっていった。
やがてたどり着いた広間に村重はいなかった。取次役は
「摂津守はまもなく参ります。」
とだけ言い、官兵衛を残して来た道を戻っていった。
今からどのような展開になるのか。官兵衛は思いを巡らせた。最悪の事態も……。
荒木を待つ官兵衛の脳裏に浮かんだのは、有岡城に向かうと伝えた時の光の表情だった。驚きと怯えを隠せない、あの表情……。官兵衛の意見に大きく背いたこともなく、いつも信頼できる家族である。官兵衛はこの光だけは守りたいと、常々心に誓っていた。
一人でも多くの子供を残すことを良しとした時代、武将は正室の他に側室を迎えるのが普通ではあったが、この官兵衛は側室を迎えることはしなかった。当時では稀なケースである。
次によぎったのは最愛の息子、松寿丸である。いつも家に戻るとすぐに父上!父上!といつも駆け寄ってきては頭を撫でてもらおうと甘えた顔をする十歳になる息子である。息子も一人であるが故、黒田家の家督を継ぐ者である。
松寿丸は昨年から長浜にて人質として、秀吉様の居城で大切に育てられている。織田家に臣従する証として、官兵衛が秀吉様に差し出した嫡男である。もちろん謀反となれば亡き者にされる運命ゆえに、官兵衛は簡単に裏切ることができない。
官兵衛はあの日松寿丸を長浜へ送る背中を見送った時の、震える光の肩が今でも忘れられない。人質という名の鎖が、今これほど重くのしかかるとは。
長浜に赴いた折にはいつも遠くから駆け寄ってくる松寿丸の無垢な表情が、官兵衛の心の拠り所であった。
広間の隅では、行灯の火がゆらゆらと踊り、壁に官兵衛の影を巨大に、かつ歪に映し出している。
その沈黙の中で、官兵衛はふと、奥の部屋から微かに聞こえる音に耳を澄ませた。
カチ、カチ……。
それは、何かがぶつかり合う音。あるいは、誰かが数珠を繰っている音か。だが、そのリズムは一定ではなく、時折、何かに怯えるように早まり、止まる。
官兵衛の背筋を、冷たい汗が伝った。
自分が今から向き合おうとしているのは、かつて共に天下を夢見た知将、荒木村重ではない。信長という巨大な恐怖に飲み込まれ、心の奥底で何かが壊れてしまった『怪物』なのではないか。
窓の外では、鴉が一声、不吉な鳴き声を残して飛び去っていった。
例えここで何が起こっても光や松寿丸のため、また、官兵衛の兄貴分として心のこもった言葉を託してくれた竹中半兵衛のために生きて帰らねばならないと拳を握りしめていたところ、遠くから廊下を歩く足音が聞こえてきた。
(来たか……。)
官兵衛の表情はさらに強張った。今から始まる交渉の行く末が読めないからだ。
「官兵衛殿!」
紛れもなく荒木村重の声だ。あの夜、陣中で盃を交わし、語り合った時と同じ声。幾分疲れが声に交じってはいたが村重の声に違いない。
襖が左右にゆっくりと開く。その隙間から漏れてきたのは、濃厚な香の匂いと、暗がりに光る執拗な眼光だった
「摂津(荒木)殿!」
久しぶりに二人は再会した。
第八話をお読みいただきありがとうございました。
官兵衛の『数日で戻れる』という楽観と、光の『胸騒ぎ』のコントラストを描きました。史実を知る我々からすれば、光が持たせた『お菓子』が、後にどれだけ切なく響くか……。執筆しながら胸が締め付けられる思いでした。
現代のJR伊丹駅周辺を歩くと、今は穏やかな街並みが広がっていますが、かつての有岡城は『総構』という巨大な檻そのものでした。
次回第九話。巨大な獣の口のような門を潜った官兵衛を待ち受けていたのは、冷酷な罠か、あるいは……。
村重との『笑顔の再会』が物語をさらなる深淵へと導きます。




