第七話 有岡城へ
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竹中半兵衛という巨大な道標の元を離れ、不安に駆られる官兵衛。しかし、乱世の歯車は彼に立ち止まることを許しません。
織田信長を震撼させた、荒木村重の突然の謀反。その真相を確かめ、破滅を止めるため、官兵衛は有岡城へと向かいます。
それは、最愛の妻、光との、そして『これまでの自分』との予期せぬ長い別れの始まりでした。軍師、官兵衛の人生で最も過酷な一年が、幕を開けます。
有岡城へ向かう当日の朝、妻の光はいつもと変わらぬ様子で官兵衛の身支度を手伝っていた。
官兵衛にしてみれば、摂津への旅はさほど遠いものではない。早ければ数日のうちに談判を終え、村重を連れて戻ってこられる。それくらいの軽い心持ちでいた。
「殿、あまりご無理はなさりますな。数日分のお着替えと、お好みの干菓子を忍ばせておきました。……どうか、ご無事で……。」
光は微笑みながら、官兵衛の羽織の皺を丁寧に伸ばした。だが、その指先が官兵衛の胸元に触れたとき、彼女はふと動きを止めた。
「……光?いかがした?」
「いいえ……。何ゆえか、今日に限っては、お引き留めしたい心地がいたしまして。心細いものでございますね。ほんの数日、お会いできぬだけと分かってはおりますのに……。」
光は自分の胸騒ぎを打ち消すように首を振った。官兵衛はその手を優しく包み込む。
「案ずるな。摂津(荒木)殿とは気心も知れておる。茶でも飲みながら語らえば、すぐに済むことよ……。有岡の土産話、楽しみに待っておれ。」
「はい。信じてお待ちしておりまする……。」
光は力強く頷いた。官兵衛にとって、その微笑みは戦場へ向かう何よりの守り刀であった。
だが、この時の官兵衛はまだ知らなかった。
光とのこの短いやり取りが、向こう一年、己を支える最後の日光になろうとは。
ほどなくして 官兵衛は数名の従者を連れ、摂津国・伊丹の有岡城へと向かった。道中、官兵衛の脳裏には半兵衛の言葉が繰り返し響いていた。
(この乱世を終わらせるため……。官兵衛にしかできないこと……。半兵衛殿は何を言わんとしていたんやろか、一日も早く戻って半兵衛殿に聞かんと……。)
播磨から摂津へ。現代で言えば姫路からJR伊丹駅へ。馬を使えば一日もあれば充分たどり着ける。街道を行く人々の表情は暗い。村々は荒れ、戦の影が色濃く落ちている。
道端の地蔵が倒されたまま放置され、街道の脇からは死臭が漂っている。
その雰囲気が決して明るい未来が待っているわけではないことを予感させている。現代もそうだが、民衆の空気感は時代を反映している。
荒木村重の謀反により、この地域は織田方と反織田方に分断され、民は右往左往していた。
(摂津(荒木)殿は、どないして謀反なんか起こしたんや……。摂津(荒木)殿は、決してうつけな人やない。先のことまでよう見通せる、賢い御仁や。何か……何か、人には言えん深いわけがあるに違いないわ。織田の殿への不信か、それとも誰かにそそのかされたんか……。わしが直に会うて、その胸の内をしかと聞き出さんとあかん。)
やがて、遠くに有岡城の天守が見えてきた。堅牢な城郭。周囲には兵が警戒している様子が見える。従者の一人、栗山善助が不安げに言った。
「殿……本当に、大丈夫でございますか。摂津(荒木)殿は、もう織田の殿に弓を引いて待っとってです。あのお方の心は、もう決まっとるように見えますわ。談判どころか、我らを捕らえて土牢にぶち込むことだって考えられまする。命を捨てにいくようなもんですわ……。それでも……それでも本当に行かれるっちゅうんですか?」
官兵衛は静かに答えた。
「善助、そんなに案ずるな。摂津(荒木)殿とわしは、古からの知った仲や。あの御仁の性根は、このわしが誰よりもよう分かっとる。誠心誠意、直に膝を突き合わせて話をすれば、必ずや分かってくださるはずや。わしを信じろ。……ええな?」
そう言った自分の声が、どこか上擦っているのを官兵衛は感じていた。
これまで、官兵衛は言葉一つ、策一つで人を動かし、戦場を支配してきた。それが『軍師』という生き方だ。だが、この有岡城が放つ威圧感は、論理や理屈では割り切れない、どろりとした人間の情念そのもののように思えた。
(もし……もし摂津(荒木)殿が、本気で織田の殿に敵対していたら……)
かつて半兵衛は、病床で官兵衛の目を見据えてこう言った。
『官兵衛殿、人の心は『算』では解けぬ。理屈で割り切れぬのが、人の業というもの。もし何ぞあった時は、理屈を捨てて、まず生き延びることだけを考えなされ。』
あの時の半兵衛の、透き通るような、それでいてすべてを見透かしたような瞳。今のこの有岡城の異様な殺気さえ、あの男は予見していたのではないか。
官兵衛は空を飛ぶ一羽の鴉を見上げた後、大きく深呼吸をした……。
(や……。何があったかて、生き延びんとあかん。筑前(秀吉)殿のため……そして、半兵衛殿の遺志を継いでいくためにも、ここで朽ち果てるわけにはいかんのや。死んでまったら、何一つ成し遂げられんさかいな。這いつくばってでも、泥を啜ってでも、わしは生き抜いてみせるわ。見とってください、半兵衛殿。わしは……わしはまだ、終わらへんで!)
官兵衛は自分に言い聞かせていた。だがそこへ足を踏み入れれば、二度と元の自分では戻れない……そんな理不尽な予感が、官兵衛の背筋を冷たく撫でた。
さきほどまで遠くに見えていた有岡城の城門が、気が付けば彼らの目の前に迫っていた。
秋の終わりの乾いた風が吹き抜け、行き交う者の着物の裾を揺らしている。空は澄み渡っているが、どこか寂しい。めっきり日が短くなったせいもあり、有岡城の巨大な影が遠くまで伸びている。
有岡城の惣構は、村々を丸ごと飲み込むように広がっている。それは外敵を防ぐための壁であると同時に、中にいる者を決して逃さない檻のようにも見えた。
門の上、狭間からはこちらを狙う鉄砲の銃口が、無機質な瞳のように官兵衛たちを見下ろしている。
有岡城の黒ずんだ巨大な城門が、まるで巨大な獣の口のように彼らを待ち受けていた。
城門に近づくにつれ緊張感がぐっと高まり、一行は身なりを整えた。官兵衛は馬上で背筋を伸ばし、家臣たちはその後ろに整然と並ぶ。
皆が播磨の使者としての威厳を損なわないようかしこまった。
下馬先で官兵衛が馬を止めると、控えていた善助がさっと馬の口を取り、官兵衛が地面に降り立つのを助ける。官兵衛が降りた瞬間、馬が『ブルルッ!』と鼻を鳴らし、その鼻息が晩秋の冷たい空気の中で白く広がる……。
官兵衛が馬を降りた瞬間、足元から地響きのような音が聞こえた気がした。
晩秋の冷たい風が、城門の隙間から『ヒョウ』と鳴りながら吹き抜けていく。それはまるで、これから始まる長く暗い冬の到来を告げる、死者の溜息のようであった。
善助は額の汗を拭いながら門を見上げ叫んだ。
最後までお読みいただきありがとうございます。
ついに有岡城の門前に辿り着いた官兵衛ご一行。数日で戻るつもりで妻に告げた『土産話』の約束が、これほどまでに重く、遠いものになるとは、この時の彼はまだ知る由もありません。
不気味な静寂を切り裂く善助の叫び。その先に待つのは、対話か、それとも底なしの沼か。
次回第八話。門の向こう側で官兵衛を待ち受ける『異変』と、のちに彼の運命を大きく変えることになる絶望が描かれます。




