第六十(最終)話 怪物
天正十四年、大坂の夜。
徳川家康は、目の前の軍師が差し出した『隠語』の中に、本能寺の真実と信長の最期を見出してしまいます。
それは、一人の男が『デウスの灯』となって歴史という巨大な闇を照らし、塗り替えた記録でした。
戦国最大のミステリー、ここに完結です。
沈黙が室内の空気を重く押し潰す中、家康は独り言のように切り出した。
「黒田殿……。信長公が亡くなられたあの日のすぐ後、お主たちが駆け抜けた京への道は、誠にきれいに掃き清められておりましたな。まるで、誰かが通るのを、あの日の前から待っていたかのように……。」
官兵衛も眉ひとつ動かすことなく隠語で応えた。
「左様でございますな……。不器用な某にできるのは、迷える仔羊が無事にデウスの元に辿り着けるよう、灯を置いただけでござりまする……。」
家康は一瞬、官兵衛を鋭く射抜くように見て『やはりな』と感じた。あの忌々しい本能寺での出来事はすべては官兵衛の画策だったと見抜いたのだ。
それに気づいたのは日の本広しといえど、徳川家康ただ一人だった。
だが、あの出来事があったからこそ、乱世は過去のものとなりつつある。ここでそれを明らかにする意味は今となってはどこにもない。
ただ家康は自らの好奇心からもうひと探りを試みる事にした。
「ところで『長政』殿は、息災でおられるかな……。安土(信長)殿の偏諱を賜りながらも、あの名は北近江(浅井)の怨念も蘇らせる、恐ろしい呪文のようにわしには聞こえるが……。」
官兵衛は微かに口角を上げ、こう答えた。
「滅相もございません。ただの『名』にございます……。もっとも、今となっては亡き者が生きておる者の夢に現れぬよう、深く、深く土をかければ、小言を言う者もおりませぬゆえ……。」
光秀を使って信長を亡き者にしたのも、その遺体を隠したこともこの男に違いない……。今の言葉で家康は悟った。
その瞬間、家康は背中に冷や汗が流れるのを感じた。
(この男、誠に恐ろしき『怪物』……。)
今は決して目の前の官兵衛に悟られないよう敵に回さぬよう、低く笑いながら応えた。
「黒田殿のような男を敵に回して、寝床にて易々と休める者は、この世におらぬな……。ただ貴殿が描いたこの絵巻き、これだけは見事という他ない……。」
官兵衛は家康の眼光を避けるように伏しながら言った。
「恐悦至極に存じます……。三河(家康)殿も、『見ぬふり』をされるのが、実にお見事でございました。」
家康は震えた。茶碗を持つ手が震え始めるのがバレないようにすぐ茶碗を置くしかなかったのだ。刺客に狙われるよりも、この男の掌の上で歴史が動かされていることの方が、家康には遥かに恐ろしかった。
(この男はわしが見抜いている事もとうにわかっておったか……。)
官兵衛の瞳の奥で、無数の計算が火花を散らしているのが見えた。
家康は、自分が深淵を覗いているのではなく、深淵の方が自分を食い破ろうとしているのだと気づく……。
官兵衛が微かに笑みを深めた瞬間、室内の蝋燭の火がパチリと爆ぜた。その一瞬の光の中に、有岡の土牢で怪物へと変じ、歴史そのものを飲み込もうとする男の真の相が見えた気がした。
官兵衛は礼儀正しく一礼をして後、闇夜に姿を消した。不規則な杖と足音は次第に遠ざかっていった。
翌二十七日、大坂城大広間にて執り行われた歴史的儀式『徳川家康の臣従の儀』は滞りなく進められた。
諸大名や公家衆が居並ぶ中、秀吉は高座に座し、家康は打ち合わせ通り平伏した。この視覚的な上下関係が、天下に『徳川は豊臣に屈した』と知らしめる最大の目的だった。
これにより、関白、豊臣秀吉は徳川家康を従え、天下を治める『総仕上げ』を進めていく事になる。黒田官兵衛はこれを陰ながら支えていったが、あまりにも出来すぎたが故、後に秀吉に畏れられる事になり、隠居を余儀なくされた……。
それから時が流れる事四百数十年。
一通りの推論を語り終えた坂本は最後に締めくくるように語った。
「歴史研究家たちはみんな一次資料に記載が無いからあり得ないとか言うんだよね。でも当時、黒田官兵衛のみならず、力を持つ人間は京都にたくさんの忍者を放っていたんだよ。彼らは現代で言えばスパイ。基本的には水面下で歴史を動かす……。だから資料が無い、証拠が無いって言う人はこういった隠密行動が見えていないんだよね。」
また坂本は情報の非対称性は現代人への警告でもあるという。
「光秀の兵たちは、真実を知らぬがゆえに魔王を討てた。
現代はどうだ?お気に入り動画の中から『自分好みの真実』を、自ら選んだと信じて疑わない。だが、その情報の『蛇口』を握っているのが誰なのか、考えたことがある?
その蛇口は令和の『官兵衛』が握っているもしれない……。」
田辺は坂本の言ってることがわかったのかわからないのか、口を開けてしまってしまっていた。
歴史学者が『資料が……とか証拠が……』とか言ってるのを黒田官兵衛はどこかからニヤりとしながら見ているかもしれないね。」
坂本は仕事を終えたかのようにたばこに火をつけた。浅川が叫ぶ
「ちょっと坂本さん!たばこはそこで吸わないでっていつも言ってるのにぃ…。」
「ごめんごめん」
坂本は気まずそうに換気扇の下に移動した。
移動の際、坂本が何もないところで躓き、積み上げられた書類を左手で弾き飛ばしてしまった。
浅川はそれを見てこれでもかというほど嫌な顔をして頭を抱え込んでしまった。
「もう!坂本さん!何してるんですか!もう……。ほんと『どんくさい』んだからぁ……。」
「あーごめんごめん……。」
気まずそうに再び謝りはしたが、怒られることに慣れきってしまってるのか全く気にもせず、鼻歌を歌っている。
坂本の推論に聞き惚れていた田辺は一人で感動していた。
「すごい…。完璧な流れ。凄すぎます!まるでコナン君なみの推理力……。」
「田辺君。コナン君のように証拠を見つける事も大事なんだけど、歴史ってのは、『あるはずのものが消えている』ことの方がずっと重要なんだ。
犯人の自供も、凶器も、被害者の遺体(首)さえもね。名探偵でも、消された証拠までは見つけられないだろ?」
「坂本さん。これどこかで発表したらみんな驚きますよ!」
「田辺君、馬鹿な事言うんじゃないよ。証明するものなんて何一つ無いんだぞ。」
「いや、でも完璧すぎて…。コナン君もいつも『真実はいつも一つ!』って言ってるし……。」
そんなよくわからない事を言いながら、田辺はふと気づいてしまった。坂本のズボンのチャックが既に閉まっていたことを……。
「無理無理!誰も信じねーよ。さあ今日は俺は帰るわ。浅川さん、戸締りだけよろしくね。」
と言い、坂本は出た。浅川は無視していた。
坂本が出た後、田辺は先ほど感動をもう忘れて、一人で考えていた。
(気づいた時、坂本さんのチャックはいつの間にか上がっていた。いつチャックを上げたのかな?
でも話を止める事も無く、自分が気付かないうちにチャックを上げてるなんて……。)
そんなくだらない事に感動する田辺だった。
まだ日が高いせいか少し西に傾いた太陽がまぶしい。坂本がいつものように空を仰いだ後、胸を張って駅まで続く道を歩き出した時、その姿を静かに見送る一人の男がいた。
顔は見えないが、頭には頭巾をかぶり、藤巴の家紋が刻まれた杖をついている。
その男はまるで現代に現れた天才軍師のようないでたちである。その男は坂本の後ろ姿を温かく見守りながら口元はニヤリとしていた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
ついに全六十話が完結いたしました。
今回のストーリーはある日突然自分の中に舞い降りた一つのストーリーでした。なんとか記録に残したく、歴史小説の体を為して完成させることが出来ました。舞い降りたストーリーを陳腐な描写で台無しにしたくない一心でした。時代を切り拓いてきた先人に敬意を持って最後まで描ききったつもりです。
昔、前世占いで自分の前世が室町時代の武士だったと言われたことがあります。武士であるにも関わらず、農民たちの立場に立って、室町幕府に対して『反逆』した武士だったという話。
前世を信じるかどうかは別としてその頃から自分の中の『反逆』という言葉が人生のテーマとなり、幾度となく自分の中で繰り返される事になりました。
登場人物の探偵、坂本のモデルは自分です。本名の字面を少し変えただけなの安易な理由で名乗りましたが、この小説を執筆している間、一つの記憶が蘇ってきました。
それは高校時代のある寝苦しい夜、ふと寝返りを打った時、ふと目を明けると、そこに一人の男が立っていました。教科書で何度も見た、あの『坂本龍馬』でした。
おそらく目の錯覚か、幻覚か、はたまた夢の中の出来事だったかもしれません。
それ以来もしかしたら、前世が『坂本龍馬』だった事もあるかもしれないなあなんて感じていた事を思い出しました。
そう、何の気なしにつけたペンネームも『坂本』だったのです。
そんな偶然の一致に驚きながら、今回の作品を仕上げてみました。
舞い降りてきたストーリー、前世の記憶である『反逆』というテーマ、そして幻の『坂本龍馬』……。これらが結びつき本作は出来上がりました。
驚いたのがプロットを作っている時に、もしも官兵衛が黒幕だったらというだけで、いくつかの史実の断片が、パズルのピースがぴったりとハマっていくような快感を覚えました。
なぜ未だに本能寺の変の真相がわからないのか、なぜ官兵衛は信長と微妙な距離を取っていたのか、そして、なぜ本能寺の変を聞いてすぐに『好機』と捉えたか。また、なぜ中国大返しはあれほどうまくいったのか、なぜ信長の死体は見つからなかったのか、なぜ松寿丸は偏諱を賜ったにも関わらず、信長が忌み嫌う『長政』という名前になったのか、なぜ明智光秀は信長に備中行きを命令されてから二週間も出発しなかったのか、なぜ石川数正は出奔したのか等々……。
なので本作ではこれらの疑問を黒田官兵衛という一本の糸で結びつけることにしました。
歴史研究家の方々、あくまでも仮説にすぎないので気軽にお楽しみいただけるよう願っております。
今後、本作で手応えを感じる事ができれば、シーズン2として、秀吉との確執、加藤又左衛門や荒木村重との再会から黒田官兵衛の九州制圧、細川ガラシャとの関係性や関ケ原参戦に向けての北上までを描くかもしれませんが、今回は一旦これにて終了させていただきます。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。




