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第五十九話 関白の土下座

 天正十四年十月。徳川家康、ついに大坂へ下向。

 日の本の誰もが固唾を呑んで見守る『臣従の儀』の前夜、物語は密室で動き出します。


 家康の部屋を訪れた天下人、豊臣秀吉と、その影に潜む軍師、黒田官兵衛。


 『怪物』対『怪物』、静かなる夜の対峙を描きます。

 天正十四年(1586年)九月九日、 関白、秀吉は正親町天皇から『豊臣』の姓を賜った。


 そして翌十月、ついに徳川家康が大坂へ下向することになったのである。

 家康が秀吉に謁見する『臣従の儀』を明日に控えた二十六日の夜、秀吉は側近の官兵衛のみを連れて、家康が宿泊していた秀長の屋敷を極秘に訪れた。


 家康は驚き立ち上がろうとした。


 「関白殿! な、何事だん? この真夜中に、関白殿が直々に……。」


 秀吉は家康の前に進み、いきなり畳に両手をつき、深々と頭を下げた。


 「三河(家康)殿。すまぬ。まことにすまぬ。明日のこと、何卒、何卒……!」


 家康は目を丸くして言った。


 「か、関白殿! 頭を上げられい! 天下の主ともあろうお方が、わしのような田舎大名に頭を下げるなど……!」


 秀吉は顔を上げず、必死な声で続けた。


 「いや、三河(家康)殿。わしはな、明日、大広間で公家衆や大名衆の前で、おみゃあに頭を下げさせにゃあいかん。それが、この日の本の乱世を終わらせるための筋目だもんで……。わしとおみゃあは、信長公の家臣として、小牧では敵味方として戦をした仲だ。そんなおみゃあに、いきなり『主君にございます』と頭を下げさせるのは、あまりに酷だわ。

 だから、せめて今夜だけは、人目のないここで……わしの方から頭を下げる。

 三河(家康)殿、明日は頼む。どうか、わしの顔を立ててくれい。おみゃあの忠義は、わしが一番よう分かっとるでな……。」


 家康は秀吉の涙ながらの懇願に、武士としての情と、この男の底知れぬ計算高さに打たれた。

 

 「関白殿、そこまで仰せなら、わしも腹をくくるわ。分かった。明日は、心置きなく関白殿に頭を下げる……。何も案じなされずとも良い。」


 秀吉はその時初めて顔を上げ、満面の笑みで言った。


 「おお! まことか! かたじけない、三河(家康)殿! これでようやく枕を高くして寝られるわ。官兵衛、おみゃあも礼を言え!」


 官兵衛は静かに一礼し、不敵な笑みを浮かべて一言だけ述べた。

 

 「三河(家康)殿、明日を楽しみにしておりまする。」


 二人は足音を忍ばせ、徳川の宿を後にした。

 夜風に吹かれながら歩く秀吉の足取りは、先ほどまでの涙ながらの姿とは打って変わり、どこか軽やかでさえあった。天下人が、たった一人の大名のために、夜更けに畳に額を擦りつける。これほど効率の良い投資が他にあるだろうか。

 

 プライドの高い家康を公衆の面前で完璧に、かつ自発的に(ひざまず)かせるための、官兵衛らが仕組んだ『天下統一のための舞台装置』は、これで完成したのである。

 

 「官兵衛、おみゃあの言う通りになったがや。あいつは律儀な男。わしが頭を下げりゃあ、明日はわし以上に深く頭を下げるに決まっとる……。愉快だわ、これこそがわしの戦法だわな。」

 

 秀吉の低い笑い声が闇に消える。だが、官兵衛は微笑を浮かべつつも、その視線はすでに『次』の盤面を捉えていた。

 

 ほどなくして、官兵衛は秀吉と別れ、一人で家康の宿へと引き返した。

 家康は一人、火の消えかかった行灯(あんどん)を見つめ、秀吉という男の底知れなさに毒されかけていた。武士の世が終わり、嘘と情が混ざり合う気味の悪い時代が来る。その予感に震えていた家康の前に、再びあの男が現れた。

 

 「お、黒田殿か。わしに何かまだ、言い残したことでもあるだん?」

 

 家康の三河なまりは、警戒を解かぬ時の癖である。官兵衛は音もなく室内に滑り込み、家康の正面に座った。その動作には一点の無駄もなく、引きずる足の音さえも、家康の焦燥を煽る拍子のように響いた。

 

 「三河(家康)殿。殿下のあのような姿を見せられ、さぞやお困りの事でしょう。なれど、あれこそが豊臣秀吉という男の『毒』にございます。情に訴え、貴殿の逃げ道を塞いだ……。

 さて、明日の儀式、ただ平伏するだけで済みますかな?」

 

 家康は鋭い目で官兵衛を睨んだ。その視線は、数万の敵軍に囲まれた時よりも激しく火花を散らしている。

 

 「わしを試すつもりか。平伏せと言われりゃあ、平伏すもんで。それが和睦の条件であろう? わしをこれ以上、辱めるつもりか?」

 

 「いえ、それだけでは足りませぬ……。」

 

 官兵衛は声をさらに低め、畳み掛けるように言った。その瞳は、暗い部屋の中で異様な光を放っている。


 家康は目を見開いた。


 「足りませぬ?なんと?」


 官兵衛はまるで獲物を狙う獅子のような眼光で、驚く家康を射抜いた。

 

 「殿下があれほどの恥を捨てて、貴殿の前に(ひざまず)いた。ならば、貴殿もまた、『ただの家臣ではない』ことを天下に見せつけねばなりませぬ……。

 三河殿、明日の儀式の最中、殿が身につけておられる『陣羽織』を、公衆の面前で所望なされませ。」

 

 家康は絶句した。

 

 「ほう……。陣羽織を? 関白殿の羽織を、わしが剥ぎ取るような真似をせよと言うんか。黒田殿。お主、正気か? その場で無礼者と切り捨てられても文句は言えんぞ。」

 

 「左様。なればこそ、意味があるのです。そしてこう仰せなされ。『この羽織を(まと)い、これなる家康、関白殿下の御先鋒(ごせんぽう)として(まか)()で、天下の不逞(ふてい)(ともがら)をことごとく討ち果たし(たてまつ)らん!』と。

 さすれば、列座する諸大名は、貴殿を豊臣の『第一の忠臣』として認め、手出しができなくなる。同時に、殿下は貴殿を『唯一無二の右腕』として、軍事の全権を預けざるを得なくなる……。

 殿の『情』を逆手に取り、徳川の『格』を豊臣政権の中で揺るぎないものにする。これこそが、この軍配者の知略にございます。」

 

 官兵衛の言葉は、まるで鋭い針のように家康の心に突き刺さった。それは徳川を救うための助言であると同時に、徳川を『豊臣という巨大な檻』の最深部、すなわち逃げ場のない番犬の地位へと繋ぎ止める鎖でもあった。

 

 家康はしばらく沈黙し、喉の奥で低く、しかし力のこもった声で笑った。

 

 「お主という男は……。殿下を立てる振りをしながら、わしを豊臣の喉元に食い込ませようというわけか。黒田殿、お主は殿下が怖くないのか。こんな策をわしに授けて……もしわしが殿下に弓を引けば、お主の首が真っ先に飛ぶのだぞ。」

 

 官兵衛は瞬き一つせず、冷徹な眼差しで語った。

 

 「(それがし)が望むのは、天下泰平が一日も長く続くこと。そのためには、貴殿という巨大な暴力を、この国の『要』として正しく据えねばなりませぬ。たとえそれが、(それがし)の命を賭した博打であっても……。」

 

 官兵衛の答えには、迷いも、阿諛追従(あゆついしょう)もなかった。あるのは、計算し尽くされた世界の形を、寸分狂わず現実のものにしようという『怪物の執念』だけである。

 

 家康はその時、直感した。

 この男は、やはり単なる秀吉の家臣ではない。秀吉という太陽を使って、歴史という巨大な闇を照らし、自分の思うままに形を変えようとしている……。

 

 家康は、じっと手元の冷え切った茶碗を見つめた。茶碗の底に沈む茶葉が、まるでかつての自分や、消えていった信長、勝家たちの亡霊のように見えた。

 

 家康には、喉元まで出かかりながらも、これまで一度も口にできぬ疑念があった。

 あの本能寺の夜。どう考えても明智光秀一人の謀叛とは未だに腑に落ちない。果たして、目の前のこの男は、どこまで関与していたのか。

 今この時を逃せば、機は二度と訪れない。

 家康は意を決し、歴史の深淵に石を投じるべく、隠語を以て問いを放った。

 最後までお読みいただきありがとうございます。


 秀吉の『情』という毒杯を飲んだ家康に、官兵衛がさらに差し出したのは、『陣羽織の所望』という、命を懸けた大博打の策でした。


 官兵衛の狙いは、徳川を豊臣の『番犬』として鎖でつなぎ、同時にその力を政権の『要』に変えてしまうこと。この二重のたくらみを見抜いた家康は、官兵衛という男の底知れなさに戦慄します。


 信長、勝家……消えていった者たちの亡霊が蠢く闇の中で、家康は何を聞き出すのか。


 次回最終話、歴史の裏に隠された、本能寺の『真実』への扉が、いま静かに開き始めます。

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