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第五十八話 天正大地震

 天正十三年。洗礼を受けた官兵衛は自らの業を再定義し、羽柴軍十万をもって家康を葬らんとしていました。

 ところが、天はそれを許さなかったのです。


 官兵衛はそれを受け入れ、策を練り直すのか。官兵衛の採った新たなる策とは。

 洗礼を受けた官兵衛の瞳からは、人間らしい迷いが消え、代わりに冷徹なまでの静寂が宿った。彼は自らの策略を『デウスの御心』として再定義し、家康を葬るための最終調整を完了させた。

 もはや、躊躇はない。十万の軍勢が三河を飲み込み、家康の首が上がるのは時間の問題であった。

 

 しかし、運命は官兵衛の計算を超えたところで、凄まじい咆哮(ほうこう)を上げた。

 

 天正十三年十一月二十九日、深夜。

 地底から、聞いたこともないような獣の唸り声が響いた。直後、大地が激しく跳ね、大坂城の巨大な石垣が悲鳴を上げながら崩れ落ちた。

 

 ――天正大地震。

 諸説あるが、飛騨を震源としたマグニチュード八相当の巨大地震、まさに日の本全土を叩き壊すかのような激震である。

 

 完成間近の天守が激しく揺れ、工事用の足場が次々と崩壊していく。築城の喧騒は一瞬にして悲鳴へと変わり、漆黒の闇の中で大地が裂け、火の手が上がった。官兵衛は激震の中で杖を放り出し、不自由な足で這い蹲りながら、崩れ落ちる瓦礫(がれき)を睨みつけた。

 

 「天が……天が、三河(家康)殿を守るというのか……!」


 揺れが収まっても、地獄は終わらなかった。夜明けとともに姿を現したのは、泥海と化した大坂の街だった。圧死した民の(むくろ)が瓦礫から突き出し、昨日まで天下の威容を誇っていた城郭は、無惨に引き裂かれている。

 官兵衛は泥に塗れた手を震わせ、崩れた蔵の前に立ち尽くした。そこには家康を討つために積み上げた数万石の兵糧が、泥土に飲み込まれていた。

 

 地震の被害は想像を絶するものであった。秀吉の本拠に近い近江、美濃、伊勢は壊滅的な打撃を受け、多くの将兵や民が生き埋めとなった。何より致命的だったのは、進軍に不可欠な街道が寸断され、橋が落ちたことである。その後二週間から四十日間もの間、大地は余震で鳴り止まなかったとされる。

 

 官兵衛が築き上げた『勝利の数式』は、大地の一揺れによって無に帰したのである。

 

 (神は、やはり『暴力』を許さぬというのか。知略で三河(家康)殿を潰さんとしたわしへの、これは断罪か……。)

 

 官兵衛の心に、一瞬だけ、折れそうなほどの弱気が差した。このまま天罰を甘んじて受けるべきか。

 

 だが、その時、泥の中で鈍く光る数珠(コンタツ)が、彼の指先に触れた。

 

 (いや……。この絶望さえも新たな駒に変えてみせる。それが、シメオンとして生きるわしの『十字架』……。)

 

 泥まみれの地図を見つめ、官兵衛は再び杖を突いて立ち上がった。その眼には、絶望の淵から這い上がった者だけが持つ、以前よりもいっそう鋭い『魔性』の光が宿っていた。


 官兵衛は、崩れた石垣の隙間に咲く名もなき花を見つめた。大地が裂け、万人が泣き叫ぶ地獄絵図の中で、その花だけが何事もなかったかのように静かに揺れている。


 かつて有岡の土牢で、ふじは説いた。『敵をも愛せよ』と……。

 大地が裂け、すべてが壊れた今、彼の脳裏にふじの穏やかな微笑みが鮮明に蘇った。

 

 (ふじ……。お主の言う通りかもしれぬ……。力でねじ伏せるのではなく、許し、生かすことで戦を終わらせる……。それが、この地獄を生き残った者の務めか……。)

 

 官兵衛は泥に塗れた数珠(コンタツ)を握りしめた。

 家康を殺して勝つのではなく、家康を『生かしたまま』天下の一部に組み込む。それは、これまでの冷徹な軍師としての自分を捨て、ふじの教えを初めて自らの血肉とする瞬間であった。

 

 官兵衛は、震える足を引きずりながら、茫然と座り込む秀吉の元へと歩み寄った。

 秀吉は、あまりの天災の規模に戦意を削がれ、茫然自失としていた。

 

 「官兵衛……もう無理だがや……。家康を討つどころか、この被害では、軍を動かせば自滅するわ……。天はわしに『戦うな』と言っとるんだわ……。」

 

 秀吉の弱気な言葉に対し、官兵衛は(ほこり)を払い、ゆっくりと顔を上げた。

 

 「殿下、左様にござりまする……。これより戦を続ければ羽柴、徳川ともに共倒れとなり、日の本は再び乱世に逆戻りする……。

 ならば今は三河(家康)殿と和睦すべき時かと……。その時こそ殿が三河(家康)殿の上に立つ、まさに天下人に相応しきお人と言えましょう。」

 

 官兵衛の声は、もはや人間のそれではなく、深淵から響く啓示のように秀吉の耳を打った。天災による死の臭いが立ち込める中、官兵衛だけが、死んだはずの勝利という名の化け物に、再び命を吹き込もうとしていた。

 

 そして天正十四年、春。

 あの大地震から数ヶ月、傷跡が未だ癒えぬ中、官兵衛は、秀吉に『なりふり構わぬ懐柔策』を説いた。

 

 秀吉は官兵衛の策に従い、実の妹である朝日姫を、家康の正室として強制的に輿入れさせた。これに対し、家康の家臣団は『罠だ』と猛反発した。


 さらに官兵衛は、秋に入ると追い打ちをかけた。

 秀吉の実母、大政所までもを、上洛を促すための『人質』として三河へ送ると言い出したのである。

 

 「狂うておる……。関白(秀吉)も、その背後にいる官兵衛も……。」

 

 浜松城でその報を聞いた家康は、震える手で書状を握りしめた。秀吉が実母まで差し出して『和睦』を乞うてきた以上、これを拒めば、家康は『情け知らずの逆賊』として全土から孤立することになる。数正の裏切りで軍備を握られ、地震で戦意を(くじ)かれ、さらに人情を人質に取られた。

 官兵衛は、家康の『武士としての誇り』をすべて剥ぎ取り、退路を完璧に塞いでしまったのだ。

 

 「朝日姫を迎えれば、わしは関白(秀吉)の義弟となる。母君を預かれば、わしは関白(秀吉)に恩を着せられる……。じゃが、それは同時に、わしが関白(秀吉)という『公儀』の一部になることと同義よ……。」

 

 家康は、深夜の寝所で独り天を仰いだ。

 長久手で刃をかけたはずの秀吉の首筋に、今は自分の方が、官兵衛という透明な縄をかけられている。これを拒んで戦えば、徳川の家は滅び、日の本は再び地獄と化す。だが、これを受け入れれば、秀吉の軍門に降ることになる。

 

 夜明けの光が、浜松城の畳を白く染め始めた。

 家康は、傍らに置かれた自身の兜を静かに見つめた。その表面には、数多の戦場を潜り抜けてきた傷が刻まれている。

 

 「数正……。お主の裏切り、今ならば分かる気がするぞ。お主もまた、あの不気味な軍師が見せた『戦の向こう側』にある静寂に、賭けたのか……。」

 

 家康はゆっくりと立ち上がり、重臣たちが待つ広間へと向かった。

 その足取りは重く、しかし揺るぎない決意に満ちていた。広間に集まった本多忠勝(ただかつ)や榊原康政(やすまさ)ら、戦うことしか知らぬ勇将たちが、殺気立った眼差しで主君を見上げる。

 

 「殿! 和睦など断固拒否を! 関白の実母など叩き斬り、一戦交えましょうぞ!」

 

 忠勝の咆哮を、家康は片手を挙げて静かに制した。

 家康は、遠く西の空を見つめた。

 

 「皆、聞け。わしは、大坂へ参る……。関白(秀吉)殿下に、拝謁いたす……。」

 

 その一言が、戦国という時代の終わりを告げる弔鐘(ちょうしょう)のように響いた。

 家康は、戦場で勝つことよりも、生きて時代のうねりを飲み込む道を選んだ。それは、官兵衛が用意した『毒杯』を、自らの意志で飲み干すという、あまりに過酷な決断であった。

 大坂城の奥底で、官兵衛は静かに目を閉じた。

 

 浜松から届くであろうその『答え』を、彼はすでに確信していた。

 有岡の闇から持ち帰った『算盤』と、天が下した『地震』という断罪。それらが重なり合い、日の本の地図が、新しい色に塗り替えられようとしていた。

 戦場で勝ったはずの家康が、一度も剣を交えていない官兵衛の前に膝を屈する。

 『実母を人質に出す』という、なりふり構わぬ秀吉の攻勢。その背後で糸を引く官兵衛の冷徹な知略が、家康の武士としての誇りを一枚ずつ剥ぎ取っていきました。


 『わしは大坂へ参る……。』

 家康のこの決断は、個人の敗北であると同時に、力こそが正義であった『戦国』という時代そのものの終焉を意味しています。


 物語はあと二話。次話は官兵衛と家康が直接対峙する展開でクライマックスを迎えます。

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