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第五十五話 公儀の檻

 賤ヶ岳の戦火が消え、羽柴秀吉の天下はもはや決定的なものとなりました。

 しかし、泰平の足音が近づくにほどに、深まる闇があります。


 今回、大坂の地で対峙するのは、徳川家が誇る『理性の重臣』石川数正と、有岡の土牢から這い出した『異相の怪物』黒田官兵衛。


 徳川の運命を狂わせる『絶望の種』が、いま官兵衛の手によって植えられます。

 天正十一年、五月。

 賤ヶ岳の戦火が収まり、柴田勝家という旧時代の巨星が北ノ庄(きたのしょう)の露と消えた後、日の本の空気は一変した。もはや羽柴秀吉の天下を疑う者はいない。だが、ただ一人、東国で沈黙を守り、鋭い眼光を放ち続ける怪物がいた。


 徳川家康である。

 家康は秀吉の戦勝祝いとして、名刀や金銀を携えた使者を送った。名目は祝辞だが、その実態は『敵対の意思なし』と見せかけた、狡猾(こうかつ)な時間稼ぎに過ぎない。その使者として大坂へ送り込まれたのが、徳川家の屋官骨を支える重臣、石川数正(かずまさ)であった。

 

 大坂の地を踏んだ数正は、息を呑んだ。

 そこには、かつての石山本願寺の跡地を飲み込むようにして、人知を超えた速度で巨大な城塞が姿を現しつつあった。数万の民が蟻のように働き、巨大な石材が次々と積み上げられていく。

 城下には全国から集められた米や材木が山をなし、溢れんばかりの活気が渦巻いている。

 堺の商人たちが持ち込んだ南蛮の珍品が並び、戦国の世とは思えぬほど、そこには『金と欲』が脈動していた。三河の質実剛健な空気とは正反対の、眩暈(めまい)を覚えるほどの(きら)びやかさ。

 

 「これが、筑前(秀吉)殿の器か……。」

 

 数正が呟いた時、背後から冷ややかな声が届いた。

 

 「いえ……。これは殿の『執念』の形にございます。」

 

 振り返ると、そこには杖を突き、足を引きずりながらも、底知れぬ眼光を宿した男が立っていた。黒田官兵衛である。

 その顔色は土牢での幽閉の影響か、未だに青白く、浮き出た血管が蛇のように波打っている。しかし、その瞳だけは以前よりも鋭く、相手の魂を抉り出すような熱量を帯びていた。

 

 「石垣の一つ一つ、瓦の一枚に至るまで、信長公を超えようとする殿の(ごう)が宿っております……。そうは思いませぬか、伯耆守(ほうきのかみ)(数正)殿……。」

 

 数正は背筋に冷たいものが走るのを感じた。この男こそ、本能寺の変の後、奇跡と呼ばれる『中国大返し』を演出し、柴田勝家の絆を内側から切り裂いた軍師である。

 

 「黒田官兵衛殿……。お初にお目にかかりまする。」

 

 石川数正は徳川の『顔』として深く頭を下げた。官兵衛も無言で一礼をしたが、その一礼さえも、獲物の急所を測る鷹のような鋭さがあった。

 

 「三河(家康)殿からの贈り物、しかと受け取りました。されど……。」

 

 官兵衛は数正の目を射抜くように見つめ、一歩、間合いを詰めた。杖を突く重い音が、数正の鼓動に重なる。

 

 「形ある宝など、天下の主にとっては路傍(ろぼう)の石も同然。我らが真に求めているのは、三河(家康)殿の『心』にございます。

 伯耆守(ほうきのかみ)(数正)殿、三河(家康)殿はいつ大坂へ参られるおつもりか。我が殿は、懐かしき友との再会を、それはそれは楽しみに待っておられますぞ。」

 

 その声は穏やかであったが、数正にはそれが『来ねば滅ぼす』という死刑宣告のように聞こえた。官兵衛の視線は数正の心根を見透かしているかのようだった。徳川家が抱える『織田家への義理』と、秀吉という『巨大な現実』の狭間で揺れる数正の苦悩を、官兵衛は楽しむように眺めている。

 

 「三河(家康)殿は、亡き信長公との同盟を律儀に守り抜かれた御仁(ごじん)。今しばらく、領国内の仕置きに時を要しましょう」

 

 「ほう。仕置き、でございますか……。」

 

 官兵衛は微かに口角を上げた。その笑みには、明白な(さげす)みと、深い憐れみが混じっていた。

 

 「伯耆守(ほうきのかみ)(数正)殿。貴殿のような賢者が、三河という小さな籠の中に閉じ込められているのは、実に惜しいことですな……。この大坂から見える景色は、三河のそれとは全く異なります。もはや刀槍の数だけで天下が決まる時代は終わりました。いずれ、貴殿にもその意味が、痛いほど分かる時が来ましょう。」

 

 官兵衛は杖を鳴らし、ゆっくりと背を向けた。その引きずる足取りさえも、数正には計算し尽くされた威嚇のように思えた。官兵衛の背負う影が、巨大な怪物となって数正を飲み込もうとしていた。

 

 その日の夕刻、数正は宿所に帰っても一睡もできなかった。官兵衛の言葉が、耳の奥で何度も反芻(はんすう)され、毒のように全身に回り始めていた。

 窓から見える工事中の大坂城は、夜になっても松明の火が絶えず、不夜城のように輝いている。それはまるで巨大な怪物が自分を飲み込もうと、何万もの火の目を開けているように見えた。

 

 数正の心に植え付けられた『絶望の種』は、一晩のうちに根を張り、彼の忠誠心を内側から蝕み始めていた。自分が見守ってきた徳川の家臣たちが、大坂のこの圧倒的な『光』に焼かれて消えていく未来が、現実味を伴って迫っていた。

 

 数週間後、浜松城に戻った数正は、顔色を失い、影のように家康の前に平伏した。

 その報告を聞いた家康は、深く椅子に身を沈め、長い沈黙の後に呟いた。

 

 「黒田官兵衛か……。やはり、あの男であったか」

 

 家康の脳裏には、ある恐るべき仮説が浮かんでいた。本能寺にて信長を『亡き者』にした黒幕……明智光秀にすら見えぬ糸を引いた者がいたとすれば、この異相の軍師かもしれぬ。その疑念が、かつてない現実味を帯びて膨らんでいた。

 

 「数正。官兵衛の眼は、何を見ておった?」

 

 「分かりませぬ……。なれど、あやつに見つめられた時、拙者の心臓の鼓動まで数えられているような気がいたしました。あれは、ただの知恵者ではございませぬ。人の皮を被った……時代の意志そのものにございます。殿、我らは、ただの人間と戦っているのではないのかもしれませぬ。あの男が見据えているのは、我らが見ている『戦場』の遥か先、数十年後の静寂でござりまする。」

 

 石川数正は名高い剛胆な武将であったが、その声は震え、瞳には隠しきれぬ怯えが宿っていた。家康はその姿を見て、官兵衛の狙いの深さを悟った。単に脅しているのではない。数正の魂に『迷い』という致命的な楔を打ち込んだのだ。

 

 家康は窓の外、西の空を見つめた。

 信長の次男、信雄(のぶかつ)が秀吉への不満を募らせ、浜松に接触を図ってきていることは分かっている。信雄を担ぎ上げれば、織田家を継ぐ正統性という大義名分は立つ。武士ならば、一度は勝負を挑まねばならぬ場面だ。家康の中の野心が、火を灯そうとしていた。

 

 だが、家康は直感していた。それこそが、いずれ権威を手中に収めるであろう秀吉と、その盤面を操る官兵衛が、家康を引きずり出すために描いた『次なる盤面』の誘いではないのかと……。

 

 「わしを、表舞台に引きずり出そうとしておるな、官兵衛……。」

 

 家康は、膝の上で拳を強く握りしめた。

 

 官兵衛は今、家康を滅ぼすための『戦の道』を用意しているのではない。家康がどれほど戦場で勝とうとも、最終的に政治的な自滅へと追い込むための『公儀の檻』を完成させようとしているのだ。


 東国の怪物と、西国の怪物。

 お互いが意識し合う中で、その距離は少しずつ縮まり、見えない刃の交錯が、火花を散らしながら日の本を飲み込もうとしていた。

 最後までお読みいただきありがとうございます。

 

 数正の魂に打ち込まれた官兵衛の『楔』。

 剛勇で知られる石川数正が、ただ一度の邂逅でこれほどまでに打ちのめされたのは、官兵衛が彼の『理性』そのものを攻撃したからに他なりません。


 家康は直感しいます。次に用意されているのは、勝っても負けても破滅へと繋がる『公儀の檻』であることを……。


 東国の怪物、家康と、西国の怪物、官兵衛。

 ついに二人の怪物が、互いの存在を明確に『超えるべき壁』として認識しました。


 物語はいよいよ、歴史の分岐点、小牧合戦へと加速していきます。

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