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第五十四話 北ノ庄の落日

 賤ヶ岳の砦を落とし、勝利を確信した柴田軍。

 しかし、その背後から迫っていたのは、歴史を覆す『神速』の地響きでした。


 中国大返しに続く、秀吉と官兵衛による人知を超えた奇跡『美濃大返し』。

 戦場を蹂躙する若き七本槍と、その影で『義』を『利』によって切り裂く官兵衛の非常な知略が、旧時代の巨星、柴田勝家を追い詰めていきます。

 天正十一年、四月二十一日。朝。

 賤ヶ岳の砦を落とし、中川清秀を討ち取って勝利の余韻に浸っていた佐久間盛政の耳に、信じがたい地響きが届いた。それは、数万の(ひづめ)が地を削り、山々を震わせて突き進んでくる、この世のものとは思えぬ異形の足音であった。

 

 盛政が砦の物見台から南の空を仰ぎ見た時、そこには絶望の光景が広がっていた。漆黒の山道を、官兵衛が用意させた無数の松明が、まるで巨大な火の龍がのたうつように流れ、朝日を浴びた金色の『千成瓢箪(せんなりびょうたん)』が、物理的な限界を超えた神速で迫り寄ってくる。

 

 「馬鹿な……。筑前(秀吉)は大垣におったはずだ。十三里の道を、わずか半日足らずで……!?」

 

 盛政の叫びは、そのまま柴田軍全体の戦慄となった。『中国大返し』に続き、戦史上屈指の行軍が、今まさに彼らを飲み込もうとしていた。

 

 官兵衛は馬上から、混乱に陥る柴田軍を冷徹に見つめていた。一万五千の兵たちは極限の行軍で体力の限界を超えていたが、秀吉が先頭に立って放つ


 「瀬兵衛(せびょうえ)の仇を討て! 命を惜しむな!」


という凄まじい熱量で、彼らは死をも恐れぬ狂戦士と化していた。

 

 「官兵衛、見ろ! 玄蕃(げんば)が腰を抜かしておるわ! 瀬兵衛(せびょうえ)、待たせたな。今から貴様の供養を、柴田の首で派手に執り行ってやる!」

 

 秀吉は血走った眼で笑い、黄金の軍配を天高く振り下ろした。

 

 「全軍、突撃ッ! 一兵も余さず、越前まで追い散らせ!」

 

 秀吉の号令一つで、疲れ切っていたはずの一万五千が、大地を砕く勢いで柴田軍に襲いかかった。ここで官兵衛は、秀吉が『新時代の刃』として目をかけてきた若武者たちを解き放つ。後に『賤ヶ岳の七本槍』として歴史に名を刻む、福島正則、加藤清正ら秀吉子飼いの精鋭たちである。

 

 福島正則が咆哮と共に一番槍を競い、敵陣の喉元を強引に食い破る。加藤清正は自慢の長槍を振るい、柴田家きっての剛の者たちを次々と馬から叩き落とした。

 官兵衛は彼らの戦いぶりを冷然と観察していた。彼らが放つ若さと無鉄砲な勇気は、官兵衛の設計した『速度による制圧』という戦術に見事に合致していた。

 彼らは官兵衛にとって、単なる勇者ではない。旧時代の武士道を塗り替えるための、鋭利な『駒』であった。秀吉が彼らを情で操り、官兵衛が彼らを盤面上に配置する。その完璧な共犯関係が、柴田軍を崩壊させていく。

 

 官兵衛は、戦場の喧騒から一歩引いた高台に陣を構え、冷静に盤面を俯瞰(ふかん)していた。秀吉が放つ圧倒的な『光』が敵の目を眩ませている間に、官兵衛は『影』となって、勝家が最後に頼みとする絆を断ち切る最後の作業に取り掛かった。ターゲットは、柴田軍の中核を担い、勝家の親友でもある前田利家である。


 秀吉は利家へ『また共に戦いたい』という泥臭い友情の手紙を書き、官兵衛はそこに『柴田に殉じれば前田家は歴史から消える』という冷酷な分析書を添えた。

 秀吉の『情』で退路を塞ぎ、官兵衛の『理』でトドメを刺す。この逃げ場のない二段構えは、利家の心の最も(もろ)い部分を的確に突き刺していた。

 戦場の中央で五千の兵を率いて逡巡(しゅんじゅん)していた利家は、ついに決断を下す。彼は一戦も交えることなく、突如として戦線を離脱し、自領へと引き上げ始めたのである。

 

 「犬千代(いぬちよ)(利家)! 貴様までもか……貴様までもが、筑前(秀吉)に魂を売ったというのか!」

 

 本陣の柴田勝家は天を仰ぎ、血を吐くような叫びを上げた。勝家が信じた『武士の絆』という美しい幻想は、官兵衛が用意した『実利と家名』という冷徹な現実の前に、脆くも崩れ去ったのである。信頼した友の背中が遠ざかるのを見つめる勝家の絶望は、筆舌に尽くしがたいものであった。

 

 支えを失った柴田軍は、砂の城のように崩壊した。三万の軍勢は見る間に霧散し、敗残兵の群れとなって北へ逃れた。勝家はわずかな手勢と共に、雪解けの泥にまみれながら、逃げ延びるしかなかった。秀吉が武威(ぶい)で敵の士気を打ち砕き、官兵衛が調略で敵の退路を断つ。この二人の役割分担の前に、旧時代の巨星、勝家に抗う術は残されていなかったのである。

 

 四月二十四日。追撃の手を休めぬ秀吉軍の篝火(かがりび)が、北ノ庄(きたのしょう)城を幾重にも包囲した。夜空は不気味な朱色に染まり、城を包む炎が天を焦がしていた。

 城内では、勝家が正室、お市の方と向き合っていた。信長の妹であり、戦国一の美女とおそれられたお市の瞳は、死を前にしてもなお、その気高さに一点の曇りもなかった。

 

 「市よ。三人の娘を連れて城を出よ。筑前(秀吉)も、上様の妹であるそなたを殺しはせぬ……。生きて、織田の血を繋いでくれ。それが、わしの最期の頼みじゃ……。」

 

 勝家の切実な願いに、お市は静かに、しかし断固として首を振った。

 

 「私は、織田の女にございます。かつて浅井の城が落ちた時、私は兄上の命で恥を偲んで生き延びました。なれど、二度はございませぬ。柴田修理亮(しゅりのすけ)の妻としての誇りを守り抜くことこそ宿命……。どこまでもお供いたします。」

 

 勝家はその言葉を聞き、涙を流して豪快に笑った。

 

 「そうか……。ならば、上様の前でも恥じぬ散り際を見せようぞ。皆、これへ参れ! 死出の旅路の前の、最期の宴じゃ!」

 

 勝家は残ったわずかな家臣たちと酒を汲み交わし、自ら幸若舞『敦盛』を舞った。

 信長が愛した舞を、今、その忠臣であった勝家が舞う。城の下層にはすでに火が放たれ、柱が()ぜる音と煙が立ち込める中、その宴は凄絶なまでの美しさを放っていた。家臣たちは涙を流しながら主君の舞を見守り、次々と自らの腹を切り裂いていった。勝家は静かに辞世を遺した。

 

 夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を

         雲井にあげよ 山ほととぎす

 

 やがて、勝家はお市の手を取り、互いの身体を深く貫いた。かつての織田家筆頭家老の栄華は、その妻の絶世の美貌と共に、北陸の夜空へと昇る黒煙の中に溶けていったのである。

 

 翌朝、焼け落ちた城門の前に立つ秀吉の隣で、官兵衛は立ち上る煙を無表情で見つめていた。

 生き残ったお市の娘たち――茶々、初、江の三人が、兵に連れられて運ばれてくる。その中の一人、長女、茶々の瞳に、官兵衛は言葉を失った。

 

 幼い少女の瞳に宿っていたのは、悲しみではなく、地獄の底から這い上がってきたような深い憎悪であった。それは、父、浅井長政を奪い、母を死に追いやった秀吉という男への、消えることのない『呪い』の炎であった。

 

 「殿……。これで、旧時代の残滓(ざんし)はすべて焼き払われましたな。」

 

 官兵衛は、その不気味な予感を振り払うように冷然と呟いた。

 

 秀吉は救い出された娘たちを慈しむような目で見つめていたが、官兵衛は拭いようがない悪い予感を感じていた。やがて、この時救い出した茶々が『淀君』として秀吉の最愛の側室となり、そして豊臣の家を根底から滅ぼす『毒』となっていく……。

 

 北陸の空は、ようやく春の光を湛え始めていた。雪は消え、土からは新しい芽が吹き出している。だが、その柔らかな光が照らし出したのは、新しい天下人、秀吉と、その影で冷徹に次なる盤面を(にら)む怪物、官兵衛の、あまりに孤独な姿であった。

 最後までお読みいただきありがとうございます。

 

 戦国屈しの武断派、柴田勝家の最期を描き切りました。

 これにて柴田勝家との決戦は幕を閉じましたが、秀吉の天下取りはここからさらに加速します。

 次話ではもう一人の怪物、徳川家康が再登場し、官兵衛との距離が縮まっていきます。

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