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第五十三話 賤ヶ岳の罠

 半年前まで天下無双だったに織田軍は、清須会議を経て解体の一途を辿ります。

 立ちはだかるのは、織田家最古参の宿老、柴田勝家。


 冬という自然の壁を、官兵衛はいかにして檻に変えたのか。

 歴史に名高い『美濃大返し』と、その裏に潜む『軍師の冷徹』を描きます。

 天正十年、冬。

 清須会議から半年が過ぎようとしていた。織田家の領地再編という事務的な処理は一通り終わりを見せていたが、それは平穏を意味してはいなかった。むしろ、降り積もる雪の下で、次の巨大な戦火がじりじりと(くす)ぶっていたのである。

 

 官兵衛は、近江、長浜の仮陣所にいた。突き上げられた板戸の隙間からは、冬の鉛色の空が広がり、時折冷たい風が吹き抜ける。

 

修理亮(しゅりのすけ)(柴田)殿は、冬を味方にできると考えておいでだ……。なれど殿、雪は(おり)にもなりまする。」

 

 官兵衛は、主君、秀吉に対し、一刻の猶予もない献策を行った。勝家の本拠地である越前、北ノ庄(きたのしょう)は、日本でも有数の豪雪地帯である。一度雪が深く積もれば、北陸の峠道は完全に閉ざされ、三万の柴田軍は身動きが取れなくなる。官兵衛は、この自然の猛威さえも軍略の一部として、冷徹に計算していた。

 

 勝家が『春まで秀吉は動けまい』と(たか)(くく)っている隙に、官兵衛はその封印を利用し、各個撃破する策を提案した。秀吉は官兵衛の進言を即座に採用した。雪が本格的に積もる直前の隙を突き、美濃の織田信孝(のぶたか)、伊勢の滝川一益(かずます)を立て続けに急襲したのである。

 勝家が春の訪れと共に見たものは、希望ではなく、官兵衛によって丁寧に塗り固められた『死の包囲網』であった。

 

 翌天正十一年三月。雪解けと共に、勝家はついに怒りの炎を爆発させ、総勢三万の兵を率いて近江へと出陣した。一方の秀吉軍は、丹羽長秀らの加勢を合わせれば五万を超える大軍であった。賤ヶ岳周辺の山々に幾多の砦を築き、迷路のような防衛網を敷いて勝家を待ち構える。

 

 この時、官兵衛の描く盤面は、単なる数押しではなかった。

 

 「殿、三七(信孝)様への備えを兼ねて大垣へ移り、あえて隙を見せ、敵を誘い出すのです。修理亮(しゅりのすけ)(柴田)殿の甥、佐久間玄蕃( げんば)(盛政)。あの若武者の猛勇を逆手に取りましょう。勇猛な者ほど、手近な功名という餌に目が眩むもの……。」

 

 秀吉は五十キロ以上離れた美濃、大垣城へと主力一万五千を移動させた。これが盛政を誘い出す罠にもなったのである。

 

 賤ヶ岳の最前線、大岩山砦(おおいわやまとりで)を守るのは、秀吉が放浪時代から信頼を寄せる親友、中川清秀(きよひで)であった。出陣の前夜、秀吉は官兵衛を伴い、清秀(きよひで)の陣を訪れた。

 

 「瀬兵衛(せびょうえ)清秀(きよひで))、すまぬ。お主に一番辛い役目を押し付けることになった……。」

 

 秀吉の顔は、いつもの陽気さが消え、一人の男としての苦渋に満ちていた。

 

 「筑前(秀吉)、水臭いことを言うな。わかっておる。わしがここで修理(しゅり)(柴田)の牙を深く食い止めれば、お主の天下が近づく……。そうじゃろう?」

 

 清秀(きよひで)は官兵衛を振り返って不敵に笑った。官兵衛は無言で、しかし深く、静かに頭を下げた。

 

 「瀬兵衛(せびょうえ)清秀(きよひで))殿……。殿が大返しを成すまでの間、どうか耐えてくだされ。貴殿が耐える一刻が、天下の行方を決めまする……。」

 

 秀吉は清秀の肩を、骨が鳴るほど強く抱きしめた。

 

 「必ずや戻る!険しき峠など飛び越え、一息に瀬兵衛(せびょうえ)清秀(きよひで))のもとへ駆け戻ってくれるわ! ゆめゆめ死ぬことなど相成らんぞ!この秀吉との固き(ちぎ)りよ。わしが築く天下にお主が居らぬなど、考えられぬこと。生きて、再びまみえようぞ!」

 

 「ああ。この命、お主の天下の(いしずえ)となるなら本望(ほんもう)よ。わしが崩れぬ限り、玄蕃( げんば)(盛政)は一歩も引かせん!さあ行け、筑前(秀吉)! 天下を掴め!」


 清秀は多くを語らなかったが、その言葉は共に修羅場を潜り抜けてきた戦友に対する、最期の別れの儀であった。健気に振る舞う清秀の眼には、自らの命を捧げることを厭わぬ、死にゆく者特有の凄絶な光が滲んでいた。

 

 秀吉は涙を(こら)え、背を向けた。官兵衛は、その絆さえも勝利の歯車として組み込んでいく己の業を噛み締めていた。秀吉が情を配り、官兵衛がその裏で血の通わぬ『死の準備』を整える。それが、このコンビの真骨頂であった。

 

 官兵衛は大垣への移動中も、一度も足を止めなかった。先の『中国大返し』の経験を活かし、街道沿いの名主に命じ、一万五千の兵が通る際の炊き出しの場所、松明の設置数など、事務的に確認して回った。

 

 「良いか!これは村の存亡に関わる仕事だ!一分でも遅れれば、村を焼き払う!だが、完璧に成せば、末代までの繁栄を約束しよう!」

 

 官兵衛は農民たちに笑み一つ見せず、そう言い放った。官兵衛は知っていた。理屈や忠義よりも、具体的な『恐怖』と『利』こそが、底辺に生きる民を最も迅速に動かすということを……。彼のこの徹底した管理が、後に『神速』と呼ばれる行軍の、血の通わない土台となったのである。

 

 四月二十日、深夜。

 官兵衛の読み通り、佐久間盛政は動いた。勝家の慎重な戒めを無視し、八千の精鋭を率いて大岩山砦へ突撃を開始した。

 

 猛攻は凄まじく、山々は瞬く間に火の海と化した。中川清秀は、押し寄せる柴田の精鋭を前に、一歩も引かなかった。全身に無数の矢を受け、槍に深く貫かれながらも、最期まで秀吉との約束を守ろうと立ち続けた。

 

 「わしの(むくろ)を越えていけ! 貴様らはすでに筑前(秀吉)の網の中よ!」

 

 清秀は凄絶な討ち死にを遂げた。彼の絶命によって砦は陥落したが、その死こそが、柴田軍を破滅へと導く『毒餌(どくえ)』の完成であった。

 

 砦陥落の報は、官兵衛が山々に配置させていた狼煙(のろし)によって、大垣城へと瞬く間に届けられた。

 秀吉は清秀(きよひで)の死を知り、床を拳で叩いて号泣した。

 

 「瀬兵衛(せびょうえ)清秀(きよひで))ぇ! すまぬ、すまぬ……。」

 

 その悲しみの底で、官兵衛の声が冷徹に響いた。

 

 「殿。瀬兵衛(せびょうえ)清秀(きよひで))殿が命を懸けて繋いだ一刻。これを無駄になさるおつもりか。今こそ、天下を掴む時。一分の猶予もございませぬ……。悲しみは、柴田修理(しゅり)(勝家)の首を獲ってからになされ!瀬兵衛(せびょうえ)清秀(きよひで))殿の魂が、今も砦で殿を見ておられますぞ!」

 

 秀吉は涙を拭い、立ち上がった。その瞳には、親友を失った悲しみを塗りつぶすほどの、天下人としての凄まじい決意が宿っていた。

 

 「官兵衛……。灯火(ともしび)を灯せ。全軍、近江へ引き返すぞ! 瀬兵衛(せびょうえ)清秀(きよひで))の仇、玄蕃( げんば)(盛政)の首を獲り、修理(しゅり)(勝家)を討つ!」

 

 歴史に刻まれる狂気の行軍、『美濃大返し』の幕開けである。

 大垣から賤ヶ岳まで十三里(約五十キロ)。官兵衛が整えた『松明の道』と『炊き出しの粥』という完璧なインフラが、秀吉の『仇を討つ』という爆発的な情熱と融合したのである。

 

 闇の中を一万五千の足音が地響きとなって響き渡る。街道に並ぶ松明は、官兵衛の指示により、農民たちが命がけで火を絶やさぬよう管理していた。兵たちは走りながら粥を啜り、胃を焼きながらも、秀吉の背中を追った。

 

 馬上の秀吉は、官兵衛を振り返り、狂気を(はら)んだ笑みを浮かべた。

 

 「官兵衛! 見よ、道が煌々(こうこう)と輝いておるわ! まるで白昼の如きよ!」

 

 「殿、これは瀬兵衛(せびょうえ)清秀(きよひで))殿への手向(たむ)けの灯りにございます!一歩も足を止めさせてはなりませぬ!」

 

 官兵衛は冷然と答え、鞭を振るった。

 

 一万五千の松明が、巨大な光の龍となって山を越えていく。その先頭を、親友の死を力に変えた天下人、秀吉が、獣のような速さで夜を徹して駆けていく……。官兵衛はその姿を冷徹に見つめながら、勝利の先の『非情なる結末』を、すでに脳内で描き始めていた。

 最後までお読みいただきありがとうございます。


 史実における『賤ヶ岳の戦い』は秀吉の電撃的な行動が最大の勝因と言われていますが、本作ではその『神速』を可能にしたのは官兵衛による村々への徹底した軍事工作、そして松明や粥の手配といった『裏のロジック』があったという解釈で描いています。


 秀吉が泣き、官兵衛がその涙を拭う間もなく次の一手を打つ、この二人の『静と動』が、戦国時代の終わりを速めていくことになります。


 さて続く後編では、ついに柴田勝家の最期。

 そして救い出した幼き茶々の瞳に『豊臣の滅亡』を予感する、不穏な幕切れが待っています。

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