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第五十二話 簒奪

 本能寺の変からわずか数週間。

 光秀を打ち果たした羽柴秀吉が次に挑んだのは、織田家の覇権を巡る駆け引きでした。

 今までの通説には無かった、秀吉と官兵衛が織田家中の覇権を手中に治めるための画策を描きます。

 天正十年六月下旬。

 徳川家康は、命からがら伊賀越えを成し遂げ、浜松へと帰り着いた。既に光秀討伐のため、尾張へと軍を進めていたが、彼の元に届いたのは『秀吉勝利』の報であった。

 

 「筑前(秀吉)……やりおったか……。」

 

 家康は進軍を止め、即座に矛先を変えた。光秀が消え、主を失った旧武田領――信濃、甲斐という巨大な空白地帯を切り取るべく、彼は『天正壬午の乱』へと身を投じていく。それは、泥臭く土地を這いずる『獣』の如き執念であった。

 

 その頃、中央ではさらに高度な、目に見えぬ『力』の奪い合いが始まっていた。

 

 山崎の戦いを制した羽柴秀吉は、家康とは異なる『切り取り』を目論んでいた。織田家という『巨大なシステム』そのものを手中に収めるための戦い、そして官兵衛にとっても主君、秀吉を天下人に押し上げるための重要な局面を迎えていた。

 

 尾張、清須城。信長という絶対的な『中心』を失った織田家は、その崩壊を防ぐための再起動を試みていた。

 清須会議。後に歴史がそう呼ぶこの会合は、表面上は極めて事務的かつ理性的な手続きとして進められていた。

 柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興(つねおき)、そして羽柴秀吉。

 四人の宿老が膝を突き合わせ、亡き主君の遺領を分け合い、後継者を定める。そこには、かつての戦国乱世のような怒号も、抜刀もなかった。

 山崎で光秀を討った秀吉の功績はあまりに大きかったが、一旦は『三法師(信忠の遺児)の擁立』と『領地再編』の二点において合議制の和解の体を成していた。

 ところが本質は光秀の討伐を成し遂げた秀吉の暴走を食い止める『ブレーキ』なのである。

 

 黒田官兵衛はこの本質を見抜き、別の未来を捉えていた。


 「整いましたな……。筑前(秀吉)殿……。」

 

 会議が終わり、清須の城門を出る際、官兵衛は馬上の秀吉に低く囁いた。その声には、勝利の歓喜ではなく、冷徹な『処理の継続』を告げる響きがあった。

 

 「清須の約定など、ただの墨の跡に過ぎませぬ。重要なのは、奴らが『終わった』と安堵したこの瞬間。今こそ、織田家の『仕組み』の根幹を書き換えまする。」

 

 官兵衛の行動は、電光石火であった。

 清須会議の合意事項には、『合議制による集団指導体制』が明記されていた。しかし官兵衛は、その秀吉一人を縛るブレーキそのものを焼き切る作戦を、会議の翌日から開始した。

 

 まず官兵衛が着手したのは、物理的な拠点の構築——山崎城の築城である。

 清須で定まった領地再編において、秀吉は山崎の地を確保していた。官兵衛はそこに、単なる出城ではない、巨大な『情報の結節点』としての要塞を瞬く間に築かせた。

 

 「ここは京への入り口。そして、西国と東国を結ぶ情報の回廊にございます。ここに城を置くことは、織田家の喉元(のどもと)を我が手に掌握することと同義。」

 

 官兵衛は自ら工事現場に立ち、石垣の一つ、堀の一寸に至るまで計算し尽くした。山崎城は、秀吉の権力を天下に誇示するデモンストレーションであると同時に、勝家や信孝が京へ入ることを物理的に阻止する『関所』として機能し始めた。


 官兵衛の設計は、城壁の内側だけに留まらなかった。彼は城下に集まる商人や、街道沿いの村々にまで『情報の根』を張り巡らせたのである。

 

 「築城の資材を運ぶ者には、倍の賃を払え。ただし、運ぶのは材木だけではない。各地の噂、兵の動き、商人の荷の中身……それらすべてを山崎に集約させるのだ。」

 

 官兵衛は黄金を惜しみなく使い、物流の要衝である山崎を、西国からの情報がすべて濾過(ろか)される巨大なフィルターへと作り替えた。それは、戦わずして敵の毛細血管を掌握する、官兵衛独自の領土経営であった。

 

 柴田勝家からの抗議文が届いたのは、築城開始からわずか数日後のことである。

 

 『山崎の城造りは、清須の合議に反する独断である。即座に中止せよ』

 

 秀吉はその書状を見て苦笑したが、官兵衛は一瞥しただけでそれを火中に投じた。

 

 「修理亮(勝家)殿は、まだご自分の『言葉』に力があると思っておいでだ……。滑稽なことですな。既に世界は、言葉ではなく『(なり)の占有』によって動き始めているというのに……。」

 

 官兵衛の『簒奪』は、城だけでは終わらなかった。次に彼が狙ったのは、システムの最上位権限——三法師の身柄であった。

 清須会議の約定では、幼き三法師は織田信孝(信長の三男)の後見のもと、岐阜城に置かれることになっていた。これは秀吉による三法師の私物化を防ぐための、勝家たちの最後の防衛線であった。

 だが官兵衛は、この『法』すらも、情報の力で無効化して見せた。

 官兵衛は、岐阜城周辺に密かに潜り込ませていた草(忍者)を用いて、信孝の家臣団の間に微かな、しかし致命的な毒を撒いた。

 

 「三七(さんしち)(信孝)様は三法師様を盾に、自らが織田家の家督を継ごうとしておられる。」

 「三法師様は岐阜で冷遇されている」……。

 

 根も葉もない噂は、官兵衛が用意した『証拠』という名の偽造文書と共に、瞬く間に近隣の諸大名の間に広がった。

 

「筑前(秀吉)殿。大義名分は、作るものでございます……。三七(さんしち)(信孝)様が三法師様を不当に拘束している。そう世に知らしめれば、我らの『奪取』は正義へと変わりまする。」

 

 天正十年、冬。

 秀吉は、官兵衛の策に従い、三法師への『拝礼』を口実に大軍を動かした。清須の約定を公然と踏みにじる暴挙。だが、官兵衛が整えた『信孝不義』のプロパガンダにより、周囲の諸将は秀吉を止めるどころか、その軍勢に加わったのである。

 

 岐阜城から連れ出された三法師は、秀吉の手によって、まず安土城へと移された。しかし官兵衛は、『安土の修復』を口実に、その幼き身柄を山崎に近い要所へと事実上繋ぎ止め、秀吉以外の者が容易に近づけぬよう、密かに手を回したのである。


 この瞬間、織田家の『正統性』という管理権限は、完全に秀吉の手へと渡った。

 勝家や信孝がその重大さに気づいた時には、すべてが手遅れであった。

 山崎城に三法師を据えた秀吉は、もはや一介の宿老ではない。織田家を代行する『実質的な独裁者』として、官兵衛の設計した新たな秩序の上に君臨したのである。

 

 官兵衛は、秀吉に抱かれ無邪気に笑う三法師を、感情の失せた目で見つめていた。彼にとってその幼子は、守るべき主君の血筋などではなく、天下という盤面を動かすための、最も強力な『権限』に過ぎなかった。

 

「尊き血筋も、使いようによっては毒にも薬にもなる……。」

 

その掌の上で、織田家三代の誇りが、羽柴家の天下を正当化するための便利な部品へと作り替えられていく。織田家の撲滅を画策した官兵衛の思考には、もはや一片の躊躇(ちゅうちょ)もなかった。

 

「これで、奴らは怒り狂いましょうな……。それで良いのです。怒りは判断を曇らせる……。」

 

 官兵衛は、山崎城の天守から、北の空を見上げた。そこには、間もなく冬を運んでくる、鉛色の雲が広がり始めていた。

 

 清須会議という『平和の合意』を燃料に、官兵衛は巨大な戦火を、意図的に、そして精密に引き起こそうとしていたのである。

 雪が降れば、北陸の勝家は檻に閉じ込められる。

 その間に、残されたバグを一つずつ消去していく——。

 

「筑前(秀吉)殿。……いよいよ、仕上げの時でございます。」

 

 官兵衛の冷徹な呟きが、秋の乾いた風に消えた。

 清須会議から半年。降り積もる雪の下で、次の巨大な戦火、賤ヶ岳の戦いが、その産声を上げようとしていた。

 最後までお読みいただきありがとうございます。

 清須会議といえば、『三法師を抱き上げた秀吉のパフォーマンス』が有名ですがこの話は今や後世の創作という説が濃厚です。そこで今作で最新の研究をベースに描きました。

 官兵衛の知略によって『織田家を畳まされた』勝家。官兵衛の言葉通り、彼に遺された道はもう『刀を抜くこと』しかありません。

 次話は勝家の最期を飾る『賤ヶ岳の戦い』へと物語は進んでいきます。

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