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第五話 羽柴秀吉

 ご愛読ありがとうございます。

 第五話の舞台は、羽柴秀吉の陣。播磨の命運を左右する二人のシーンと絆の象徴である名刀、圧切長谷部を巡るエピソードを描きます。

 官兵衛が死地へ向かう決意を固める、物語の大きな転換点です。どうぞお楽しみください。

 官兵衛がたどり着いた羽柴の陣は、深夜とは思えぬほどの熱気に包まれていた。

 雨に濡れた軍旗が風に煽られて激しく音を立て、至る所で焚かれた篝火(かがりび)が、闇夜を黄金色に染め上げている。御着(ごちゃく)城の淀んだ空気とは違う、ここには『戦い、勝ち進む』という明確な意思が脈打っている。


 陣幕(じんまく)の奥、秀吉が座る一角には、数多の地図が広げられ、筆を走らせた跡が生々しい。

 秀吉の背後には、彼のトレードマークである『千成瓢箪(せんなりびょうたん)』の旗印が、湿り気を帯びながらも誇らしげに掲げられていた。その場にいるだけで肌がチリつくような、底抜けに明るく、それでいて鋭い緊張感。それが羽柴秀吉という男の纏う空気であった。


 篝火に照らされた秀吉の横顔を見ながら、官兵衛はふと、三年前の岐阜城を思い出していた。

 

 天正三年(1575年)、官兵衛は主君、小寺政職の使者として織田信長に謁見(えっけん)した。この時、信長への取次(仲介役)を務めたのが羽柴秀吉だった。


 官兵衛はその時、電撃が走るような感覚を覚えたのを今でも鮮明に覚えている。自身が理知的で冷徹な軍略家であったのに対し、相手の(ふところ)に飛び込み、敵さえも味方に変えてしまう秀吉のスタイルに、自分にはない『天下人の資質』を感じたからである。


 その後信長から播磨攻略を任された秀吉が現地に入った時、官兵衛は自らの居城である姫路城を秀吉の本陣として惜しみなく提供した。


 「筑前(ちくぜん)(秀吉)殿、夜の評定に遅れましたること、平にご容赦願いまする。つい先刻(さっき)まで、我が主君、加賀(小寺)殿と話し込んどりまして。これほど時が経っておるとは露ほども思わず、不覚にございまする。」


 秀吉は官兵衛の泥だらけの姿を見るなり、自らの羽織(はおり)を脱いで官兵衛の肩にかけた。

 

 「おお!よう来た、官兵衛。待っておったぞ!わしはてっきり(てる)殿と盃でも交わして、子作りにでも励んでおると思うとったわ!がははは!」

 

 形式や礼儀を飛び越えて懐に入り込んでくる。この強引なまでの温かさ。

 初めて岐阜城で会った時もそうだった。信長という鋭利な刃物の(かたわ)らで、この男だけは太陽のように笑い、新参者(しんざんもの)の官兵衛を『兄弟』と呼んでのけたのだ。


 官兵衛は、腰に差した一振りの感触を確かめた。名刀、圧切長谷部(へしきりはせべ)

 三年前、岐阜城にて織田信長に謁見した折、播磨攻略の献策を高く評価した信長から、その場で直接賜った至宝である。

 だが、その拝領の瞬間、官兵衛の全身を貫いたのは歓喜ではなく、凍り付くような戦慄であった。

 信長は官兵衛の眼の奥にある、底知れぬ知略の深淵を見抜いていた。自分をも凌駕しかねないその才を「恐れた」のだ。

 膳棚の下に隠れた茶坊主を棚ごと『押し切って』成敗したというこの刀。それを授けることで、信長は無言の宣告を突きつけたのである。

 ――もし一歩でも道を違えれば、どこへ逃げようとこの長谷部が貴様の息の根を止める。

 官兵衛はそれを瞬時に悟った。以来、この刀の重みは、官兵衛にとって常に自分の首筋に添えられた信長の刃そのものであった。

 

 官兵衛は意を決して言葉を発した。

 

 「筑前(ちくぜん)(秀吉)殿、恐れながら申し上げまする!今、荒木を敵に回せば、(わら)ら播磨の軍勢は全滅を(まぬが)れませぬ!」


 火急(かきゅう)の件と知った秀吉は、猿のように緩めた顔を真顔に戻した。


 「おう、わかっとる、わかっとる……。実を言えばのう、わしも今ちょうど、そのことを考えておったところよ。」


 官兵衛は続けた。

 

 「もしそうなれば、前に別所、後ろに荒木、さらには南の海より毛利の村上水軍が押し寄せて参ります。

 これでは我が軍は完全に逃げ場を失うた、『袋の(ねずみ)』も同然にござります。


 されど、摂津(荒木)殿はこの官兵衛が(いにしえ)より深く相知(あいでし)御仁(ごじん)。この官兵衛が直接参って説き伏せれば、思い留まる余地は十二分にありまする!

 どうか、この官兵衛に有岡行きをお許しつかあさい!織田の御代(みよ)のため、この命、賭して参る所存にござります!既に我が主君、加賀(小寺)殿は得心(とくしん)させておりまする!」


 秀吉は官兵衛の覚悟を目の当たりにし、しばらく目を閉じた。

 わずかな時が流れた後、いつもの精力の漲った表情に戻し、官兵衛に応えた。

 

 「あい分かった!官兵衛、おみゃあの覚悟、確かに受け止めたわ。ええか、摂津(荒木)殿をなんとしても説き伏せてこい。おみゃあだけが頼りだがや。されど、決して無体な真似はするなよ。必ず、生きて戻ってこにゃあかんぞ。祈っとるがや!」

 

 秀吉の言葉はいつも温かい。主君としての命令以上の、友としての切実な響きがあった。損得勘定で動く播磨の国衆(くにしゅう)たちとは、器の大きさが違う。官兵衛が下がろうとして一礼をした後、秀吉に背を向けた時、秀吉が官兵衛を呼び止めた。

 

 「ああ官兵衛、待て!」

 

 秀吉は官兵衛に歩み寄り、その腰に差された長谷部の鞘を、無造作に、だが親しみを込めてポンと叩いた。

 

「忘れるなよ、官兵衛。その刀の切れ味は、おみゃあの知略と同じだぎゃ。上様から頂いたその魂が、必ずやおみゃあの身を守る。わしの代わりに、こいつがおみゃあの傍らで戦を共にしてくれるはずだがや!」

 

 秀吉は分かっていたのだ。官兵衛がこの刀を『信長からの死の宣告』として帯び続け、その恐怖に独り耐えてきたことを。だからこそ秀吉は、あえてその呪いを、官兵衛を救うための『光』へと塗り替えて見せたのである。

 

 官兵衛は深く(こうべ)を垂れた。冷たい雨に打たれて強張っていた背筋が、秀吉の言葉という熱を帯びて、ようやく戦う男のそれへと戻っていく。

 信長の影に怯える軍師ではなく、秀吉の光を支える軍師として生きる。官兵衛は、この男のためなら、この刀を振るい、己の知略をすべて捧げても惜しくはないと改めて確信した。

 秀吉は官兵衛の肩を一度、強く、痛いほどに叩いた。

 

 「ええか官兵衛、これは賭けではない。おみゃあが戻ってくる場所を、わしがここで守り抜くという約束だぎゃ……。行けい!」

 

 秀吉の瞳には、友を死地へ送る苦渋と、それを上回る信頼の炎が静かに燃えていた。官兵衛は無言で、だがその手に握られた長谷部の感触を噛み締めるように拳を固めた。

 冷たい雨が顔を叩くが、不思議と寒さは感じない。この男が背中を守ってくれるという確信が、官兵衛の全身を焦がすような熱気で満たしていた。

 

 「はっ! かたじけなき御意、ありがたき幸せに存じまする!」

 

 官兵衛の眼にはある種の『覚悟』が宿っていた。たとえこの先に何が待ち受けていようとも、この長谷部が差されている限り、自分は独りではない。官兵衛は深く一礼し、闇夜の中へとその身を躍らせた。

 とにもかくにもこれで有岡城へ赴くことが決まった。

 これが、官兵衛にとって一年近くに及ぶ『地獄』への入り口になるとは、この時の秀吉も、そして官兵衛自身も知る由がなかった。ただ、遠ざかる馬蹄の音を聞きながら、秀吉だけはいつまでも、その冷たい雨の中に立ち続けていた。

 第五話をお読みいただきありがとうございました!

 秀吉の底抜けな明るさと、官兵衛の静かな覚悟。対照的な二人の信頼関係を、名刀に託して描いてみました。圧切長谷部の逸話は幾つかありますが、今回は一つの説に絞って描写しました。


 しかし、ラストの一行にある通り、この決断が官兵衛を未曾有の苦難へと導くことになります。

 次回、第六話。官兵衛が心の師と仰ぐ『あの男』が登場します。

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