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第四十八話 大返し(後編)

 『仇討ち』という大義名分を掲げ、秀吉は異形の姿へと変貌を遂げます。

 濁流のごとき勢いで山崎へと迫る羽柴軍の影で、すべての糸を引く男がいました。

 『中国大返し』がついに完遂。運命の天王山を前に、歴史の歯車は誰の手によって回されているのか。

 天正十年、六月十一日。

 姫路で黄金による『再点火』を遂げた羽柴軍は、まさに火の付いた(つぶて)のごとく突き進んだ。兵庫を駆け抜け、軍が尼崎に至ったとき、秀吉は全軍に一時停止を命じた。

 

 街道沿いにある古刹(こさつ)の奥まった一室。窓の外では止むことのない梅雨の雨が、竹林を激しく叩いている。

 

 「始めろ……。」

 

 秀吉の短い言葉に応じ、控えていた近習が鋭く研ぎ澄まされた剃刀を当てた。

 

 髭を剃るような乾いた音が静寂の中に響く……。

 

 床に落ちていくのは、これまで秀吉が織田家の宿老として、あるいは一国の主として整えてきた(もとどり)である。鏡の中の己を見つめる秀吉の瞳は、もはや濁りのない、冷徹な復讐者のそれであった。

 主君、信長への弔い。そして、仇敵、明智光秀を討ち果たさぬ限りは人間に戻らぬという、凄まじい決別の儀式であった。

 

 剃り上げられた頭を手の平でなぞり、秀吉は立ち上がった。その場に居合わせた官兵衛や小一郎すら、一瞬息を呑むほどの覇気が、僧形の秀吉から溢れ出していた。


 秀吉が尼崎で髪を剃ったという報せは、すぐさま近隣の諸将に伝わった。

 当時、摂津の大名であった高山右近と中川清秀は、究極の選択を迫られていた。

 光秀からは『味方すれば摂津一国を与える』との誘いがあり、一方で秀吉からは『信長公は生存している』という、真偽の定かではない、しかし無視もできない書状が届いている。

 

 「右近殿、どう見る。羽柴は本当に来ると思うか。備中からここまで、常人なら十日はかかる道ぞ。」

 

 中川清秀が不安げに問いかけたその時、尼崎から使者が駆け込んできた。

 

 「羽柴筑前守(秀吉)様、二万の軍勢とともに尼崎に到着! 既に剃髪(ていはつ)なさり、不退転(ふたいてん)の覚悟にてこれより光秀を討ちに参る!」

 

 右近と清秀は、顔を見合わせた。物理的に不可能なはずの速度で、秀吉は目の前に現れたのだ。二人は戦慄を覚えながら、尼崎の本陣へと急いだ。

 

 対面した秀吉は、泥にまみれた具足を着けたまま、青々と剃り上げた頭を晒していた。その目は血走っており、何かに取り憑かれたような異様な熱を帯びている。

 

 「右近殿、瀬兵衛(せびょうえ)清秀(きよひで))。よう……よう、味方しに来てちょうだりゃあした。わしは嬉しいがや。瀬兵衛(せびょうえ)清秀(きよひで))、おみゃあ、息災(そくさい)にゃあか。久しぶりだて、そのツラ拝めるのを待っとったんだがや!」

 

 秀吉はそう言って微笑んだが、その目は青々と剃り上げた頭と同様、冷たく光り、二人を射抜いていた。中川清秀は照れ臭そうに昔馴染みならではの軽口で返した。


 「お主の泣き言を聞きに来てやったわい。」


 その言葉で少し場が和んだが、すぐ緊張感は戻った。

 右近らは、書状にあった『生存』という言葉と、目の前の『剃り落とされた頭』という矛盾に、一瞬言葉を失った。だが、秀吉の双眸(そうぼう)に宿る異様な熱気は、その疑問を口にすることすら許さぬほどの凄みに満ちていた。

 

 「上様は膳所(ぜぜ)でわしらの到着を待っておられる。光秀の首を差し出すのが一日遅れれば、それは不忠の極み。……わしと一緒に、地獄の先まで付き合ってもらいますぞ。」

 

 信長が生きているか、死んでいるか。

 その事実よりも、目の前にいる、この『狂気』を纏った男に従わなければ、自分たちは今ここで踏み潰される。

 

 「は!高山右近、中川瀬兵衛(せびょうえ)清秀(きよひで))。これより羽柴殿に従い、逆臣、明智を討ち果たしまする!」

 

 摂津の二大勢力が屈した瞬間であった。これにより、光秀の『摂津包囲網』の野望は、戦わずして崩壊した。


 六月十二日。

 軍勢は富田(とんだ)の地に集結した。摂津諸将の合流により、羽柴軍の数は三万を超えていた。そこで秀吉を待っていたのは、信長の三男、神戸信孝(かんべのぶたか)と、織田家の重臣、丹羽長秀であった。

 

 信孝は四国征伐の総大将であったが、本能寺の変直後に兵が逃げ出し、わずかな手勢で孤立していた。そこへ、土煙を上げて現れたのは、数日前まで中国地方にいたはずの秀吉の大軍である。

 

 「筑前(秀吉)……。誠に筑前であるか……?」

 

 呆然と立ち尽くす信孝の前に、秀吉は馬から飛び降りるなり平伏した。見れば、信孝の頭もまた、秀吉の文に応じるように青々と剃り上げられていた。父を失った悲しみと、秀吉の大軍を目の当たりにした安堵が混じり、信孝の肩が微かに震えていた。

 

 「若君! よくぞ、よくぞご無事で! そのお姿……まさに亡き上様への至誠、この秀吉、感涙にむせんでおりまする。これからは、若君こそが我ら織田家の総大将にござりまする!」

 

 秀吉の言葉に、信孝は少し安堵したような表情を浮かべた。しかし、その後の秀吉の振る舞いは、主君を敬うそれとは似て非なるものであった。

 

 「筑前(秀吉)、父上の仇を討つのは……余じゃ。余が陣頭に立つ……。」

 

 信孝の言葉に、秀吉は顔を上げず、しかし断固とした口調で応えた。

 

 「若君ッ! 今は一刻を争う時にございます! 若君は織田の血を引く尊きお方。戦場の泥にまみれるは我らのような卑しき者の役目にございます。」

 

 「待て、筑前(秀吉)……。軍の差配(さはい)は余が――」

 

 信孝が言葉を重ねようとするが、秀吉はそれを強引に遮った。

 

 「若君はただ、本陣にて盤石(ばんじゃく)に構え、天下にその正義を知らしめておれば良いのです! 光秀の首、この秀吉が必ずやお手元に届けましょう……。それとも、この秀吉の忠義が信じられぬとおっしゃるか!」

 

 秀吉の背後に控える二万の兵から、地鳴りのような勝鬨が上がった。信孝は、その圧力に一歩後ずさった。名目上は信孝が総大将だが、実権は完全に秀吉の手に移っていた。

 傍らで見ていた丹羽長秀は、静かに溜息をついた。

 

 (織田の家は、もうこの男のものか……)

 

 長秀は秀吉の手を固く握った。

 

 「筑前(秀吉)、頼むぞ!」

 

 格上であったはずの長秀が、いまや秀吉にすがるしかなかった。


 軍勢はついに四万へと膨れ上がった。軍議の席、官兵衛は山崎の地図を広げた。

 

 「敵は山崎の難所に陣を張っておりまする。天王山(てんのうざん)を抑えた者が、この戦を制す……。殿、勝負は明日……。一気に決着をつけましょうぞ!」

 

 富田(とんだ)の野を埋め尽くす四万の軍勢。その一つ一つの篝火(かがりび)が、闇夜を昼間に変えていた。兵たちは姫路で分け与えられた黄金を握りしめ、あるいは家族の顔を思い浮かべながら、明日の死闘に備えて槍を研いでいた。

 

 秀吉は一人、陣幕の外に出て、雨上がりの夜空を見上げた。遠く、山崎の向こうには、光秀の陣火が微かに揺れている。

 

 「上様……。見ていてちょうよ。明日、上様を殺した男を、わしがこの手で八つ裂きにしてやるがや……。」

 

 名古屋弁の混じった秀吉の独り言は、湿った風に乗って消えた。

 本当の黒幕は秀吉が最も信頼している官兵衛であるという驚愕の事実を秀吉は知る由も無かった。


 時を同じくして細川親子からも官兵衛の指示に従う旨の書状が官兵衛の元に届いていた。


 (兵部大輔(ひょうぶのたゆう)(細川)殿、賢明なるご判断。

 明智殿がいくら文を(したた)めても、兵部大輔(ひょうぶのたゆう)(細川)殿から返り血一滴ほどの返事も届かぬ絶望……。

 それが、わしが贈った明智殿への最大の『毒』にござる……。

 信頼した友に黙殺され、頼りにした羽柴が『討伐軍』として目の前に現れた時、明智殿はどのような顔をされるかな……。)

 

 中国大返し、完遂。

 時代が、音を立てて秀吉という一人の男を中心に回り始めた。

 秀吉の激越なエネルギーに圧倒される一方で、『真の黒幕』の存在が、物語を単なる復讐劇から壮大な知的サスペンスへと昇華させています。

 秀吉は己の野心で動いているのか、それとも官兵衛の掌の上で踊らされているのか……。

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