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第四十七話 大返し(前編)

 本能寺の変が勃発してから、毛利との和睦、高松城主、清水宗治の切腹までわずか3日間で世の中は激動の変化を遂げ、秀吉は『忠臣』から『天下の簒奪者』へと変貌しました。


 歴史に名高い『中国大返し』。

 泥濘を賭け、海を越え、空前絶後の強行軍が今、幕を開けます。

 備中高松、雨。

 静寂を切り裂くような怒号が四方から沸き起こった。清水宗治の切腹を見届けた直後、羽柴軍の本陣は嵐のような慌ただしさに包まれていた。

 

「全軍、一刻も早くこの泥濘(ぬかるみ)を抜けよ! 重装備はすべて船に積め!」

 

 秀吉の号令が飛ぶ。水攻めのために築かれた広大な堤防のそばには、徴用された無数の軍船や民船が、荒い波に揺られながらひしめき合っていた。兵たちは泥に足を取られ、文字通り這いつくばりながら、鉄砲の長持ちや重い弾薬箱、巨大な攻城兵器を次々と船へと運び込んでいく。

 

 「(おか)を行く者は身軽になれ! 武器は槍一本、食い物は腰の兵糧丸(ひょうろうがん)だけでよい! 瀬戸内の風を借り、荷よりも早く姫路へ駆け込むぞ!」

 

 海路で物資を送り、陸路の将兵を羽毛のごとく軽くする。この陸海を併用した合理的な使い分けこそが、後に『奇跡』と呼ばれる行軍速度を支える生命線となることを、この時の兵たちはまだ知らない。ただ、秀吉の殺気立った焦燥に突き動かされるように、数万の男たちは泥まみれになって東へと走り始めた。


 その日の暮れ、叩きつけるような雨に打たれる本陣の一角で、秀吉は黒田官兵衛と対峙していた。外では行軍を急ぐ兵たちの足音、鎧の擦れる音、そして泥を跳ね上げる馬のいななきが、地鳴りのように絶え間なく響いている。

 

 「官兵衛……。おみゃあ、確かなんか?光秀は、本当に上様の首を獲っとらんのか?」

 

 秀吉の声は低く、湿っていた。その瞳には、主君を失った衝撃と、一歩間違えれば自分が滅ぼされるという恐怖、そしてその先にちらつく巨大な好機への野心が混濁している。

 

 官兵衛は自ら放った潜龍を使って本能寺の焼け跡から密かに遺体を運び出させていた。光秀がどれほど血眼になって灰を掘り返そうとも、信長の首が出ることは断じてないのである。しかし、官兵衛はその事実を口にせず、ただ『情報の断片』として秀吉に提示した。

 

 「間違いございませぬ。(それがし)が放った草(忍者)の(しら)せによれば、本能寺の焼け跡からはそれらしき遺体は上がらず、光秀は今も血眼になって京を捜索中とのこと。奴が首を(さら)さぬのは、道理を重んじるからではございませぬ……。単に、手に入れておらぬのです。」

 

 秀吉は一瞬、鋭い目で官兵衛を射抜いた。官兵衛が何かを隠している。あるいは、自分が想像も及ばぬ深い闇を抱えている。そんな予感はあったが、秀吉はそれを飲み込んだ。官兵衛が差し出した『首がない』という事実は、この状況において最強の武器となるからだ。

 

 「ほうか……。首がにゃあか。光秀の野郎、詰めが甘かったな。上様の最期まで計算できんかったか……。」

 

 秀吉の口角が吊り上がる。信長を失った『悲劇の家臣』の顔は()げ落ち、そこには天下という獲物を(にら)む一匹の獣がいた。

 

 「官兵衛。首がないんなら、上様は生きておられる。そう決めたわ。証拠がないなら、わしの言うことが真実になる。光秀が何を言おうと、首を見せにゃあ限りはわしらの勝ちだ……。これが『天下』の勝負だて!」

 

 秀吉は即座に筆を執り、摂津諸将へ向けた偽報の書状を書き殴った。一筆ごとに力がこもり、紙が裂けんばかりである。それは、まだ混乱の渦中にあり、どちらの陣営に付くべきか天秤にかけている高山右近や中川清秀らへの、冷酷かつ鮮やかな調略であった。

 

 『急ぎ申し届ける。

 去る二日、京において明智十兵衛(光秀)が謀反を起こしたとのこと、驚き入る次第である。

 しかし、案ずるに及ばず。上様は幸いにも本能寺を切り抜けられ、無事にご脱出あそばされた。現在は近江国、膳所(ぜぜ)のあたりにて英気を養っておられるとの確かな(しら)せを得ている。

 我ら羽柴軍は、すでに毛利と和睦を成し、この日のうちに備中を撤兵、昼夜を分かたず京へと駆け戻る。数日のうちには摂津へ入り、逆臣、明智を一人残らず成敗する所存である。

 貴殿におかれては、ゆめゆめ光秀の甘言(かんげん)に乗せられること無きよう。我らと力を合わせ、上様への忠義を尽くされるべし。この機を逃さず味方に参ずるならば、後日の恩賞は思いのままである。

 恐々謹言。

 六月五日

               羽柴 筑前守 秀吉(花押)』


 

 『上様は生存している――。』

 この『生きた嘘』は、光秀への忠誠を迷う諸将にとって、何よりの毒、そして蜘蛛(くも)の糸のような救いとなった。この一通の紙が、数万の軍勢の行方を左右することになる。


 六月七日。備中から姫路まで、十八里(約七十キロ)におよぶ死の行軍。兵たちは不眠不休で走り続け、ついに本拠、姫路城の白壁を視界に捉えた。

 門をくぐった兵たちは、もはや人間には見えなかった。全身を乾いた泥が覆い、眼窩(がんか)は窪み、幽鬼(ゆうき)のような形相である。ある者は門をくぐった瞬間に糸が切れたように膝から崩れ落ち、ある者は喉の渇きに耐えかねて馬の飲み水に顔を突っ込んだ。

 

 「官兵衛、小一郎、小六、佐吉(石田三成)らも……。ようここまで……よう戻ってきたがや!」

 

 秀吉は、城内を埋め尽くす兵たちの無残な疲弊ぶりに声を震わせた。

 

 「だが、兵たちはもう足が棒だて。爪は剥がれ、一歩も歩けぬ者ばかりだ。ここで三日、四日と休ませねば、とても戦にならんわ……。」

 

 しかし、官兵衛の瞳は氷のように冷たかった。


 「殿、それはなりませぬ。一日の休みは光秀への十日の猶予。今すぐ城の蔵をすべて開きなされ。金も米も、兵一人ひとりに掴めるだけ掴ませるのです。そして触れ回るのです。『この金は、光秀を討つための軍資金にあらず。殿が天下を獲るための祝い金である』と!」

 

 秀吉の弟、小一郎(長秀)も、兄の肩を強く掴み、その狂気に同調した。

 

 「兄者、官兵衛殿の言う通りだわ。金で釣るのではにゃあ、夢を見せるんだがや。兄者と一緒に天下の扉を開く『仲間』だと、末端の足軽にまで思わせるんだがや。そうなれば、骨の折れる音すら聞こえんようになりますわ。」

 

 秀吉は、自らの分身とも言える二人の顔を交互に見て、やがて腹の底から絞り出すような笑い声を上げた。

 

 「がはは! おみゃあら、えげつにゃあこと言うなぁ。だが、それが一番効くわ……。よし、蔵の鍵をすべて壊せ! 錠前を外す時間すら惜しいわッ! 兵たちに『明日からはおみゃあら全員が天下人の家来だ』と言ってやるわ!」


 蔵の扉が叩き壊されると、中から冷え切った空気と共に、鈍く光る金銀と古びた銅銭の、重苦しい金属の匂いが溢れ出した。

 秀吉は自ら柄杓(ひしゃく)を手にし、山積みの貨幣を、泥にまみれた兵たちの掌へ無造作に放り込んでいく。

 

「おみゃあらの命、わしがこの金で買い取ったがや! 冥土への土産にするか、天下の礎にするか、好きな方を選べ!」

 

 兵たちは、剥がれた爪で硬貨を握りしめ、ジャラリと鳴るその重みに野獣のような咆哮を上げた。空腹も疲労も、掌に伝わる冷たい輝きの前に蒸発していく。

 その夜、姫路城は黄金の眩い光と、形容しがたい狂乱に包まれた。

 極限まで疲れ果てていたはずの軍勢は、以前よりも遥かに凶暴で、命を惜しまぬ宗教的集団へと姿を変えていた。

 

 海路で届いた重装備も合流し、兵たちは黄金を懐に、新たな槍を握りしめる。城下を埋め尽くす数万の松明の炎が、秀吉の燃え盛る野心を赤々と照らし出していた。

 最後までお読みいただきありがとうございます。

 『中国大返し』は単なる移動の記録ではありません。そこには、秀吉の底知れぬ『人たらし』の才と、官兵衛の冷徹なまでの情報戦がありました。

 特に、光秀が信長の首を見つけていないという事実を『上様生存』という偽報にすり替えた秀吉の機転は、後の天下取りを決定づけた『生きた嘘』と言えるでしょう。

 次回、第四十八話(後編)では尼崎にて摂津の諸将を震撼させた秀吉の圧倒的な覚悟を描きます。

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