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第四十六話 清水宗治

 備中高松城、水攻め。

 降り続いた雨が上がり、静まり返った湖上で、一つの命が歴史を動かそうとしていました。

 城主、清水宗治の切腹。それは敗北の儀式ではなく、数千の命を救い、そして羽柴秀吉を天下人へと押し上げる『号砲』でもありました。

 武士の誇りが光輝く瞬間と、その裏で冷徹に『次なる一手』を放つ官兵衛の姿を描きます。

 天正十年、六月四日。巳の刻。

 降り続いた雨は上がり、備中高松城を取り囲む人工の湖は、鏡のように静まり返っていた。

 城壁を洗う泥水の濁りさえも、今日この時ばかりは神聖な儀式を前に、沈黙を守っているかのようであった。


 そう、戦国史上、屈指の場面として名高い『切腹の儀』である。

 

 高松城の門が重々しく開き、一艘の小舟がゆっくりと漕ぎ出された。

 舟の中央には、白装束に身を包んだ一人の武士が座している。備中高松城主、清水宗治である。

 その表情には、死を目前にした者の怯えなど微塵もなく、ただただ澄み渡った秋の空のような静謐さがあった。

 

 堤防の上、羽柴軍の本陣。

 秀吉は、拳が白くなるほど膝を握りしめ、その舟を凝視していた。

 隣に立つ官兵衛は、微動だにせず、水面に浮かぶ一葉の舟を『時間』という名の砂時計として見つめていた。

 

 「官兵衛……あのような男を、死なせねばならぬのか……。」

 

 秀吉が絞り出すような声で漏らした。官兵衛は瞬きもせず、ただ静かに、敬意を込めて言った。


 「清水殿は、己の命に城兵の命すべてを乗せ、武士(もののふ)の極みを歩もうとされております。今はただ、あの御仁の最期を、一瞬たりとも逸らさず見届けることこそが、我らの務めにござります。」


 舟は湖の中央で止まった。宗治は、秀吉から事前に贈られた酒肴を静かに口にし、最期の宴を終えた。


 宗治は、膝に置いた杯を名残惜しそうに眺めた後、それを湖へと沈めた。波紋がゆっくりと広がり、静寂がいっそう深まる。

 彼は立ち上がり、堤防を埋め尽くす羽柴軍二万、そして城壁で見守る我が部下たちに向かって、朗々と声を張り上げた。

 

 「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して……」

 

 その声は、湖面を渡り、両軍の兵士たちの心に深く突き刺さった。宗治は、自らの死が『敗北』ではなく、毛利の家名と数千の城兵を守るための『勝利』であることを、その身を以て示そうとしていた。

 

 「筑前(秀吉)殿! 黒田殿! この宗治の命ひとつで、城兵と毛利の家名が救われるならば、これに勝る喜びはございませぬ! お主らとここまで戦えたことこそ……武士(もののふ)としての誇り……。いざ、見届けられたい!」


 宗治は、秀吉から贈られた名酒を最後の一滴まで飲み干すと、ふっと穏やかな微笑みを浮かべた。その眼差しは、遠く三河や京の空ではなく、目の前の泥にまみれた高松の城壁、そして共に戦ってきた兵たちの姿を愛おしむように捉えていた。

 

 この時、堤防を埋め尽くす二万の羽柴軍、そして城壁の毛利勢、合わせて数万の人間が息を止めた。風さえも止まったかのような、恐ろしいほどの静寂。

 

 彼は白装束の襟を正し、静かに短刀を抜き放つ。陽光を跳ね返す刃の輝きが、水面に一筋の光の道を刻んだ。

 

 「毛利の安泰と、諸兵(しょへい)の命。これにて相成った……。さらば!」

 

 宗治は置かれた短刀を手に取ると、一切の迷いなく腹に突き立てた。一文字に切り裂くその手並みに、敵味方の区別なく、全軍から


 「おお……」


 という地鳴りのような溜息が漏れた。

 苦悶の表情を一切見せず、ただ一点を見据えて腹を切る。その姿は、凄絶なほどに美しかった。

 介錯人の刀が天を指し、一閃(いっせん)

 宗治の首が湖上を舞い、朱色の血が水面を叩いた瞬間に、高松の地を支配していた重苦しい緊張が、一気に弾けた。

 

 「見事だわ。清水宗治、敵ながら天晴(あっぱ)れな武士(もののふ)だて……。」

 

 秀吉は、溢れそうになる涙を堪え呟いた。

 

 「官兵衛、これにて和睦は成ったんか?」

 

 官兵衛は無言で、宗治の舟に向かって深く、一度だけ(こうべ)を垂れた。それは敵対した勇者への、彼なりの最大の礼であった。

 顔を上げた時、その瞳から感傷は消え、代わりに鋭い光が宿っていた。彼はすでに、首級の検分を終えた使者がこちらへ向かうのを確認していた。


 「は!清水殿の首級を検分し、和睦の誓紙を交わした今、毛利はもはや動けませぬ……。清水殿が命を懸けて作ってくれたこの『一刻』。一瞬たりとも無駄にはできませぬ!」

 

 秀吉の目に、野心の火が灯った。彼はパッと表情を変え、立ち上がると、全軍に響き渡る声で怒号を発した。

 

 「分かっとるわ、官兵衛! 全軍に伝えろ! 旗を伏せ、音を殺せ! 毛利の連中が気づいた時には、わしらはもう姫路におるっちゅう寸寸(すんずん)で駆け抜けるんだがや! 行くぞ! 仇討ちの大博打、一番乗りするのはわしら羽柴だがや!」


 官兵衛は不敵な微笑を浮かべた。

 

 「御意。小一郎(長秀)殿が整えた『王道』、全軍、風となって駆け抜けましょうぞ!」

 

 官兵衛は、混乱を避けるための最終指示をまくし立てた。

 

 「まず健脚の者数名を先に走らせ、各地の諸将に『筑前(秀吉)様、これより京へ向け上洛なり!』と触れ回らせましょう。

 後から続く二万の足音が地響きとなれば、光秀に付こうとする者たちの心は折れ、尼崎に着く頃には、我らは四万の巨象となっておりましょうぞ!」

 

 官兵衛は、陣を駆け巡る小一郎(長秀)のもとへ向かった。

 小一郎(長秀)は、兵糧の積み込みと道の最終点検に追われていた。

 

 「小一郎(長秀)殿。此度(こたび)あの道は、殿を京へ一刻も早く送り届けるための、天下取りの滑走路となった……。小一郎(長秀)殿、今すぐ全軍に触れを出しなされ。これより京へ向け、風となって駆け戻る!」

 

 小一郎(長秀)は息を呑んだ。官兵衛の鋭すぎる眼光に、彼がこの事態を『予見』していたのではないかという疑念が脳裏をかすめた。

 

 「お主は、最初からこうなることを……。万が一の事態が起き、我らがこの備中で孤立した時のことを考えて、わしにあの道を整備させたのだな。……恐ろしい男よ。」


 「軍配者として最悪を期したまでよ。」


 官兵衛は不敵に笑った。

 

 「なれど、小一郎(長秀)殿が見事に道を整えてくれたおかげで、我が羽柴軍二万、一刻の滞りもなく姫路まで駆け抜けることが叶う。殿は先陣を切って走られる。

 小一郎(長秀)殿は安心(あんじん)宇喜多忠家(うきたただいえ))殿をもって|殿(しんがり)を固め、道中の炊き出しと松明の準備を最終確認してくだされ。兵を一人たりとも道迷いで失うてはなりませぬぞ!」


 小一郎(長秀)は覚悟を決め、力強く頷いた。

 

 「分かった。兄者の天下への道、わしが命に代えても守り抜いてみせよう。官兵衛殿、お主の描いた『絵図』、最後まで付き合わせてもらうがや。行くぞ!」

 

 小一郎(長秀)が走り出した後、官兵衛は一瞬だけ足を止め、懐に忍ばせた竹中半兵衛の軍配に触れた。

漆の冷たさが、興奮しきった指先に心地よい。


 (半兵衛殿。お主が描いた『新しき世』は、もう目の前ですぞ。この官兵衛の命、今こそ最も美しく燃やす時……。見ていてくだされ……。)

 

 官兵衛は空を見上げた。夕闇が迫る中、西の空には一筋の稲妻が走った。

 それは、時代の終わりと、血塗られた新時代の幕開けを告げる閃光であった。

 

 「全軍、突っ走れ!」

 

 黒田官兵衛の号令と共に、二万の兵が、一筋の黒き龍となって京の空を目指し始めた。


 最後までお読みいただきありがとうございます。

 清水宗治の切腹は、当時の武士たちに多大な衝撃を与え、後の『切腹』の作法の規範になったとも言われています。

 本作では、その壮絶な美しさを描きつつ、官兵衛がその死を『中国大返し』のための決定的な時間稼ぎをとして利用する軍師としての『業』を強調しました。

 いよいよ次話、二万の軍勢が『風』となる日本史上最大の強行軍が始まります。

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