第四十五話 死線の和睦
歴史の歯車は、深夜の静寂の中で、二人の男によって回されました。
信長の死。そのあまりにも巨大な『情報の空白』を黒田官兵衛は瞬時に『最強の武器』へと変えます。
対するは、毛利の未来を背負う階層、安国寺恵瓊。
天下の命運が、今、たった二人の掌の上で決しようとしていました。
深夜の備中高松、羽柴の陣。
遠くで聞こえる蛙の鳴き声と、高松城を囲む沼水の波音だけが静寂を支配していた。
官兵衛は、天幕の中に安国寺恵瓊を呼び出していた。火桶の中で爆ぜる炭の音すら、鋭い刃物のように空気を切り裂く。
官兵衛は、茶を差し出すこともなく、闇の中から恵瓊の目を真っ向から射抜いた。
「恵瓊殿……単刀直入に申す。京にて明智光秀が謀反を起こし、信長公は本能寺にて討たれた。織田の代は終わった。これは我が間者が、命を削り、誰よりも早く持ち帰った確かな報せよ……。」
恵瓊は目を見開き、数瞬の間、呼吸を忘れたかのように絶句した。
「信じられぬ……。」
ようやく絞り出した声は、かすかに震えていた。
「黒田殿、それはまことか。もしや、和睦の条件を強引に呑ませるための、狂言では……。いや、じゃが……。貴殿のその眼、嘘を吐いているようには見えぬ……。」
恵瓊は、官兵衛が以前、『京に雷が落ちる』と仄めかしていた不吉な予言を思い出した。あの時、官兵衛が予見していた『雷』は、今、まさに京に落ちたのだ。
恵瓊の背中に冷たい汗が伝う。彼は、目の前の男の瞳の奥にある、底知れぬ暗淵を覗き込んだ気がした。
「もしや貴殿……。この事態が起きるのを、前から知っていたのではあるまいな? 筑前(秀吉)殿を天下の座へ押し上げるため、貴殿が裏で手を引き、この『好機』を画策したのでは……。」
官兵衛は不敵に、鼻で低く笑った。
「買い被りすぎにござる。わしは神ではござらぬ。ただ、時代という名の大きな風を、誰よりも早く掴んだに過ぎぬ……。恵瓊殿……今、大事なのはその猜疑心ではござらぬ。良いか。『上様の死を知っているのは、今この場ではわしとお主だけ』という、この残酷な事実よ……。」
官兵衛はさらに身を乗り出し、恵瓊の意識を絡め取るように続けた。
「もし明日、毛利の本隊にこのことが知れ渡ればどうなる? 毛利軍はここぞとばかりに我が軍を追撃するであろう。なれど、その隙に明智が京で天下を固めれば、毛利は『逆臣に加担した者』として、次に織田の残党に明智諸共、滅ぼされる運命にある。わしに敗れるか、時代に殺されるか……その二択よ。」
恵瓊は官兵衛を睨み据え、自らの動揺を抑え込むように声を張った。
「つまり、毛利が事の仔細を掴む前に、今すぐこの場で判をつけと言うのじゃな。だが、信長公は『五カ国を差し出せ』と仰せであったはず。そのような屈辱的な条件、今さら呑めるはずがなかろう……。」
「だからこそ、条件を緩めよう。わしの独断でな。」
官兵衛は低く、畳み掛けるように返す。
「五カ国はいらぬ。備中、美作、そして備後の一部。これで手を打とう。出雲と伯耆は毛利の手元に残してやる。さらに、毛利の残りの所領は、筑前(秀吉)殿が責任を持って安堵することを約束する。これならば、毛利家にとって、最悪を回避する絶好の話ではあるまいか?」
恵瓊は息を呑んだ。
「三カ国だと? 二カ国も減らすというのか。黒田殿……そこまでして我らをこの地に縛り付け、一刻も早く京へ戻りたいか……。」
官兵衛の眼光が、剣のように鋭く恵瓊の胸を刺した。
「左様。迷っている暇はござりませぬ。明日、清水宗治殿に潔く腹を切っていただく。それをもって和睦成立とし、我らは直ちに兵を引く。この条件を呑めば、毛利は戦わずして領地を最低限守り、羽柴という『次なる天下の主』に大きな恩を売ることになる。拒めば、泥沼の大乱に呑み込まれ、毛利の家名はここで絶えよう。恵瓊殿、選ぶのは今よ……。」
恵瓊はまだ、唇を噛んだまま首を縦に振らなかった。外交僧としての矜持と、毛利家の安泰。その秤が激しく揺れている。
官兵衛は、じわりと圧力を強めた。
「恵瓊殿……。今この刻、天下の命運は、我ら二人の掌の上にござりまする。毛利の未来を、貴殿のその迷いで灰にされまするか……。腹を決められよ!」
天幕を揺らす夜風が、ろうそくの火を大きく揺らした。
沈黙の末、恵瓊はふっと肩の力を抜き、乾いた苦笑を漏らした。
「黒田殿……お主は、本当に恐ろしい男じゃ。信長公の死という、この世の終わりのような絶望の淵で、即座に死人の遺志を値切り、敵を味方に引き入れようとは……。
よかろう。その狂気とも言える大勝負、毛利が買いましょう。長左衛門(清水宗治)殿には、明日、日の出と共に腹を切っていただく……。毛利の名を、この沼地に沈めぬために……。」
官兵衛は深く、一度だけ頷いた。
「賢明なるご判断。恵瓊殿、夜が明け、清水宗治殿の切腹の儀が済み次第、我らは風となって京へ戻る。天下の主が誰になるか、その目でしかと見届けてくだされ。
ただし!お主がここで判を突くだけでは足りぬ。(小早川)隆景殿、(吉川)元春殿にもすぐに誓紙を書かせよ。『信長公の死を漏らした者は、一族郎党処刑する』という厳烈な連判状をな。
追撃を諦める言い訳なら、『空を飛ぶ鳥の如き速さで消えていった』とでもしておけば、格好もつくであろう……。真実を知るのは、この場におる者だけで十分よ。
そして、我らが勝った暁には、また良き酒を酌み交わしましょうぞ!」
恵瓊はいつものように無言で深く一礼をすると、闇に溶けるように静かに去っていった。その背中を見送りながら、官兵衛はようやく深く吐息をついた。
(さあ、これで天下は大きく変わる。筑前(秀吉)殿を、魔王亡き後の荒野へ送り出す道は出来た。)
官兵衛はひとり、天を見上げた。そこにはかつて、自らが進むべき道を照らし、そして志半ばで去っていった賢者の姿が重なる。
「半兵衛殿、見ておられるか? この先、筑前(秀吉)殿が天下人になっていく様、もうしばし冥土から御覧あれ……。」
官兵衛は懐から、ふじの数珠を取り出した。指先で一つひとつ珠を繰りながら、静かに、そして敬虔な口調で『オラショ(祈り)』を唱え始めた。
「パアテル・ノステル、キ・エス・イン・セリス、サンティフィセトウル・ノメン・トウウム……(天におられる私たちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように……)」
その祈りは、覇権を奪取するための決意であり、同時に、これから始まる凄惨な権力争いへの鎮魂歌でもあった。
(ふじ……。お主が望んだ、敵をも愛せるような穏やかな世になるまで、もうあと少し……。道は血で汚れるかもしれぬが、わしは行く。もうしばらく、見届けてくれ……。)
官兵衛の指先が、最後に十字を切った。
東の空が、かすかに白み始めていた。それは、歴史上最大の強行軍『中国大返し』の始まりを告げる、血のような黎明であった。
ご覧いただきありがとうございます。
第四十五話は、歴史の転換点となった『備中高松城の和睦交渉』を描きました。
五カ国割譲という信長の遺志をあえて値切り、毛利を『共犯者』として抱き込む。
この官兵衛の独断こそが、後に『中国大返し』を成功させる唯一の道でした。
冷淡な策を弄しながらも、その指先が手繰るのは亡きふじの数珠。
彼の知略の底には、常に愛する者たちへの鎮魂と、祈りが流れています。
夜が明ければ運命の強行軍が始まります。




