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第四十四話 好機

 天正十年、六月三日。

 本能寺の変からわずか一日。備中高松の陣で何食わぬ顔で交渉を続ける黒田官兵衛。

 しかし、闇を切り裂き届いた一通の凶報が、全てを塗り替えます。

 泣き崩れる秀吉の耳元で、軍師は冷徹に、そして熱を帯びて囁きました。

 「殿、御運が開けましたな。」

 絶望の淵から、天下という名の頂へ。歴史上類を見ない大逆転劇がいよいよ幕を開けます。

 書状一通で細川親子を出家させた官兵衛は、次なる盤面を支配するための駒を動かさねばならなかった。早急に毛利との和睦を取り付け、光秀の『口封じ』を成し遂げるための討伐軍を、一刻も早く、かつ完璧な布陣で出発させる段取りが必要だったのである。

 

 天正十年六月三日。本能寺の変の翌日、備中高松の陣は表向きは変わらぬ包囲戦の様相を呈していた。

 秀吉は日中まで、毛利方の重臣たちと表立っての交渉を続けていた。官兵衛もまた、信長の死を確信していながらも、表情一つ変えず、早馬が到着するまでは、何一つ知らない軍師の顔を貫き通していたのである。

 

 その日、秀吉側が毛利方の重臣に送った誓約状(起請文)には、後の大逆転を見越した布石が散りばめられていた。

 ・毛利軍の武将、上原元祐(もとすけ)の忠節を評価し、日幡(ひばた)城の引き渡しを認める。

 ・見返りとして、信長公より備後国の知行を認める『朱印状』を取り付け、必ず送る。

 ・万が一、備後国が手に入らぬ場合でも、備中国内で二万貫の地を代償として与える。

 ・この約束を違えた場合は、神仏の罰を受ける。

 

 もはや発行されるはずのない信長の『朱印状』を餌に、時間と条件を釣り上げる官兵衛。だが、この時の毛利側は、背後に迫る織田の主力軍という幻影に怯えつつも、まだ強気な姿勢を崩してはいなかった。

 

 事態が動いたのは、その夜更けのことである。

 官兵衛の読みより数刻、天の配剤(はいざい)かと思うほど早く、備中の陣に待望の『影』が滑り込んだ。

 官兵衛が天幕の中で、(したた)る水時計をじっと見つめていると、陣幕の隙間から、泥と汗にまみれ、肺を焦がさんばかりに息を切らした草(忍者)が転がり込んできた。

 

 「注進っ! 本能寺……炎上。上様、確かに……っ!」

 

 官兵衛の瞳に、鋭い燐光(りんこう)が宿った。彼は身じろぎもせず、ただ一言、氷のような声で確認した。

 

 「親子、揃ってか?」

 

 草(忍者)は、よほど限界を超えて走り続けてきたのだろう。膝をつき、肩で激しく息をしながら、一言も発さずに静かに、だが深く頷いた。

 

 「目論見(もくろみ)通り……。京を発って一日半。よくぞ走り切った。この数刻の差が、天下を分ける……。」

 

 官兵衛は立ち上がり、即座に秀吉の寝所へと向かった。その道すがら、彼は自らの表情を『驚愕と悲嘆』に塗り替えるべく、心の(ひだ)を整えた。精一杯の演技を携え、彼は秀吉の前に参じた。

 

 「殿! なんと……っ! う、上様が本能寺にて討たれ、中将(信忠)殿も果てられました! 間違いございませぬ。明智光秀の謀反にございます! 京に放っておいた我が手の者が、今しがた戻り、この目で最期を見届けたと……!」

 

 その報を聞いた瞬間、秀吉は文字通り腰を抜かした。

 

 「な……な……」

 

 声が喉に詰まり、視線が泳ぐ。やがて、喉の奥から絞り出すような嗚咽が漏れ出した。

 

 「う、嘘だわ、嘘だと言ってちょうでゃあ! 官兵衛…… 上様が、あの上様が……。これからわしらはどうなりゃあええんだわ! 終わりだ、すべて終わりだがや!」

 

 子供のように泣きじゃくる秀吉。官兵衛は冷徹な眼差しでその姿を見つめていたが、ここぞという刹那、秀吉の耳元に顔を寄せた。そして本来の、恐ろしき軍師の(かお)で鋭く囁いた。

 

 「殿、御運が開けましたな……。」

 

 その言葉は、悲しみに沈む秀吉の心臓を直接貫く冷たい杭のようだった。

 

 「なん……じゃと?」


 秀吉の思考が、一瞬停止した。

 上様の死という巨大な闇に飲み込まれ、真っ白になっていた秀吉の視界に、官兵衛がたった今、強制的に『天下』という別の光を差し込んだのである。

 秀吉の目から、子供のような涙が引き、代わりに底知れぬ困惑と、それを上回る激しい動揺が渦を巻いた。

 

 「上様の悲報、痛恨の極み……。なればこそ、泣いている暇はございませぬ。毛利がこの事実を知る前に、一刻も早く和睦をまとめ上げるのです。そして、電光石火で京へ戻り、逆臣、光秀を討つのです! さすれば、主君の仇を討った第一の功臣(こうしん)として、天下は殿の掌の中にございます!」

 

 官兵衛は淀みなく続けた。

 

 「今すぐ、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)をここへ呼びまする。全てこの官兵衛にお任せ下され。すべては、この数時間の静寂にかかっておりまする!」

 

 秀吉は、あまりに冷静な、いや、この事態を待っていたかのような官兵衛の言動に、背筋が粟立(あわだ)つのを感じた。だが、官兵衛の言葉は正論であり、唯一の「生路(せいろ)」であった。

 秀吉は、ぴたりと嗚咽を止めた。袖で涙を拭い、官兵衛を凝視する。

 

 「官兵衛、おみゃあ……。わしに、あの上様の代わりをやれと言うんだな……。おみゃあという男は、どこまで恐ろしいんだて……。」

 

 官兵衛は眉一つ動かさず、さらに具体的な戦略を畳み掛けた。

 

 「殿、お言葉を。これはまたとない『好機』にございます。全軍三万のうち、足の遅き将兵を、高松城の戦後処理と周辺の監視に据え置きまする。殿(しんがり)は、安心(あんじん)宇喜多忠家(うきたただいえ))殿に頼めば異存はありますまい。残る足の速き精鋭二万。これを今すぐ動かせば、兵は風となって姫路まで駆け抜けることが叶いまする!」

 

 「官兵衛、おみゃあ本気で言っとるのか? ここから京まで、どれほどの道のりがあると思っとるんだわ。兵も馬も、途中で力尽きてまうぞ!」

 

 「案じ召さるな。そのための備えは、既に済んでおります。」

 

 官兵衛の口角が、かすかに上がった。

 

「これ幸いなことに、あらかじめ小一郎(長秀)殿に頼み、『上様を中国路にお迎えする』という名目で、姫路までの道を隅々まで掃き清めさせておきました。道幅を広げ、崩れた橋を架け替え、さらには要所要所の村々に、炊き出し用の米と、夜通し走るための松明を山のように積み上げさせてございます。

 今、この瞬間に全軍を動かしても、一刻の淀みもなく京へ駆け戻れる……。その準備、万端に整うておりまする!」

 

 秀吉は目を見開き、全身の震えがぴたりと止まった。

 

 「おみゃあ……どこまで先を読んどるんだて……。小一郎の『王道』が、そのまま逆臣討伐のための『王道』になっとるちゅうわけか……。天までわしに味方しとるがや、官兵衛。」

 

 秀吉の顔に、いつもの、いや、これまで以上の不敵な笑みが戻った。官兵衛は静かに、かつ力強く返した。

 

「殿!天だけではございませぬ。道も、兵糧も、そしてこの官兵衛の知略も、すべては殿を天下の座へ押し上げるためとなりました。 殿、腹は決まりましたな?」


 秀吉は着物の袖で乱暴に涙を拭い、立ち上がる。その顔からは『猿』の愛嬌が消え、冷酷な勝負師の(かお)が覗いた。


 「ああ、決まったがや。キンカ頭(光秀)を地獄へ叩き落とし、その後に座るのはこの俺だわ!

 小一郎(長秀)にも伝えろ! 一番乗りは羽柴秀吉だっちゅうことを、日の本中に知らしめてやるみゃあか!」

 

 官兵衛は深く、深く平伏して言った。

 

 「御意。そのお言葉、お待ちしておりました。いざ、天下獲りの大勝負、始めましょうぞ!」


 闇の中で、二人の怪物の意志が一つに重なった。ここから、歴史上類を見ない強行軍『中国大返し』の狂騒曲が、その第一音を奏で始めるのである。

 ご覧いただきありがとうございます。

 第四十四話、歴史の分岐点となる『秀吉への報告』を描きました。


 官兵衛が水面下で進めていた準備が、ピースがはまるように一つの形を成していく爽快感。

 そして何より、官兵衛の知略に導かれ、ついに『天下取り』を宣言した秀吉の覚醒。

 二人が一蓮托生となり、時代の濁流へと飛び込む瞬間を切り取りました。


 次回、官兵衛は毛利方の外交僧、安国寺恵瓊を呼び出します。

 情報が洩れれば全滅必至の綱渡り。

 究極の和睦交渉が始まります。


 日本語英語同時連載しております。詳しくは活動報告をご覧下さい。

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