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第四十三話 二つの書状

 本能寺の変により、天下が激震に揺れる中、明智光秀は己の正義を信じ、朋友たちへ、次々と再興の書状を送りました。

 しかしその動きはすべて一人の男の掌の上にありました。


 備中の闇の中から、光秀の『唯一の希望』であった細川藤孝へ向けて放たれたもう一通の書状。

 それは、友情を断ち切り、歴史を強制的に塗り替えるための『呪縛』でした。

 武人であり、文化人でもある細川藤孝が、人生で最も激しい怒りと、抗いようのない恐怖に直面した瞬間を描きます。

 天正十年六月三日、つまり本能寺の変の翌日、明智を説き伏せた細川藤孝のもとに二通の書状が届いていた。一通は明智光秀からである。


急啓(きゅうけい)仕り候。

 (かね)てよりの宿願(しゅくがん)、今二日未明、本能寺に於いて成就仕り候。信長、信忠父子、(ことごと)く自害に追い込み、素懐(そかい)を遂げ候。

 

 これ(ひとえ)に、貴殿を始めとする同志の密かなる支えあればこそと、深く感謝致し候。

 今こそ天下の静謐(せいひつ)、我らが手に御座候。盟友、且つ親戚たる貴殿の御力、今こそ頼みに存じ上げ候。

 早々に参陣せられ、天下の行く末、共に相図(あいばか)りたく候。

 

 委細(いさい)は使者の口上にて申し伝うべく候。

 恐々謹言(きょうきょうきんげん)

 六月二日

                    明智惟任(光秀)

 細川兵部大輔(藤孝)殿

          進上』


 もう一通を差し出したのは官兵衛である。この書状を見て細川藤孝は驚愕した。


『急啓仕り候。

 惟任(これとう)(光秀)殿より、御辺の心を惑わす甘き誘い、近々にも必ずや届くべく候。然れども、ゆめゆめこれに乗ぜられ候こと、御無用に御座候。

 

 拙者、間もなく筑前(秀吉)殿と共に二万の軍勢を引き連れ、備中を発ち候。風の如き速さを以て京へ向かい、着く頃には我が軍は五万の数に膨れ上がるべく候。

 我らが掲げるは「明智討伐」の正義の旗印に御座候。惟任(これとう)(光秀)殿が期待せし援軍など、最早この世の何処(いずこ)にも存在致しませぬ。

 惟任(これとう)(光秀)殿は、自ら逃げ場なき山崎の袋小路へ入り込まんと致し候。

 

 御辺(ごへん)に於かれては、「古今伝授の灯」を絶やさぬことこそ、貴殿の誠の忠義と心得候。直ちに髪を切り、上様への弔いの意を世に示されよ。さすれば、筑前(秀吉)殿も細川の忠義、決して疑うこと無かるべく候。

 惟任(これとう)(光秀)殿は最早「死に体」に御座候。天下の(とき)は、既に羽柴の掌中に在り。

 

 此度の儀、一切他言無用(たごんむよう)に候。ゆめゆめ(ふみ)などにも残されぬよう、細心の注意を払われ()く候。この書状もまた、読み終えられた直後に、(たちま)業火(ごうか)に投じて燃やし尽くされ、灰塵(かいじん)に帰されんことを。

 微塵(みじん)も形跡を遺さぬよう、呉々(くれぐれ)も油断召されるな。万が一にもこれが世に()るるようなことあらば、最早、筑前(秀吉)殿も拙者も、貴殿を(すく)(たてまつ)る術を失うことと相成り候。

 

 (ただし)、貴殿の宝とせらるる『古今伝授』の数々、此度の儀、(あい)調(ととの)いますれば、(それがし)が盾となりてこれをお守り致し、後世(のちのよ)へ伝えんことを誓い(たてまつ)り候。文字通り、命を(なげう)ちて護持(ごじ)仕るべく候。

 これにて、心底(しんそこ)よりご承知召されるべく候。

 

 恐々謹言。

 六月一日

         黒田官兵衛(孝高)

細川兵部大輔(藤孝)殿

         参進』


 細川藤孝の書状を持つ手が、怒りで激しく震えた。文筆を愛し、常に冷静沈着を旨とする藤孝の人生において、これほどまでに激情に身を焼かれた瞬間は無かったであろう。

 

 「おのれ官兵衛……! この藤孝を、あのような田舎軍配者が、言葉の刃で脅しつけようというのか!」

 

 藤孝は書状を握りつぶさんばかりに力を込めた。

 官兵衛の書状は、単なる警告ではない。藤孝が光秀と通じていたことを逆手に取って『共犯者として生き残るか、連座して滅びるか』という冷徹な踏み絵を迫っている。藤孝にとって耐えがたかったのは、自身の知略さえも官兵衛の掌の上で、巨大な装置の一部として組み込まれていたという屈辱であった。

 

 「十兵衛(光秀)を、初めから捨石にするつもりであったか……。わしを使って十兵衛(光秀)を欺き、その背を討つ……。この藤孝に、その片棒を担げと言うのだな!」

 

 藤孝は書状を激しく破り捨てた。怒りに満ちて肩で呼吸し、暗がりの一角を(にら)みつける。名門、細川の誇りが、泥を塗られたように(うず)く。今すぐこの書状を突き返し、光秀と共に羽柴を迎え撃つという選択肢が頭をよぎる。

 

 だが、怒りが煮えくり返るほどに、頭の片隅で冷酷な計算が働き始める。備中から京までの距離、羽柴軍の行軍速度、そして光秀が今、自分たち親子の参陣を首を長くして待っているという事実。

 この書状に(みなぎ)る官兵衛の確信は、単なるハッタリではない。そこには、既に勝敗が決した後にしか書けぬような、冷徹な『未来の記録』が刻まれていた。


 何より藤孝を揺らがせたのは、約束さえ守れば官兵衛が命を賭けても『古今伝授』を守るという一文であった。それは、武人として以上に、文化の継承者としての存在意義を肯定するという意味ではあるが、それは裏を返すと『古今伝授』を人質に取るということ。

 今後官兵衛を裏切った時には命よりも大事な『古今伝授』を奪われるという意味である。これは藤孝にとって最も残酷な急所への一突きであった。

 

 それら全てを繋ぎ合わせたとき、藤孝は背筋に氷を押し当てられたような戦慄を覚えた。

 

 「勝てぬ……。十兵衛(光秀)では、この黒田官兵衛という『化け物』には勝てぬ……。」

 

 ほどなくして荒い呼吸も落ち着き、怒りが絶望的な諦念(ていねん)へと変わっていった。

 

 「もはやこれまで。黒田官兵衛にしてやられた……。十兵衛(光秀)に付けば細川家は間違いなく滅びる。だが、このわしにはまだやらねばならぬことがある。古今伝授の灯を、この乱世で消すわけにはいかぬ……。」

 

 光秀からの『協力要請』と、官兵衛からの『光秀討伐宣言』。

 対極にある二つの書状を前にした細川藤孝は、本陣、宮津城にて、息子、忠興(ただおき)と向き合った。

 

 「父上、この黒田官兵衛の書状……『間も無く備中を発ち、討伐軍として向かう』とは……。備中からここまで、わずか数日で戻れるはずがございませぬ。官兵衛は我らを牽制(けんせい)するために、(たばか)っているのでは?」


 細川藤孝は官兵衛の書状を凝視し、深く溜息をついた。

 

 「いや、忠興。あの黒田官兵衛という男は、成し得ぬことは書かぬ男よ。この文に宿る凄まじき自信……。十兵衛(光秀)は、羽柴(秀吉)が自分を助けに来ると信じ込まされておるのだ。だが、現実に迫るのは『援軍』ではなく、牙を剥いた『死神』よ……。これでは十兵衛(光秀)に、何の音信たよりも返せぬではないか……。」


 息子、忠興は驚愕し、立ち上がった。

 

 「で、では、黒田官兵衛はあえて十兵衛(光秀)殿を泳がせておいて、自分たちが一番乗りで首を獲るための餌にしたというのですか!

 筑前(秀吉)殿が明智の味方だと思い込ませておいて、実はその喉元を食い破る準備を終えている……。我らはその『共犯者』になれと?」


 父、藤孝は目を閉じて今一度冷静な判断を自分に課した。

 

 「左様。返書は出さぬ。今すぐ髪を切れ。十兵衛(光秀)との縁を断ち、信長公への哀悼を示せ。それが、黒田官兵衛が我らに与えた唯一の生き残る路よ……。おそろしい男よ。黒田官兵衛。十兵衛(光秀)が最も頼りにした我らを使って、十兵衛(光秀)を孤立無援の淵へ追い落としおった……。」

 

 藤孝は自らの手で(もとどり)を掴み、小刀を引き抜いた。

 鈍く光る刃が、光秀への最後の手向けのように黒髪を切り落とす。

  その後、細川藤孝は明智の誘いに乗ることなく出家を果たし、『幽斎玄旨(ゆうさい げんし)』と名乗った。

 

 それは、歴史の表舞台では『主君への忠義』として讃えられ、その裏側では、一人の天才軍師が仕掛けた『最強の罠』に屈した瞬間であった。

 

 細川幽斎(藤孝)は以後、『古今和歌集』の解釈の奥義である『古今伝授』の唯一の継承者として、その命脈を保つことに心血を注いだ。その沈黙は、官兵衛との『命懸けの約束』を墓場まで持っていくための誓いでもあった。

 最後までお読みいただきありがとうございます。

 細川藤孝、のちの幽斎。

 彼が突如として出家し、親戚である光秀を見捨てた謎は、史実においても大きな転換点です。

 本作では、その裏に官兵衛の『古今伝授』をも利用した極限の心理戦があったと描きました。


 官兵衛の恐ろしさは、単に敵を倒すことではなく、相手が『最も大切にしているもの』を盾に取り、逆らう自由すら奪うところにあります。


 藤孝が髪を落とした小刀の冷たさは、そのまま官兵衛の冷徹な計算そのものかもしれません。

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