第四十二話 もう一人の怪物
天正十年、六月二日。
魔王、信長を吞み込んだ本能寺の炎は、北に位置する妙覚寺、そして二条城も赤く染めていました。
父と同じく、『誇り』を守るため、自ら死地を選んだ嫡男、信忠。
しかし、その潔い最期の痕跡さえも、官兵衛が放った忍者によって歴史の闇へと回収されていきます。
一方で堺で異変を知った徳川家康は、剥き出しの生存本能で伊賀越えへと挑みます。『狸』と称される男が、その鋭い直感で嗅ぎ取ったものとは……。
本能寺から十町(約一キロ)北にある妙覚寺に、父、信長が襲撃を受けたという凶報が届いたのは、空が白み始めた頃であった。織田家の嫡男、信忠は、当初、父を救うべく手勢を率いて本能寺へ駆けつけようとした。
しかし、京都所司代、村井貞勝らが必死にそれを制した。
「本能寺は既に焼け落ち、明智の軍勢がこちらへ向かっております!」
信忠が南の空を仰ぐと、そこには黎明の光を塗りつぶすほどの、禍々しい紅蓮の炎が渦巻いていた。その圧倒的な炎の壁を前に、信忠は静かに悟った。
「もう……遅いか……。」
この時、明智軍の包囲網はまだ完成していなかった。信忠は防衛に適さない妙覚寺を捨て、誠仁親王の居所であり、堅固な邸宅でもあった隣接の二条城(二条新御所)へと移動することを決断した。
だが、この一刻を争う移動も、明智の別働隊には筒抜けであった。そして、その様子を城の床下から、あるいは瓦の隙間から、潜龍が冷徹に見つめていた。
二条城へ入った信忠は、親王を巻き込まぬよう明智軍と交渉して脱出させると、わずか数百名の家臣と共に、数千の明智勢を迎え撃った。
「織田の意地を見せよ!」
信忠自らも剣を振るい、三度にわたって敵を押し返すという獅子奮迅の戦いを見せる。しかし、隣接する近衛前久の邸宅を明智軍に占拠され、そこから弓や鉄砲で射下ろされると、防衛線は一気に瓦解した。
降り注ぐ火矢が二条城の豪華な装飾を焼き、信忠の頬を焦がす。
父が築き上げた秩序が、目の前で灰へと変わっていく。
その絶望的な美しさに、信忠の口元には微かな笑みが浮かんだ。父を超えられぬと悟っていた嫡男が、死の瞬間、初めて父と同じ『魔王』の孤独を共有したのかもしれない。
信忠は、血煙の中で自らの最期を悟った。
「もはや、これまでよ。余はここで腹を切る。だが、この首だけは、断じて明智の逆賊どもに渡してはならぬ!死体を隠し、跡形もなく焼け落ちるまで、この場所を死守せよ。織田の誇り、最期まで敵に見せつけるのだ!」
彼は縁側の板を剥がさせ、自らの遺体をその床下に隠すよう指示した後、静かに刃を腹に突き立てた。
信忠は返り血で汚れた白い小袖を正し、静かに縁側に座した。父、信長が本能寺でも纏ったものと同じ小袖である。その白さは、二条城を包む紅蓮の炎の中で、残酷なほどに清らかに浮かび上がっていた。
信忠が息を引き取り、その遺体が床下へと収められた直後、炎と煙で視界が奪われた混乱の中、潜龍の一人が、家臣たちの目を盗み、信忠の首を瞬く間に回収していったのである。
巳の刻(午前十時頃)、京の街は明るく照らされていたが、混乱の極みにある二条城の煙の中で『小さな首一つ』を運び出すのは、官兵衛に鍛えられた潜龍にとって、造作もない事であった。
その頃、本能寺はすっかり焼け落ち、あたりには一面、肉の焼けるような異臭と煙が漂っていた。
「まだか! 首級はまだ見つからぬのか!」
斉藤利三の怒号が響く。兵たちは熱を帯びた瓦礫をかき分け、信長の遺体を捜索し続けていた。
光秀にとって、信長の『首』こそが天下の印章であった。だが、いくら探せど、指一本、骨の一片すら見つからない。灰の中に、愛用の茶器が砕けて転がっているのみである。
鳥羽の本陣で知らせを待つ光秀は、次第に自らの指先が氷のように冷たくなっていくのを感じていた。
(もしや脱出したのでは? ならば、すぐに上様の返り討ちにあい、この首が飛ぶことになる……。いや、あの業火を逃れられるはずはない。だが、首がなければ、誰も信じぬ。誰もわしを勝者とは認めぬ……。)
後世、光秀の天下は『三日天下』と呼ばれるが、光秀にとっては、天下を掴んだ快感など一瞬たりともなかった。首がなければ、細川も筒井も、織田の重臣たちも味方にはつかぬ。光秀は、自分が仕掛けたはずの罠の中で、自分自身が何者かに陥れられているような、底知れぬ恐怖に囚われ始めていた。
一方その頃。
徳川家康は、信長の招待を受け、わずか三十名ほどの供回りと共に堺を観光中であった。この異変を伝えたのは、茶会にも参加していた豪商、茶屋四郎次郎である。
「茶屋、おみゃあ、そりゃあ本当だらぁな?」
いつもは沈着冷静な家康も、この時ばかりは目を剥き、絶句した。手にしていた扇子が、無意識の力に耐えかねて『パキリ』と音を立てて折れる。
家康の脳裏を過ったのは、信長への恐怖ではなく、巨大な重石を失った大地が底知れぬ泥沼へと変貌していく、漆黒の予感であった。
天下の重みが、今、宙に浮いたのだ。
「忠勝! 忠次! 泣いとる暇なんかありゃあせんぞ。今、わしらがここでまごまごしとったら、明智の軍勢に囲まれて全滅だら。」
家康の瞳に、生き残るための野生の光が宿る。
「生き残らにゃあいかん。生き残ったもんだけが、次の世を拝めるもんでな。半蔵! 伊賀の忍びどもを金で抱えこみりん! 落ち武者狩りの野盗どもには、宝を好きなだけくれてやりゃあいい。とにかく道を開けさせい! どんなに険しい山道でも構わん。死に物狂いで、三河へ帰る道を探し出せ!」
後に『神君伊賀越え』と呼ばれる、家康の命懸けの逃走劇が幕を開けた。
「殿、急ぎくだされ! 野盗どもが鼻を利かせて寄ってきおる!」
服部半蔵が背後から迫る殺気を感じ取り、刀を抜く。家康は険しい山道を、泥にまみれて駆け抜けながら、狸のような直感でこの事変の『違和感』を嗅ぎ取っていた。
「こたびの謀反、惟任(明智)殿の手勢なれど……裏に黒幕が潜んでおるぞ……。
誰だ……。次に天下を掠め取ろうとしとるのは誰だん。筑前(秀吉)殿か?いや、あのお調子者だけでは無理だ。もっと黒く、知恵の回る、底の知れぬ者に違いねえ……。」
家康の脳裏に、かつて聞き及んだ一人の男の名が浮かぶ。
「筑前(秀吉)殿の配下に、恐ろしき知恵者がおると聞いた……。そうりゃ、あやつだ。たしか黒田……官兵衛といったか……。間違いねえ。あやつが糸を引いとるんだわ……。おそがい(恐ろしい)男だに……。」
この家康もいずれ官兵衛が対峙するであろう、もう一人の怪物である。
同じ刻、備中。
官兵衛は一度寝床についたものの、眠りにつくことはなかった。彼は、京の空を見上げていた。
まるでお気に入りの肉の焼き加減を匂いで確かめるかのように、信長の魂が舞い上がったであろう空を吸い込み、呟いた。
「焦げたな。天下が、いい具合に焼けてきた……。」
官兵衛は報せを待たずとも、すでに『結果』を確信していた。
(上様。地獄の旅路はいかがにございますかな。お望みの茶器は、今頃京の炎の中で赤く焼けておりましょう。貴公が天下の土台を築き、我が殿がその上に座る。某はただ、その流れを少々早めさせていただいただけにございます……。)
信長、そして信忠。織田の血筋は官兵衛の知略により一晩にして歴史の影へと葬られた。
「案じ召さるな。明智殿にも、すぐに後を追わせまする……。」
夜の闇の中、備中から京へ向けて放たれた早馬は、早くて明日の夜、遅くとも二日後の朝には戻る。その知らせを聞いた瞬間、毛利を抑え、後世に語り継がれる『中国大返し』という名の狂騒曲が始まるのであった。
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第四十二話では、織田家嫡男、信忠の壮絶な最期と、徳川家康による命懸けの『伊賀越え』を描きました。
信長、信忠親子の首を完全に隠滅し、光秀を『遺体なき焦燥』へと追い詰めていく官兵衛の冷徹な手際。
それに対し、三河弁で焦りながらも、いち早く官兵衛の影を嗅ぎ取った家康。
ここで示された家康の直感は、後の大きな伏線となります。




