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第四十一話 本能寺

 天正十年、六月二日。未明。

 静寂に包まれた本能寺は、一発の銃声を機に、この世の地獄へと姿を変えました。

 降り注ぐ火矢、逆巻く炎、そして桔梗の旗印。

 『魔王』と呼ばれた織田信長が、己の四十九年の生涯を賭して、最期の舞を演じます。

 しかし、その業火の奥で待っていたのは、光秀でも死神でもなく……官兵衛が仕掛けた『呪い』でした。

 官兵衛の策略は、各方面の信長に対する積年の不平や恐怖、そして明智光秀の足利幕府再興という危うい野心を飲み込み、雪だるま式に膨れ上がっていた。

 それはもはや一人の人間の意思を超え、巨大な鉄球となって歴史の坂道を転がり落ちる、圧倒的な破壊エネルギーと化していたのである。


 光秀は本能寺から南へ二里(約八キロ)——鳥羽の地に深く腰を下ろした。視線の先には炎上を待つ京の空……。


 「四国の儀は筑前(秀吉)が、わしと利三(としみつ)蜂起(ほうき)せよということであったか……。

 耐え忍んだ歳月は、今宵のためにあったのだ……。筑前(秀吉)……頼むぞ……。」



 天正十年六月二日、未明。

 東の空が白み始め、一番鶏の鳴き声が静寂を破る。

 黄金色の団欒(だんらん)に酔い、眠りについていた信長は、地を揺らす幾千もの足音で目を覚ました。

 

 「さては、下部(しもべ)共が、(べつ)したるか?」

 

 最初は、下の者たちが喧嘩でも起こしたかと思った。だが、耳を打つ鉄砲の轟音、そして鼻腔を突く硝煙の匂いは、百人や二百人の騒動ではない。

 上体を起こした瞬間、夜気を切り裂く(とき)の声が響き渡った。

 

 「これは謀反か! いかなる奴の企てぞ! 早う申せ!」

 

 駆けつけた森蘭丸が、血相を変えて叫ぶ。

 

 「あ、明智が手勢に……ござりまする!」


 信長は耳を疑った。先に備中に追い払ったはずの光秀がなぜ、まだ京都にいるのか。

 京都奉行の光秀の眼を遠ざけたがゆえに、敢えて目立たぬよう、少人数で入ったこの本能寺……。


 だが理由も理屈も今はどうでもよい。


 「是非に……及ばず!」


 目の前の軍勢が明智軍であるという、その一点のみが残酷な真実なのである。信長は瞬時に怒りに染まり、弓を手に襖を蹴破った。

 

 境内を埋め尽くす甲冑武者。その奥に翻る桔梗の旗印を見た時、信長の中で何かが激しく弾けた。


 「ええい!光秀までもこのわしを(たばか)ったか!」


 後方で斉藤利三(としみつ)が叫んだ。

 

 「あやつじゃ! あの小袖の男じゃ!」

 

 その声とともに、無数の武者が天を突く怒号を上げ、一斉に襲い掛かる。

 彼らの中には、目の前の白い小袖姿の男が『織田信長』であると気づかぬ者もいただろう。中には信長と気づいた者もいたであろうが、もはや勢いに飲まれた彼らにとってそれは、ただの標的、打ち取るべき『最大の功名』に過ぎなかった。

 

 信長は多勢に無勢の中、一矢ごとに敵を射抜いていく。至近距離から放たれる矢は武者の兜を貫き、額を割った。だが、その奔流を止める術はない。放たれた火矢が本能寺を燃やし始める……。


 応戦しながら、信長の脳裏には『黒幕』の名が走馬灯のように浮かんでは消えた。光秀一人の仕業か、あるいは伴天連(ばてれん)か、追放した足利義昭か、はたまた徳川か……。だが、どれほど思考を巡らせても、目前の敵を討たねば死が訪れるだけである。

 

 ついに弓の弦が激しい応戦に耐えかね、パチンと不吉な音を立てて切れた。

 

 「蘭丸! 槍を持て!」

 

 鳴り止まぬ怒号の中で槍に持ち替えた信長は、その冷たい感触から、かつて『うつけもの』と呼ばれた吉法師の時代を走馬灯のように呼び起こしていた。

 

 髪を茶筅(ちゃせん)のように立て、袖をまくり上げ、虎皮を腰に巻いて町を練り歩いた若き日。戦になれば槍は長ければ長いほど有利だと天才的に悟っていた幼少期の鋭い感性。その無頼の魂が、戦国という荒野を駆け抜け、いつしか第六天魔王と化していた。

 

 信長は、事あるごとに舞い、己の血肉とした幸若舞『敦盛』を想う。

 

 『人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり……』

 

 人の世の五十年など、天上界の一日からすれば、見ている間に消えてしまう夢や幻に過ぎない。

 皮肉にも五十年に一つ足りない四十九歳。迫りくる明智勢と槍を交え、敵の喉を突き、泥臭く刃を振り回しながら、信長はその『一瞬』の終焉を舞うように戦い抜いていた。



  

 同時刻。備中の陣中。

 官兵衛は京の空を見上げた後で静かに十字を切り、数珠(コンタツ)を指で繰りながら、低く澄んだ声で『オラショ(祈り)』を唱えていた。

 

 「パアテル・ノステル、キ・エス・イン・セリス、サンティフィセトウル・ノメン・トウウム……(天におられる私たちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように……)」

 

 その声は、本能寺の阿鼻叫喚を冷徹に包み込むかのように、深夜の闇に溶けていく……。

 

 ついに、敵兵の槍が信長の左肘を深く貫いた。

 激痛が走り、槍を落とした信長は、もはやこれまでと悟った。

 

 「女子供は苦しからず……急ぎ(まか)り出よ!」

 

 信長は最期の慈悲として女たちに脱出を命じ、迫りくる明智勢に背を向けた。火の粉が舞い、紅蓮の炎が渦巻く襖の奥へと、その白い背中が消えていく……。

 

 だが、奥の間で待ち構えていたのは、安らかな最期ではなく、官兵衛の用意した『絶望』であった。

 

 奥へ入った瞬間、信長は背後の暗闇から伸びた屈強な腕に羽交い締めにされ、自由を奪われた。潜龍の一人、百八(ひゃくはち)である。

 

 「光秀の……手の者か?」

 

 目の前に、音もなく無機質な影が立つ。こちらは潜龍の頭、玄武(げんぶ)である。

 

 「いえ……。

 我が殿より、言伝(ことづて)を預かっております。」

 

 玄武(げんぶ)は信長の耳元に顔を寄せ、凍りつくような低い声で囁いた。

 

 「上様より偏諱(へんき)を授かった黒田の嫡男……。その名は、『長政』にござりまする。」

 

 信長の瞳が、かつてない戦慄に大きく見開かれた。

 

 「長政? ……黒田が、浅井の……? 貴様、まさか……最初から……っ!」

 

 数年前、官兵衛の息子に『長』の文字を与えた自らの傲慢な親心。自分が滅ぼしたはずの浅井長政の亡霊が己の喉元に食らいついている、という恐怖……。

 

 信長は悟った。頭をよぎったのはあの有岡の死地から甦った杖をついたあの男の顔だった。

 

 「おのれ……かん……ッ!」

 

 官兵衛の名を叫び切るより早く、玄武が信長の喉を一瞬で掻き切った。鮮血が噴き出し、魔王の意識は急速に闇へと沈んでいく。

 

 その間、わずか数分。備中の官兵衛は、まだ静かに祈りを捧げていた。

 

 「アベ・マリア、ガラッサ・プレナ、ドミノス・テコン……(恵みに満ちたマリア、主はあなたとともにおられます……)アメン」

 

 燃え盛る業火(ごうか)の中、信長の喉から溢れ出した血が、焼け落ちた畳に黒く吸い込まれていく。直後に現れた別の潜龍の二人が、遺体を隠すための頑丈な木箱を運び入れた。

 

 彼らは一切の感情を排し、まるで壊れた道具を片付けるかのように、信長の遺体を素早く木箱へと収めた。信長が奥へ消えてから、ものの五分。魔王の屍は、明智軍の誰の目にも触れることなく、炎のカーテンの向こう側へと消え去ったのである。

 

 かつて本能寺は、有事の際の『要塞』として設計され、秘密の抜け道が備わっていた。本来ならば信長を逃がすべきその道は、今や潜龍の手によって、物言わぬ遺体を運び出すための完璧な運搬ルートとして役目を果たしていた。

 

 潜龍の四人は、業火に包まれる寺院の崩落を背に、闇から闇へと箱を運ぶ。後に残されるのは、ひたすら焼き尽くされる本能寺と、遺体なき首塚を探し続けることになる明智光秀の困惑だけである。

 

 本能寺の炎が夜空を焦がし、信長という太陽が沈んだその瞬間、歴史の表舞台からその死の痕跡は、官兵衛の手によって永遠に掻き消された。

 第四十一話、遂に『本能寺の変』を描きました。


 幾多の文豪が描いてきた『超』がつくほどの有名なセリフ『是非に及ばず』は、光秀がなぜ備中に行かずにここにいる?いや今それは『どうでもでもよい』という意味で使いました。その他ゴッドファーザーへのオマージュと浅井長政の怨念で色付けしました。


 ただ物語はここでは終わりません。これから官兵衛の完全犯罪のための『口封じ』が始まります。

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