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第四十話 謀叛前夜

 天正十年、六月一日、京、本能寺。

 そこには、天下の名物を並べ、親子で杯を酌み交わす信長の『最後の輝き』がありました。

 しかし、その黄金色の平穏は、官兵衛が弾く算盤によってすでに一秒単位で削り取られていたのです。


 『九つを過ぎたか……。』

 信長が放った欠伸は、死神への合図。

 闇に紛れる明智軍、そしてさらにその影に潜む官兵衛の暗殺部隊『潜龍』。

 運命の夜が、静かに幕を開けます。

 京の静寂は、本能寺から漏れ出す名香(めいこう)の薫りと、高価な茶を(すす)る公家たちの耽美(たんび)な談笑に包まれていた。


 信長は、自らが蒐集(しゅうしゅう)した『器』たちに囲まれ、天下の理が完全に己の掌中にあることを疑わなかった。

 

 茶会の席には、前関白、近衛前久(このえさきひさ)を筆頭に、鷹司信房(たかつかさのぶふさ)勧修寺晴豊(かじゅうじはれとよ)ら、朝廷の重鎮たちが並ぶ。さらには囲碁の名手、本因坊日海(ほんいんぼうにっかい)や博多の豪商、島井宗室(そうしつ)の姿もあった。島井がこの日のために携えてきたのは、信長が長年焦がれた天下の名物茶器『楢柴(ならしば)』である。

 

 この夜の宴は、信長が蒐集(しゅうしゅう)した三十八種にも及ぶ至宝(しほう)を披露する『御道具揃(おどうぐぞろえ)』。松島、三日月といった名だたる茶壺が並ぶ中、信長親子は夜更けまでこの贅を尽くした空間を享受していた。

 

 広間を照らす燭台(しょくだい)の灯りは、親子が()み交わす杯の酒を黄金色に染めていた。

 

 「信忠、この楢柴の黒を見よ。これこそが、わしが求めた天下の重みよ……。」

 

 信長の声には、珍しく慈しみのような響きがあった。信忠は恭しく頷き、父の言葉を噛みしめる。二人の間には、武田を滅ぼし、四国、中国、そして九州へと続く、果てなき織田の版図が共有されていた。親子にとってこの夜は、血塗られた戦いの日々の果てに訪れた、束の間の、しかし最も輝かしい親子の団欒(だんらん)であった。

 

 だが、その黄金色の光のすぐ外側、漆黒の屋根裏では、暗殺部隊『潜龍(せんりゅう)』の影が(うごめ)いていた。

 彼らは猫の目にも似た鋭い視線を交わし、親子が語らう笑い声すらも、命を奪うための『隙』として記録していた。

 南蛮渡りの『機械時計』が深夜を指し示した頃、信長は重々しく口を開いた。

 

 「九つ(深夜)を過ぎたか……。」

 

 その欠伸(あくび)は、完成された支配者の傲慢さを孕んでいた。

 

 宴が果て、公家たちが去ると、信忠も父との別れを惜しみながら本能寺を後にした。

 

 「父上、また明朝に……。」

 

 「うむ、ゆるりと休め。」

 

 それが、天下を二分するはずであった親子の、今生での最期の言葉となった。

 

 信忠が向かうは、わずか十町(約一キロ)の距離にある宿所、妙覚寺。そこでも『潜龍(せんりゅう)』の別の影が、その動線を冷徹な瞳で見届けていた。

 

 静まり返った奥の間。南蛮時計が刻む『カチ……カチ……』という乾いた金属音だけが、不吉な秒読みのように響く。信長は独り、島井宗室が残していった『楢柴』の、深淵のような黒い艶を凝視していた。彼にとって公家とは、自らの権威を映し出す『鏡』に過ぎず、この無機質な茶器こそが、己の魂を唯一託せる実存であった。


 同じ刻。備中の陣中にて、官兵衛は静かに水時計の滴りを見つめていた。

 

 (信長は本能寺。信忠は妙覚寺。明智殿の一万三千がその間隙(かんげき)を埋めるのは、もはや必然……。)

 

 官兵衛は地図をなぞる。信忠の泊まる妙覚寺の守りが、障子一枚の如く薄いことも、すべては計算の内であった。

 日付が六月二日に変わる頃、明智の軍勢は死の静寂(せいじゃく)(まと)い、一路、洛中へと進軍していた。

 

 一万三千の軍勢が移動しているというのに、そこには軍勢特有の喧騒(けんそう)がなかった。聞こえるのは、湿った土を噛む数万の足音と、馬の鼻息、そして甲冑の小札(こざね)が触れ合う『シャ……シャ……』という(かす)かな金属音のみである。

 

 京の町人たちは、その異様な気配に目覚め、戸の隙間から息を殺して外を(うかが)った。松明の光が家々の壁を舐めるように通り過ぎていく。兵士たちの顔は一様に青白く、まるで冥府(めいふ)から()い出した亡者の列のようであった。先頭を行く将兵の瞳には、行き場のない殺気と、引き返せぬ絶望が宿っている。


 一部の隊では徳川家康を討つためと言い聞かされ、別の隊では上様の検分を受けるために京に向かうと聞かされ本能寺に向かっていた。いずれも道中の裏切り行為を防ぐために、光秀の家臣たちが用意した大義名分であった。

 

 光秀にとって信長を討つ理由は計り知れないほどたくさんあった。

 主君による殴打、罵倒。そして四国問題における面目潰し。甲州征伐の戦勝祝いで受けた、衆人環視(しゅうじんかんし)の中での折檻……。

 ありとあらゆる『理不尽』を一身に背負っていた事で精神的に病みつつあり、一人で謀叛など、到底できる状態ではなかった。


 それだけに細川藤孝の誘いは神の救いのようであった。まさか秀吉から共謀の話が来るとは最初は信じられなかった。だが光秀にとって最も信頼できる同胞の言葉……。共に足利将軍に仕え、今となっては親戚関係でもある。藤孝の誘いであるが故、結果的に信じることにした。かねてから考えていた足利幕府の再興も実現できる可能性を感じたからである。


 また秀吉の天才的な(ひらめき)と人たらしの才能に、光秀は密かな憧れさえ抱いていた。

 その秀吉の甘美な誘惑に、光秀はいつになく舞い上がっていたとしても不思議ではない。


 「筑前(秀吉)が味方につくとなれば話は変わる……。明智、羽柴、細川、その他の諸将も巻き込めば連合軍は六万にはなるであろう。そうなれば織田の古参が束になっても敵わぬ天下無双の軍勢となる……。これで乱世を終わらせ、公方(足利義昭)様を再び京へ……。」

 

 光秀は連合軍の総大将となるつもりで後方にて控える事にした。それにより本能寺に攻め入る実質的な軍配を握ったのは斎藤利三(としみつ)である。利三(としみつ)にとっても、信長はもはや主君ではなく、義兄弟である長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を滅ぼそうとする、排除すべき『災厄』そのものであった。

 

 夜霧を裂いて進む利三としみつの胸中に、烈火の如き殺意が渦巻く。

 

 (上様、あまりの仕打ちにございます。元親殿に対し、土佐一国を除く他の領地をすべてを差し出せとは……。取り次いだ(それがし)の面目は泥に塗れ、妹の嫁ぎ先は滅びの縁にある。我が殿のみならず、我ら武士(もののふ)の堪忍袋は、とうに裂け申した……。)

 

 桂川を渡れば、もう後戻りはできない……。

 

 (四国の友の、そして行き場を失った者たちの無念を晴らす一撃……。卯の刻、魔王を紅蓮に沈め、その首を歴史から断ち切ってくれよう。

 たとえ逆臣の汚名を着ようとも、誇りを捨てて生きるよりは地獄が相応しい……。今こそ、敵は本能寺にあり!)

 

 軍勢が二手に分かれる。明智左馬助(さまのすけ)次右衛門(つぎえもん)率いる別働隊が、一刻遅れて妙覚寺へ向かう。信忠が信長と合流する道を断ち、親子を確実に仕留めるための、光秀の冴えた采配であった。

 

 夜明け前、京の街は濃い霧に包まれた。

 本能寺の四方を囲む兵士たちは、自分たちが包囲しているのが『織田信長』であることに、未だ気付いていない。ただ、目前の巨大な寺院が、自分たちの生と死を分かつ壁であることだけを悟り、槍を握り直る。


 『潜龍』の部隊は、事前に調べ上げた秘密の潜入ルートを使い、既に寺の深部へと入り込んでいた。本能寺に四人、妙覚寺に四人。彼らは闇に溶け、呼吸を殺し、明智軍が火を放つその瞬間を待つ。

 備中にいる官兵衛から殺害の指示は下っている。だが、その信長父子の遺骸を明智の手に渡すことは決して許されない。彼らの『首』を歴史の表舞台から永遠に消し去ることが厳命であった。

 

 遺体のない謀叛は、大義を失う。

 首を掲げられぬ光秀は、ただの『人殺し』として世に捨てられる。

 

 官兵衛の算盤(そろばん)が弾き出した『歴史の余白』。そこを埋めるのは、光秀の野心でも利三(としみつ)義憤(ぎふん)でもない。首を持たぬまま勝者の都合で書き換えられる、残酷な『真実』であった。

 ご覧いただきありがとうございました。

 第四十話は、本能寺の変の前夜、信長親子の最後の団欒と、それを取り囲む『死の包囲網』を描きました。


 史実でも謎とされる『遺体が見つからなかった理由』。

 本作では、それを『光秀の手柄を奪い、歴史を迷宮入りさせるための官兵衛の謀略』として描いています。


 次回、ついに紅蓮の炎が本能寺を包みます。

 炎の中で、暗殺部隊『潜龍』が何を見るのか。

 そして魔王、信長の最期とは……。

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