第四話 迷える主君
ついに荒木村重が反旗を翻しました。
信長の怒りの炎が播磨へと迫る中、官兵衛の主君、小寺政職は激しく動揺します。
守るべきは家か、それとも息子、松寿丸の命か。
孤独な軍師、官兵衛の、命懸けの『説得』が始まります。
荒木村重の謀反が勃発し、織田軍への抵抗が強硬になると、織田軍の中国攻めの拠点になっている、ここ播磨(兵庫県)にもその影響が及んでいた。
安土からの音信が途絶え始めていた。
毛利は西から圧力を強め、荒木は東から牙を剥く。
織田軍の拠点であるこの播磨は今、まるで陸の孤島のように孤立していた。
焦燥感が、霧のように武将たちの心を覆い尽くしている……。
地元の豪族の御着城主、小寺政職は、織田家に従属を誓ったまでは良かったが、村重謀反から日に日に状況の悪化を感じていた。
そんな播磨の地にこの男はいた。そう、やがて天下を揺さぶるほどの軍師になっていく男、黒田官兵衛である。だがこの時は主君の姓を借り『小寺官兵衛』と名乗っていた。
そもそも、このたび周りの反対意見を押し切って羽柴軍への参陣を主君、小寺政職に進言したのが官兵衛なのである。
ある日、官兵衛は主君、小寺政職と向き合っていた。
部屋の隅にある行灯の火が、隙間風に小さく揺れている。
かつては播磨の雄として鳴らした小寺家だが、今、この部屋に満ちているのは、カビの匂いと、行き場のない絶望の重苦しさだけだった。外では冬を間近に控えた冷たい雨が、容赦なく瓦を叩いている。
「やっぱり毛利につくべきやったんちゃうか……。今からでも毛利と荒木と組んだ方が、小寺家は安泰かもしれん。」
と弱音を吐きだした。
官兵衛はまた始まったかという感じを全面に出して表情を濁らせた。
官兵衛を直視できず、常に指先で脇息を叩いている。
「わ、わしは悪くない。全て村重が悪いんや……。」
政職は湯呑みを手に取ったが、震える手で茶を零してしまった。
それすら拭おうとせず、ただ独り言のように同じ言葉を繰り返している。
官兵衛は主君のそんな姿は見たくなかった。
嘆きながらも父の代から仕えてきた恩義と、若き日の官兵衛を抜擢してくれた、かつての政職の面影を幻のように追い求めていた。
政職は続ける。
「実はのう官兵衛。今わしは摂津(荒木)殿からも誘われておる。一緒に旗を挙げてくれんかっちゅうて……。織田はもうお終いじゃとな。
なあ官兵衛、わしらもう一度毛利につかんか?」
政職の言葉を聞いた瞬間、官兵衛は膝に置いた拳を、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。
主君を怒鳴りつけたい衝動を、喉の奥で無理やり飲み込む。
官兵衛の脳裏には、長浜に送った松寿丸の顔が浮かんだ。
幼いながらも気丈に笑って「父上、必ずお戻りください」と言った、あの笑顔。
もし自分がここで取り乱せば——
もし主君が毛利に寝返れば——
その笑顔は、信長の刃によって永遠に消される……。
官兵衛はありとあらゆる情報網を駆使し、天下の潮目を読んだ結果、日の本を治めるのは織田信長以外にあり得ないと決めていた。
評定にて周りの家臣が、いくら毛利に付くべしと叫んでも、小寺家は織田家を支持すべきとの方針を主張し、最後には押し切っていた。
ところが、その主君の政職は産まれたばかりの赤子のように首がなかなか座らない。
もし主君が毛利方へと寝返ったなら、織田軍にとっての荒木村重のように、羽柴秀吉の喉元に突き付けられた槍先となる。
荒木村重のように毛利方に寝返ることだけは何がなんでも避けたかった。愛する家族のため、そして小寺家のためにも。
特に官兵衛は自身の嫡男、松寿丸を秀吉への忠誠の証の『人質』として昨年より長浜に送っている。我が子の命をも危険に晒すような真似は死んでもすべきではない。
この場はなんとかせねばという思いからやむを得ず、村重の説得を試みることにした。
官兵衛には荒木村重とのパイプがあったからだ。
織田軍の播磨進攻開始の時、播磨の国衆としていち早く荒木村重に賛同した過去がある。その後も織田家臣団の中では新参者同士、お互い通じ合うものがあったようだ。
官兵衛もまた、旧知の仲であるがゆえに、荒木の謀反を信じられなかった一人である。この眼で確かめなければという思いと、若さゆえの過信とも言えるかもしれないが、自分なら説得できる可能性を感じていた。
「殿!なにを迷われとってです。摂津(荒木)殿が逆心を抱いたっちゅう話、わしが有岡まで行って、直に談判してきま!
摂津(荒木)殿の目を覚まさせて、織田の殿に詫びを入れさせてみせますさかい。わしを信じて、待っとってつかあさい!」
小寺家で若くして頭角を現してきた官兵衛の意見を主君の政職は無下にできない。ただ政職の元には村重から共謀の誘いも来ている。官兵衛の進言を聞いて、それでも一応考えるフリだけはした。
政職は、手元の扇子を苛立たしげにパチリと鳴らした。その目は官兵衛を見ているようでいて、その実、はるか西の毛利や北の荒木を恐れ、泳いでいる。
「官兵衛、ええか。もし摂津(荒木)殿が思い留まって、織田の殿へのお味方を続けるっちゅうんなら、わしもこれまで通り信長に付いていく。せやけど、荒木が本当に背くっちゅうんなら……わしにも考えがあるわな。
とにかく、お前が行って摂津(荒木)殿の腹の内を確かめてこい!」
これを受け、官兵衛は主家を守るため、そして織田軍の窮地を救うための交渉役となっていくのであった。
噂に聞く村重の豹変ぶり。かつて共に酒を酌み交わした時の温厚な顔と、今の『謀反人』としての顔が官兵衛の脳裏で交錯していた。
それともう一つ、官兵衛の脳裏に浮かんだのはあの、第六天魔王、信長の姿だった。
かつて安土で見た信長のあの眼光が、今も官兵衛は忘れられない。今回村重を説得出来なければ、播磨は、そして我が子の命は、あの炎のような怒りに呑み込まれるだろう……。
なぜならば、荒木村重を織田軍に引き入れた張本人がこの官兵衛なのである。その荒木村重が謀反を起こしたため、仲介した官兵衛の立場も微妙になってきていた。
とにかく今は事を前に進めねばならない。官兵衛は泥を撥ね飛ばし、秀吉の待つ本陣へと急いだ。
御着城を飛び出した官兵衛の頬を、凍てつくような雨が打つ。馬の蹄が叩く泥水が、愛用の袴を汚していくが、今の官兵衛にはそれを拭う余裕など微塵も無かった。
前方には、秀吉の陣を照らす篝火が、雨に煙りながらもかすかに見えている。その灯りだけが、この暗闇に包まれた播磨において、官兵衛が信じられる唯一の道標だった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
情けない主君に翻弄されながらも、泥まみれで馬を走らせる官兵衛。地元の主君との対話は、敢えて当時の播磨言葉で描写しました。今見たら泉州弁みたいな方言ですよね。
次回、いよいよあの『陽』の男、羽柴秀吉が登場します。




