第三十九話 焦がれた福音
備中、高松。泥に沈む城を眺めながら、官兵衛は『最後の一片』を待っていました。
織田信長を死地へ追いやり、その後の天下を掠め取る。
その壮大な計画を完成させるためには、どうしても必要な情報がありました。信長がどこで眠るのか。
『場所はどこだ……。』
算盤を弾き、冷徹に時を待つ官兵衛の前に、一筋の光、『福音』が届きます。
ついにカウントダウンが始まります。
五月二十一日。
井上九郎右衛門から報せが届いた。口伝を預かった草(忍者)が官兵衛に耳打ちした。
「注進……。兵部大輔(細川)殿から『十兵衛(光秀)同意せり。御座所の報せを待つ』とのこと。」
官兵衛は当然の事と驚きもせず、無言で頷いた。ここまでは官兵衛の想定内である。ところが茶会がどこで催されるのか……。官兵衛はその報せを待ち侘びていた。
「九郎右衛門に口伝せよ。『明智殿は御座所の報せが届くまで愛宕山にて連歌の座でも設けて時を稼ぐべし。』と……。」
草(忍者)は頷いて姿を消した。
愛宕山は勝軍地蔵を祀る、武士にとっての『戦勝祈願』の聖地。例え信長の耳に入っても時間稼ぎとは思われないと考えての口伝であった。
(もし……間に合わねばどうするか……。備中への道の途中で一から罠を張るしかないか……。)
そんな官兵衛の動きを知るはずもない秀吉が、子供のような満面の笑みを浮かべながらやって来た。
「官兵衛! 見ろ、上様からの書状じゃ! 六月二日に京を発ち、数日のうちにこの備中へ到着されると仰せだがや。」
官兵衛はまるで初めて聞いたかのような表情を作った。
「いよいよ面白くなってきおったわ!
上様を一日も早くこの備中へお呼びして、天下の扉をこっから一気にこじ開けてやるんだがや……。がはは!やってやろうみゃあか、官兵衛!」
官兵衛は愛想で微笑んだが、秀吉の言葉は上の空だったが、とりあえず官兵衛は秀吉に応えた。
「筑前(秀吉)殿……。まさに、天の配剤。これにて毛利の命運は尽き、殿の天下への道が確かなものとなりました。上様ご自身が数万の大軍を率いてこの地に現れれば、毛利は戦わずして膝を折りましょう……。もはや、一刻の猶予もございませぬ。」
秀吉は官兵衛の肩を軽く叩いた。この男だけはいつも太陽のように温かい。
「ああ、わかっておる! 小一郎には、上様をお迎えする街道の整備をさらに急がせるとするがや。」
「小一郎殿のご尽力で、上様が全軍を引き連れてこの地へ雪崩れ込んでくるための道が整いつつありまする。これこそが、我が羽柴家が天下を掴むための、最後の一手……。」
五月二十五日。
官兵衛が命じた『王道』の普請は、既に狂気の色を帯びていた。長秀が動員した数千の人足たちが、泥まみれになりながら街道を削り、巨石を運び、石を敷き詰めていた。街道の両脇には、炊き出し用の巨大な竈が延々と並び、周辺の村々から徴収された米や野菜が、まるで戦勝祝いのように積み上げられていく。
「休むな! 上様をお迎えする道だ。一歩の遅れも許されぬぞ!」
長秀の怒号が響く。彼は自分に言い聞かせていた。これは忠義なのだと。だが、その瞳に映る『夜を徹して明るい街道』は、まるで死者を冥土へ送るための灯籠のようであった。降り続く五月雨が人足たちの体温を奪い、泥濘が足を捕らえる。だが、官兵衛が算盤で弾き出した『十日』という刻限が、死神の鎌のように彼らの背を追い立てていた。
「まだか……。茶の湯の御座所が二条御所か本能寺か……。これ以上待つべきか……。」
場所が特定出来ないまま、信長が京を出発してしまえば全てが終わる……。次なる機会はいつやってくるかわからない。
官兵衛の掌に汗が滲む……。
官兵衛は算盤を弾きながら、京の地図を指でなぞる。光秀が坂本や亀山から軍を動かすための最短ルート。信忠が滞在する寺との距離。それらすべてを幾通りもシミュレーションし、光秀の思考をなぞっていく。
日没時。
京都から、命を削って走った草(忍者)が、泥の塊のような姿で転がり込むように戻り、息を切らせながら官兵衛に耳打ちした。
「注進……。茶会と宿所は『本能寺』。供回りは百に満たず。中将(信忠)様が宿所は妙覚寺……。」
(間に合った……。)
「本能寺か!」
官兵衛は立ち上がり、杖を激しく卓に突き立てた。その瞬間、彼の脳内で最後の一玉がパチンと弾けた。
官兵衛は人目につかない薮の中に入り高松城の方に向き直し杖を鳴らした。
すぐさま五人の草(忍者)が背後に近づき片膝をついた。玄武を頭とする、官兵衛の草(忍者)の中でも選りすぐりの、暗殺部隊『潜龍』である。
「一つ、六月二日未明、本能寺にて、明智殿が事を起こした混乱に乗じ、織田信長公を仕留めよ。信忠殿は妙覚寺。
二つ目、これが肝要……。父子の『首』を、跡形もなく消し去れ!」
彼らは黙って頷き、1人ずつ足早に消えた。
(明智殿が首級を上げれば、必ずや天下の主として諸将に号令をかける……。それを阻止せねばならぬ……。証拠なき反逆者は、ただの迷い子よ。その隙に、わが軍が『弔い合戦』の旗を掲げて駆け戻る。我らの王道を……。)
官兵衛の計略は、光秀に反逆を促しつつ、その手柄を根底から奪い去るという、血も凍るような二重の罠であった。
再び官兵衛は先程とは違う音を杖で鳴らした。すると今度は別の1人現れた。
「これより丹後へ走れ。兵部大輔(細川)殿に口伝せよ……。『日取りは六月二日未明、場所は本能寺。守りは百。道は既に、こちらで整えた』……。行け! 間に合わねば、己の腹を切れ!」
五月二十六日から二十八日にかけて、官兵衛の放った『言葉』の刺客たちは、山を越え、谷を抜け、命を賭して走った。
丹波、亀山城。井上九郎右衛門、細川藤孝を通じて明智光秀はその『口伝』を受け取り、暗闇の中で戦慄した。紙はない、証拠もない。だが、藤孝の口から発せられたその言葉は、官兵衛からの『招待状』であった。
「本能寺……。そして、筑前(秀吉)が京に上る道を整えたか……。」
光秀の脳裏に、安土での屈辱が蘇る。そして、この情報のあまりの完璧さが、彼を死地へと誘う甘い蜜のように感じられた。
五月三十日。中国路には、数万の松明が運び込まれ、山と積まれていた。
泥にまみれ、不眠不休で指揮を執り続けた長秀は、完成しつつある『異様なまでに整った道』を見つめて立ち尽くしていた。
「官兵衛殿……。この道、あまりに不気味だ。まるですべてを見通しているかのように、一点の淀みもない。この道を通るのは、本当に上様なのかや?」
長秀の声は、雨音に混じって震えていた。官兵衛は無言のまま、算盤の最後の一玉をパチンと弾いた。
五月三十一日。すべての情報は光秀に届き、長秀の道は完成し、官兵衛の計算は一点の狂いもなく完結した。同時に、京に潜む官兵衛の『潜龍』たちも、静かに本能寺の周囲に配置された。
備中、高松。
官兵衛は天幕から出て、降りしきる雨の中に杖を突いて立ち上がった。泥濘の中に杖が深く突き刺さる。官兵衛は、雨の向こうにある京の空を見つめ、静かに、だが熱く囁いた。
「半兵衛殿……。半兵衛殿の言葉、『官兵衛にしかできぬこと』……。今、その幕が上がりましたぞ……。魔王を死地へ追いやり、信長親子の首を歴史の闇へと消し去る。その後の天下を掠め取る新しき世への道……。どうか、最期まで見届けてくだされ。」
官兵衛は暗闇の先、京都の方角を鋭く指差した。その瞳には、燃えるような狂気と、一切の迷いなき知性が同居していた。
「敵は……本能寺にあり。」
六月二日、本能寺の変。決行開始まで、あと一日……。
ご覧いただきありがとうございました。
第三十七話、タイトルを『焦がれた福音』といたしました。
官兵衛が待ち望んでいたのは、主君の死を告げる不吉な報せ。しかし彼にとっては、それこそが新しい時代の幕開けを告げる神聖な知らせ(福音)でした。
檻から解き放たれた怪物が杖一本で歴史を塗り替えていく。いよいよ次回、運命の謀反の前夜を描きます。




