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第三十七話 天の空洞

 高松城を水に沈め、毛利の動きを封じた官兵衛。

 しかし、彼の真の戦いはここから始まります。


 『信長が、京の茶の湯で隙を見せる……。』


 その予見だけを頼りに、官兵衛は誰にも悟られぬよう、前代未聞の『完全犯罪』の設計図を描き始めます。三万の軍勢を風のごとく走らせるための算盤の音、そして毛利の怪僧、安国寺恵瓊との、霧の中での密約。


 歴史が動く『その日』へ向けた、狂気と緻密さが交錯するシミュレーションをご覧ください。

 降り続く雨が、天幕(てんまく)の布を重く叩いている。その単調な音は、時に思考を妨げ、時に深い沈思(ちんし)へと官兵衛を誘った。

 

 夜、本陣の隅。官兵衛は一人、視覚から思考を巡らせるため、使い古された碁盤に向かっていた。彼は横に置いた石入れから、滑らかな感触の白石を一つ取り出し、その中心に静かに置いた。

 京都――信長が茶会の日に腰を据える地である。

 

 (決行の後、織田軍の諸将ですぐに駆けつけられる者は誰か……。)

 

 官兵衛は白石の右上に黒石を置いた。越中にて上杉景勝(かげかつ)と泥沼の交戦を続ける、柴田勝家である。

 

 (修理亮(しゅりのすけ)(柴田)殿の兵力は二万。越中から京までは八十里(約三百キロ)の道。(しら)せを聞いて戦を捨て、全軍を率いて戻るには、急いでも十四、五日はかかる。

 我らが足踏みしておれば、先を越されるは必定。後れを取れば、これまで積み上げた絵図はすべて灰に帰す。柴田軍より早く京に入らなければなるまい……。)

 

 次に、盤の右端に一つ、黒石を置いた。北条氏との国境を警備中の滝川一益(かずます)である。

 

 (関東の左近将監(さこんのしょうげん)(滝川)殿は五千の兵か……。距離も人数も恐るるに足らず……。)

 

 迷いなく、三つ目の石を盤の下方に置く。摂津・大坂・和泉を担当する丹羽長秀である。

 

 (もっとも京に近い五郎左衛門(ごろうざえもん)(丹羽)殿は一万の軍勢……。だが、つい先日信長より四国攻めを命じられたばかり……。四国からではすぐには動けまい……。)

 

 官兵衛は、盤上に置かれた石の『配置』を俯瞰(ふかん)した。中心にある白石を囲む守りは、一見強固に見えて、その実、各々が遠方の敵に縛り付けられ、身動きが取れなくなっている。

 ここで官兵衛は、京都が『空洞』に近い状態であることを確信していく……。

 

 (これら諸将の兵を差し引けば、信長の周りには、もはや枯れ木のごとき兵力しか残らぬ……。)

 

 官兵衛の指先が、再び石入れを弄ぶ。パチ、パチと石が触れ合う音が、雨音に混じる。

 

 (残る懸念は、信忠殿と三男、三七(さんしち)(神戸信孝)様か……。三七(さんしち)(神戸信孝)様は五郎左衛門(ごろうざえもん)(丹羽)殿と共に四国へ抜擢されたばかり……。

 問題は中将(ちゅうじょう)(信忠)殿だが、居城は岐阜……。信長が催す京の茶の湯に参じるか否か……。信長を亡き者にするならば家督を継いだ中将(信忠)殿も共に葬らねば……。

 中将(信忠)殿が自軍として動かせるは、せいぜい二、三千。明智軍一万五千をもってすれば、赤子の手をひねるようなもの……。茶の湯に来るなら好都合、京に来ぬならば明智軍を岐阜に差し向けるけるまでよ……。)

 

 見えてきた。官兵衛の脳裏には、日の本の地図が立体的に浮かび上がっていた。

 

 (天の配剤か。京の都は今、まさに巨大な空洞になりつつある。ここに信長父子が腰を据え、明智殿がその牙を向けた時、この日の本の主は……入れ替わる……。)

 

 計画の核心は『速度』にある。明智軍を使って信長、信忠父子を亡き者にする。だが、その後が本番だ。明智討伐を旗印に集まるであろう柴田、丹羽、滝川らの軍勢が京に到着する前に、羽柴軍がその場を制圧し、明智を叩かねばならない。

 官兵衛は、碁盤を睨みつけながら逆算を始めた。

 

 決行日から十日。それが限界だ。十日以内に、三万の軍勢を率いて京都に入らなければならない。


 (備中から京までは五十里(約二百キロ)余り……。通常ならば、大軍の足で十日はかかる道のりよ。なれど、(しら)せを耳にした後で毛利との和睦を瞬く間に片付け、間を置かずに出立すれば、不可能ではない。鉄砲やその弾薬、弓矢、大道具は、あらかじめ船で運ぶ手配をすればよいか……。)

 

 官兵衛は暗闇を見つめた。この前代未聞の機動戦、成功の鍵は一人の男にかかっている。

 

 (三万もの軍勢を、風のごとき速さで移動させる。これを誰に任せるか……。そうだ、小一郎(秀吉の弟、後の羽柴秀長であるがこの時は『長秀』)殿にお願いいたそう。あのお方ならば、兵たちの腹を満たし、足を止めぬ手配をしくじるまい。

 『上様の備中遠征ための兵糧と松明を、道々に用意せよ』という名目にすれば疑われまい……。)

 

 だが、京に放った草(忍者)から未だ具体的な『茶会の日と場所』の報せは届いていない。間に合うのか……。

 書状でのやり取りは厳禁。敵に捕らえられた際、紙片一つ残ることは、この計画の破滅を意味するからだ。

 報告はすべて口伝。官兵衛の頭の中にだけ刻まれる、実体のない言葉。

 官兵衛は脇に置いてあった算盤(そろばん)を引き寄せた。

 

 (三万の軍勢を一気に動かすとなれば、食い扶持(ぶち)の確保こそが最大の難問。一日移動するごとに、ざっと三百石の米を胃袋に放り込まねば、兵の足は止まる。それだけの量を、行軍を終える先々で、地の者に滞りなく用意させねばならぬが……。果たして、それほどの米があるか? 手持ちの備蓄米だけでは、到底足りそうにない……。)

 

 官兵衛の指が算盤(そろばん)の上を踊る。計算を終えるたびに、彼はその数値を記憶に焼き付け、次の計算へと移る。

 

 (ならば、街道沿いの商人どもを片端から買収し、ありったけの食糧を買い占めさせ、準備させる他あるまい。このあたりの実務、そして地の者への差配(さはい)は、小一郎殿に相談いたそう。あのお方の緻密さと、商いへの通じ方があれば、不可能な計画ではない。)

 

 計算を終え、官兵衛は筆を執りかけて、思い直して止めた。この計算結果すら、今は残すべきではない。すべては己の脳内という、誰にも暴けぬ密室に閉じ込めておくのだ。不自由な右足を摩る。梅雨の湿気が古傷を鈍く(さいな)むが、その痛みさえ、官兵衛には心地よい研磨剤となっていた。


 翌日、備中高松城を望む小高い丘の上。

 周りを気にしながら、官兵衛は一人の男と対峙していた。毛利の知恵袋、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)である。

 

 官兵衛は湖面に浮かぶ、今や孤島と化した城を眺めながら、ぬるめの茶をゴクリと飲み込んだ。そして、恵瓊の眼も見ずに、独り言のように問いかけた。

 

  「恵瓊殿。この高松の水、いつになったら乾きましょうか?」

 

 恵瓊は官兵衛の横顔を盗み見た。

 少しの間を置き、官兵衛と同じく、泥水に沈む城を眺めながら答えた。

 

 「黒田殿、水は引けば泥が残りますな。泥の中から、次の蓮(次の王)が咲くのはいつ頃か……。」

 

 官兵衛は内心で口角を上げた。相手がこちらの意図を察し、乗ってきた。

 

 「聞くところによると近々……、京で大きな『雷』が落ちると、占いにありまして……。雷が落ちれば、水も一気に干上がりましょう。」

 

 恵瓊の肩が、微かに揺れた。驚きを即座に殺し、毛利の安泰を確約させるための隠語を返す。

 

  「ほう……。その雷、毛利は濡れずに済みますかな?」

 

  「恵瓊殿、御身(おんみ)が濡れてしまわぬよう、傘(和睦の条件)は用意しております……。代わりに、雷の後は、日の出の邪魔をなさらぬよう。恵瓊殿には、そのあたりを整えていただきたい。」

 

 日の出――すなわち、織田なき後の新しき時代の到来。

 

 恵瓊は不敵な笑みを浮かべた。その鋭い眼光を官兵衛に向けたまま、音もなく一礼し、霧の中へと去っていった。

 

 残された官兵衛は、再び空を見上げた。不自由な足が、また(うず)いた……。官兵衛の瞳に宿る闇は、降り続く小雨よりも深く、そして(くら)かった。




 最後までお読みいただきありがとうございます。

 

 今回は後に『中国大返し』と呼ばれる奇跡の行軍が、実は突発的なものではなく、官兵衛によって『事前に計算して準備していた』という説に基づき、その執念を描きました。


 『信長の援軍のための準備』という目的で、あらかじめ街道の食糧を買い占める。

 これならば、誰も疑うことなく、羽柴軍の準備を手伝ったはずです。まさに官兵衛らしい、人の心理を突いた『隠れ蓑』と言えるでしょう。


 そして、安国寺恵瓊との『雷』と『傘』の会話。

 この密談があったからこそ、あの大事件の直後、驚異的な速さで毛利との和睦が成立した……。歴史のパズルが一つずつ繋がっていく感覚を楽しんでいただければ幸いです。

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