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第三十四話 細川藤孝(後編)

 官兵衛の真意を見抜いた細川藤孝。

 茶室に満ちるは、一切の逃げ場を許さぬ忍びの殺気。

 『光秀を地獄へ突き落す猛毒だ』と断じる藤孝に対し、官兵衛はかつてない冷静さを武器に、最後の説得を試みます。

 友を救うための『毒』か、家を滅ぼす『毒』か。

 歴史の歯車が、一人の男の震える決断によって回り始めます。

 官兵衛は眉ひとつ動かさなかったが、藤孝の鋭い嗅覚(きゅうかく)には内心で舌を巻いていた。

 ここで見抜かれ、拒絶されては全ては灰燼(かいじん)に帰す。官兵衛はわずかに目を伏せ、最適な『回答』を導き出すために全神経を研ぎ澄ませた。

 二、三秒。常人には刹那(せつな)に過ぎぬその時間で、官兵衛は藤孝を逃がさぬための網を組み替えた。彼は顔を上げず、ただ優雅な手つきで、先ほど置いた狂い咲きの花を、慈しむように指でなぞった。

 

 「兵部大輔(ひょうぶのたゆう)(細川)殿……。そのような恐ろしき『勘繰り』、どうか胸の内にお留めくだされ。(それがし)は、ただこの果てなき乱世の終わりを願う、一介の軍配者に過ぎませぬ。」

 

 官兵衛の声は、春風のように柔らかく、毒気を感じさせない。だが次の瞬間、茶室の空気が一変した。官兵衛がその濁った瞳を、初めて真っ直ぐに、射抜くような鋭さで藤孝へ向けたからだ。

 

 「ですが、兵部大輔(ひょうぶのたゆう)(細川)殿……。ひとつ、お忘れではござらぬか。上様の目は、すでに惟任(これとう)(明智)殿の『背』を(にら)んでおられます。惟任(これとう)(明智)殿が幾度辱めを受けようとも耐えてこられたのは、貴殿のような友がいたからこそ……。なれど、上様の堪忍袋は、もう底が抜けておりますゆえ……。遅かれ早かれ惟任(これとう)(明智)殿の破滅は免れぬかと……。実は四国の件も此度の話において、桔梗が山を赤く染めやすくなるよう、仕掛けたまででござる……。」

 

 官兵衛は、蛇が()うような音を立てて藤孝の耳元まで顔を近づけた。行灯(あんどん)の火が激しく揺れ、二人の影が壁に巨大な怪物のように映し出される。

 

 「かつて、義を重んじた浅井長政公がどうなったか……。あるいは、爆炎の中に消えた松永久秀殿。そして、一族諸共、河原で首を並べた荒木村重殿の家臣たちの末路を、貴殿は見てこられたはず……。」

 

 藤孝の喉が、引きつるように動いた。

 

 「(それがし)が今、この茶室を出た後、『惟任(これとう)(明智)殿に逆意あり、兵部大輔(ひょうぶのたゆう)(細川)殿もこれに同調の構え』と一筆したためれば……。惟任(これとう)(明智)殿も、そしてこの細川家も、さらには兵部大輔(ひょうぶのたゆう)(細川)殿がお命より大切にしておられる『古今伝授』も……一晩にして塵一つ残らず消え去りましょう……。上様は、疑わしきは殺すお方。それは貴殿が一番よくご存じのはず……。」

 

 「お、脅すのか……。このわしを!」


 官兵衛の草(忍者)の殺気は頂点に達した。毒を塗った吹き矢が細川藤孝の喉元を狙っていた。官兵衛はその殺気を制するように口を開いた。

 

 「滅相もございませぬ。」

 

 官兵衛は、床に額をこすりつけるほど深々と平伏した。その姿は、主君に仕える忠臣そのものである。だが、伏せたまま語る声は、地底から響くように冷たい。

 

 「これは『脅し』ではなく、黒田官兵衛からのご奉公にございます……。兵部大輔(ひょうぶのたゆう)(細川)殿、貴殿が『声』を届ければ、惟任(これとう)(明智)殿は『救世主』として歴史に名を刻む。我らはその背を支え、二度と血の流れぬ世を共に創る……。むろん『古今伝授』も継承されましょう。

 だが、もし貴殿が沈黙を守り、我らを見捨てれば……貴殿は、惟任(これとう)(明智)殿が処刑され、その一族が根絶やしにされる様を、ただ指をくわえて眺めることになる。それどころか、細川の家も連座の業火に焼かれましょう。」

 

 「…………。」

 

 「どちらが、友への『誠』にございましょうか。……どちらが、『古今伝授』を守る『(ことわり)』にございましょうか。」

 

 藤孝は全身の力が抜けていくのを感じた。官兵衛の言葉は、絹のように滑らかで美しいが、その内側には、今まで見てきたどんな名刀よりも鋭利な死が隠されている。

 

 (この男……土牢で鬼になったのではない……。神仏をも(あざむ)く『怪物』になって戻ってきたのか……。)

 

 官兵衛は、藤孝の心が折れる音を聞き逃さなかった。彼はトドメを刺すべく、一人の男の名を出した。

 

 「さらには……。兵部大輔(ひょうぶのたゆう)(細川)殿は、竹中半兵衛という軍配者の名はご存じですかな?」

 

 「た、竹中……半兵衛殿……か……。」

 

 藤孝が、苦いものを()み潰したような顔で呟いた。

 

 「かつて美濃にて、わずか二十人足らずで城を盗ったあの男……。私利私欲ではなく、主君の行いを正すための暴挙……。武家のみならず、都の公家たちの間でも『あまりに鮮やかで恐ろしい』と今も語り継がれる軍配者……。」

 

 官兵衛の眉がピクリと動いた。杖を握る右手に、白くなるほど力がこもる。

 

 「左様……。なればこそ、これは官兵衛一人の邪心ではございませぬ……。かつて半兵衛殿が、その命を()してまで、筑前(秀吉)殿という器にこの国の未来を託した……その最後の遺志にございます。」

 

 官兵衛の瞳が、暗い茶室の中で異様な、狂気にも似た光を放った。

 

 「半兵衛殿は病床で、(それがし)にこう遺されました。『軍配者とは、主を勝たせるためではなく、乱世を終わらせるためにこそある』と。あの御方は志半ばで倒れましたが、その魂はこの官兵衛の中で、今もまだ軍配を振られておりまする。……よってこの官兵衛の言葉、わが師、竹中半兵衛の言葉としてお聞き入れ下され。」



 

 少しの沈黙が流れた。 

 

 「わ……わかった……。」

 

 藤孝の口から、乾いた砂のような声が漏れた。完敗であった。

 

 「十兵衛に会おう。官兵衛殿、お主の言う通り……『薬』を届けて参る。」

 

 官兵衛は伏せたまま、唇の端をわずかに吊り上げた。暗闇で見せる、獲物を仕留めた獣の笑みであった。

 

 「賢明なる御判断、恐悦至極(きょうえつしごく)に存じます……。惟任(これとう)(明智)殿には、もう一つだけお伝えください。『桔梗(ききょう)が一気に山を赤く染め上げるとき、備中の我らは、速やかに動き、惟任(これとう)(明智)殿の背後を固めます。』と……。これで、惟任(これとう)(明智)殿の背後を襲う敵は、どこにもいなくなりますれば……。」

 

 官兵衛が顔を上げたとき、その表情には、先ほどまでの冷徹さは微塵もなかった。ただ、一輪の花を慈しむような、穏やかな笑みが浮かんでいるだけだった。

 

 「追って……桔梗が動くべき刻限と場所については、我が手の者よりお知らせ申し上げまする。それまで、ゆめゆめ油断召されぬよう……。さて、備中へ戻り、(それがし)も『雨支度』を始めねばなりませぬ。」

 

 官兵衛は一度下がり、杖を突いてゆっくりと立ち上がった。深々とした、一点の曇りもない完璧な一礼。そして、何も言わず黙って茶室を出て行った。

 廊下を歩む官兵衛の足音と、不規則に響く杖の音が、藤孝の震える茶室にいつまでも残響していた。やがてそれも遠ざかり、再び静寂が戻る。

 

 藤孝は茶碗を手に取ろうとしたが、指先が激しく震え、茶を飲むことすらできなかった。脅された恐怖だけではない。日の本を根底から(くつがえ)す巨大な叛乱(はんらん)の歯車に、自らが指をかけてしまったという事実に、魂が震えていたのだ。

 茶室を取り囲んでいた草(忍者)の殺気が、霧が晴れるように消えていく。知らぬ間に細川は腰を抜かしてしばらくの間、立ち上がる事も出来なかった……。

 

 官兵衛の約束した『身内』に、光秀は含まれていない。その残酷な真実を細川藤孝が知ったのは、本能寺の変の翌日のことである。

 最後までお読みいただきありがとうございます。

 『軍配師とは、主を勝たせるためではなく、乱世を終わらせるためにこそある』

 官兵衛が口にした半兵衛の言葉。それはかつて三木合戦の陣中で倒れた友から託された、重すぎるバトンでした。

 藤孝を『共犯者』へと引きずり込み、官兵衛は再び戦場へと戻ります。

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