第三十三話 細川藤孝(前編)
天正十年五月。織田信長による『甲州征伐』が終わり、武田家が滅亡したことで天下の趨勢は織田へと完全に傾いたかに見えました。
しかし、その巨大な組織の足元では、確かに、しかし確実に『魔王』を討つための舞台装置が組み上げられていました。
黒田官兵衛が選んだ次なる一手は、明智光秀の朋友であり、当代随一の知識人、細川藤孝との接触。
静寂に包まれた茶室で、歴史を塗り替えるための『毒』が、和歌の調べと共に注がれようとしていた。
桜も見頃を終え、季節は初夏へと向かっていた。
天正十年五月。
官兵衛の元に、京の草(忍者)から一報が届いた。甲州征伐を終えた細川藤孝が、本領である丹後、田辺城に帰還したという。
待っていたのは、この報せであった。
官兵衛は直ちに、京の都へ情報収集に赴くと秀吉に伝え、しばしの暇をいただくと、備中から馬を飛ばした。
官兵衛がわざわざ京を経由したのは、単なる通過点ではない。魔王、信長が滞在する洛中の『風』を肌で感じ、そこに潜ませた配下の草(忍者)たちから直接情報を吸い上げるためであった。
有岡城の土牢で損なった足は、今も官兵衛に疼きを強いる。馬を降り、杖を突いて歩くその姿は、誰の目から見ても『戦えぬ不具の身』に見える。これこそが、魔王を討とうとする大逆の意志を隠すための、最良のカモフラージュであった。
官兵衛は人気のない寺の境内で馬を降り、切り立った石畳の上に立った。
黒檀の杖を一度、深く突き立てる。それが、周囲に潜む草(忍者)たちへの無言の問いかけであった。
返る音はない。だが、官兵衛が目を閉じた一瞬の静寂の間、配下の隠密が音もなく現れ、その耳元で極めて低く、ささやいた。
「兵部大輔(細川)殿、間違いなく昨夜、宮津に入城。」
官兵衛は表情を変えず、ただ一度だけ深く頷いた。
情報の精度に狂いはない。京へ立ち寄ったのは、その情報の最終的な裏付けを取り、同時に信長の周囲に不穏な火種がないかを確認するためだ。
「明智殿と兵部大輔(細川)殿の連動、つぶさに報せよ。」
命じ終える前に、背後の気配はすでに消えていた。
官兵衛は再び馬に跨り、丹後へと続く街道を北上する。
行き先を『京都』と告げていたのは、秀吉や織田の監視の目を逸らすための隠れ蓑に過ぎない。官兵衛の本当の目的は、この乱世の転換点において、最も信頼に足る『知恵袋』である細川藤孝を、自らの陣営に引き込むことにあった。
藤孝は光秀の親戚であり、光秀が最も信頼を寄せる『知の巨人』である。彼をこちら側の絵図に引き込むことができれば、光秀という重い扉は容易に開く。しかし、相手は天下の碩学。一切の物証を残さず、かつ『共感』という名の毒を魂に流し込む必要があった。
ある深夜。灯火を極限まで落とした細川家の茶室に、影が滑り込んだ。官兵衛の草(忍者)が配置に着く。官兵衛に危険が迫った時は細川藤孝の命を狙うように事前に指示されている。
もちろん他の者が放った草(忍者)の監視も担っていた。
小姓が恐縮した様子で、奥へ声をかけた。
「殿、備中より黒田様がお見えです。」
細川藤孝は、手元に置いていた書物から顔を上げた。旧知の仲とはいえ、羽柴の軍師が深夜に訪ねてくるとは何事か。
「これはこれは官兵衛殿……。このような夜更けにどうされた?備中の戦がまもなく始まろうというのに……。」
官兵衛は無言で一礼をしたのち、藤孝の真正面に座った。杖を脇に置き、懐から一つの包みを取り出す。
中から現れたのは、枯れた枝の先に、一輪だけ弱々しく、しかし妖艶に咲いた『狂い咲き』の花であった。
官兵衛はそれを藤孝の前に差し出し、火の消えかけた行灯を見つめたまま言った。
「兵部大輔(細川)殿……。この一輪、『時』を読み違えて咲いた狂い花に見えましょうか。それとも……古い『時』を終わらせるために、命を削って咲いたように見えましょうか。」
藤孝の眼光が鋭さを増した。官兵衛の言葉は、常に多義的で、深淵を覗き込むような危うさがある。お互いに当代一流の教養人。言葉の裏にある『刃』の感触を探り合う沈黙が、茶室に重く立ち込めた。
藤孝の脳裏に、古の歌がひとつよぎった。
色も香も 昔の濃きに 匂えども
植ゑけむ人の 影ぞ恋しき
(花の色も香りも昔と変わらず美しく咲いているが、植えたはずの人の姿だけがどこにも見当たらない。)
藤孝は草(忍者)の耳を警戒しつつ、静かに口を開いた。
「古今和歌集にはこうある……。『色も香も 昔の濃きに 匂えども』。だが……その先は続けられぬ……。安土の大殿が健やかなるときは、下の句を詠むことは、不吉とされよう。」
「左様……。」
官兵衛はニヤリと不敵な笑みを一瞬浮かべたが、すぐに口元を締め、地を這うような響きでささやいた。
「ならば、季節を無理にでも進めねばなりますまい……。初夏の風を待たずして、『桔梗』が一気に山を赤く染め上げるとしたら……貴殿はその景色、美しいと思われませぬか?」
桔梗は明智家の家紋。それが山を赤く染める……。それは返り血に染まった謀反の暗示に他ならない。藤孝は、背筋に氷の柱を立てられたような戦慄を覚えた。思わず喉が鳴った。
「桔梗が……赤く? そ、それは、あまりに危うい……。官兵衛殿、貴殿は返り血を浴びる覚悟か。いや、それ以上の地獄を背負う気か。」
官兵衛は杖の先を使い、畳の上にスッと一本の線を引いた。その線は官兵衛から始まり、藤孝の膝元へと繋がっている。
「兵部大輔(細川)殿、案じられますな。桔梗が冷たき露に濡れぬよう、我らがすぐに『西から大きな傘』を広げ、その背後を守ります……。この傘の下に入る者は、新しき世における『連歌の座』を約束される。これは官兵衛の妄言ではございませぬ。『西の我が殿』の、声なき誓いにございます。」
藤孝は、官兵衛が引いたその一本の『線』を凝視した。それは境界線であり、処刑台への導火線でもある。激しくなる動悸を抑え込み、藤孝は絞り出すように問うた。
「官兵衛殿……その傘は、誠に十兵衛(光秀)を雨から守ってくれるのだな? 途中で畳み、一人だけ濡れ鼠にするような真似は……。」
官兵衛は一瞬、ゾッとするほど無機質な笑みを浮かべ、藤孝の耳元に唇を寄せた。屋根裏にも床下にも漏らさぬ、微かな風のようなささやき。
「羽柴は、『身内』を裏切りはいたしませぬ。ただ、貴殿のその『声』を、惟任(明智)殿に届けていただきたい……。文など、火にかければ灰にございます。ですが、友の耳に残った貴殿の『声』は、死んでも消えませぬ。さあ、兵部大輔(細川)殿。夜な夜な怯えている惟任(明智)殿に、極上の『薬』を届けてやってはくださりませぬか。」
勝負は決した――そう確信した官兵衛の耳に、冷水を浴びせるような答えが返ってきた。
「官兵衛殿……。すまぬがその誘いには乗れぬ。」
藤孝のその声を機に、茶室を囲む草(忍者)は音も無く殺気だった。
「十兵衛(光秀)にそのような薬を渡せば、それは薬ではなく、彼を地獄へ突き落とす猛毒となる。官兵衛殿、お主は、十兵衛(光秀)が立ち上がった後、本当に彼を守るつもりがあるのか……。先の四国の一件もある……。筑前(秀吉)殿は笑岩(三好康長)殿を引き立て、十兵衛(光秀)の顔を潰したばかり……。火を放たせるだけ放たせ、後はその火を消すふりをして、お主たちがすべてを飲み込むつもりか?」
藤孝の目は、全てを見通すかのように鋭く光っていた。やはり『知の巨人』。官兵衛が描いた『光秀に主君を殺させ、その光秀を討つことで天下を奪う』という恐るべき結末の輪郭を、彼は一瞬で見抜いていたのである。
最後までお読みいただきありがとうございます。
『知の巨人』細川藤孝と『土牢の怪物』黒田官兵衛。
一見、風流な連歌のやり取りに見えるこの対話は、その実、一文字でも踏み外せば命を落とす、極限の心理戦でした。
官兵衛が示した『西からの大きな傘』という甘い誘惑。しかし、藤孝はその裏に潜む、光秀をも食い潰そうとする官兵衛の真の狙いを見抜きます。
拒絶を口にした幽斎に対し、官兵衛が放つ次なる言葉とは。
次回、第三十三話 細川藤孝(後編)。
官兵衛の『軍師』としての本領が、幽斎の魂を屈服させることができるのか。




