第三十二話 引き金
天正十年四月。武田家を滅ぼし、天下布武を目前にした織田信長の視線は、西国、毛利へと注がれていました。
しかし、その先鋒を務める羽柴軍の軍師、黒田官兵衛は、毛利を倒すこと以上に巨大な『歴史の転換』を独り、暗闇の中で描き始めていました。
信長を討ち落とすための『鉄砲玉』として、明智光秀を選んだ官兵衛。次なる一手は、その弾丸を暴発させるための『火薬』と決して折れることのない『引き金』を盤面に配置することでした。
天正十年(1582年)四月。
備中、毛利攻めがいよいよ始まるという局面で、黒田官兵衛の思考は、濁流のような勢いで加速していた。
標的は定まった。鉄砲玉に据えるは、明智光秀。だが、ただ銃を置くだけでは弾は飛ばぬ。その背中を押し、引き金を引かせるための『火薬』、そして光秀を動かせる『引き金』が必要であった。
(まずは火薬よ。明智殿の右腕、斎藤利三。あの男こそが、この計略の導火線となる。)
官兵衛は、草(忍者)から届いた情報を頭の中で整理する。斎藤利三は、長宗我部元親の正室の兄にあたる。光秀と元親を繋ぐ太い鎖こそが利三なのだ。今、信長公が四国への武力侵攻を決め、長宗我部を討とうとしていることは、利三にとって身内の危機であり、主君、光秀の外交的敗北を意味する。
官兵衛の思考は止まらない。
(利三殿は剛直な男。妹の嫁ぎ先が理不尽に滅ぼされるを黙って見てはおれまい。主君を動かし、運命を変えようと必死に足掻くはず……。その焦りが、明智殿の迷いを殺意へと変える火薬となろう……。
だが、それでも明智殿は動かぬ……。あの男は、古き秩序を重んじる。独りで『謀反』という大罪の深淵を覗き込むには、あまりに足場が弱すぎる……。)
さらなる問題があった。信長の重臣明智光秀を秀吉旗下の官兵衛に操れる術は無いに等しいのである。互いに認識はしているだろうが、まともな会話をした事など無いに等しいので、密談など不可能なのである。
(明智殿にとって、わしは功を競い合う同輩、筑前(秀吉)殿の、一介の家臣に過ぎぬ……。ましてや筑前(秀吉)殿が明智殿の面目を完膚なきまで潰した矢先……。格下のこの官兵衛がどれほど正論を吐き、天下の行く末を説いたところで、明智殿は動くまい……。ならば、あの男の鎖を解き、背中を突き飛ばせる唯一の『引き金』を動かすまで。)
官兵衛の脳裏に、優雅に扇を操りながら、底知れぬ眼光を放つ一人の貴公子の姿が浮かんだ。
細川……藤孝……。
一言で言えば『知の巨人』である。類まれなる先見性と学識で細川家を乱世に生き残らせ、同時に日本の伝統文化を絶滅から救おうとする超人。
和歌、茶の湯、書道、囲碁、果ては水泳や料理に至るまで、あらゆる芸道でトップクラスの実力を持つエリート中のエリートである。
さらには『古今和歌集』の秘伝を継承する『古今伝授』の唯一の継承者として、朝廷からも一目を置かれる存在だ。
かつて足利将軍に仕えてきたが、信長の力が強くなると、足利将軍を見限って信長に仕えた。これは彼にとって生き残る事は、自らの命を守るというより、『日本文化の灯火を消さない』という巨大な公務という事である。
何より、光秀と藤孝は一蓮托生の仲であった。光秀の娘、玉(後のガラシャ)が藤孝の嫡男、忠興に嫁いでおり、二人は親戚関係にある。光秀が真に心を許し、弱音を吐ける相手は、この藤孝をおいて他にいない。
官兵衛と藤孝は、織田陣中で何度か顔を合わせるうちに、連歌を通じて意気投合していた。齢は官兵衛より一回り上だが、有岡城の土牢から生還した官兵衛の『変貌』を、藤孝は知的な興味を隠さず受け入れていた。藤孝のような男は、他人の心の奥底にある『暗部』に敏感であり、同時にそれを楽しむ不敵さを持っている。
(兵部大輔(細川)殿なら、光秀殿を動かせる……。いや、兵部大輔(細川)殿に『動かざるを得ない』と思わせればよいのだ。彼もまた、信長のあまりに急速な変革が、古き日本の文化を焼き尽くすことを恐れているはず。信長という炎が、自分が守るべき『伝統』の林まで焼き払おうとしている……その恐怖を、わしが少しだけ煽ってやれば良い。)
翌朝、軍議の場で会った秀吉が、官兵衛の顔を覗き込み、不審げに声をかけた。
「官兵衛、いかがした? 昨夜は一睡もしておらんのと違うか。顔が幽霊のようじゃ。有岡に戻ったような顔をしとるがや。」
「いえ…… いささか睡りました。ご心配には及びませぬ、筑前(秀吉)殿。ただ、次なる毛利をどう攻めるかを思案しておりました。」
秀吉は官兵衛の肩をポンポンと親しげに叩きながら、からからと笑った。
「あんまり根を詰めると、体に障るぞ。おみゃあに倒れられたら、わしの天下……いや、わしの軍略が立ち行かなくなるでな……。」
秀吉は『わしの天下』と言いかけて、慌てて言葉を飲み込んだ。だが官兵衛は、その失言さえも上の空で聞いていた。彼の頭の中では、秀吉の天下を現実にするための処刑台が、音を立てて組み立てられていた。
その夜、官兵衛は確信に達した。鉄砲玉は光秀、その火薬は斎藤利三、そして引き金は細川藤孝。
(事を成し遂げるまでは、後々残るような書状は送れぬ。だが、兵部大輔(細川)殿とならば連歌の隠語で会話が可能……。一見風流な歌の裏に、『魔王を討つ好機なり』との毒を潜ませる。兵部大輔(細川)殿ならば、その毒に気づいた上で、あえて口にするだろう。
(問題は、明智殿がしくじらずにやれるか、ということ……。案ずることはない。段取りの九分は、この官兵衛が裏で組み立てる。信長は、大きな戦が終われば必ず『茶の湯』を催す。京の寺あたりであろう。備中に来る前であれば火急の件でもない限り、中将(信忠)殿も一緒か……。もし親子が揃うなら絶好の機会……。その『隙』が生じる日を、わしは見逃しはせぬ。)
官兵衛の計算は冷徹であった。
信長が西国遠征のために安土を発ち、京のいずれかの寺に滞在する瞬間。そこを『檻』に変える。周囲の軍勢を引き剥がし、退路を断つ。光秀がその檻の前に現れるだけでよい状況を、官兵衛が『草(忍者)』を使って作り出すのだ。
そして、官兵衛の思考は決行後の『覇権奪取』へと移る。
(明智殿へは、兵部大輔(細川)殿を通じてこう伝えれば良い。――『三日月こそ、明智殿を謀反の道へと誘うための仕掛けであったと……。我ら羽柴の三万、必ずや援軍として駆け付けお主を守り、天下の座へ押し上げて見せよう』。追い詰められたあの男、その甘き誘いに乗らぬはずがなかろう。……そして、明智殿には気の毒なれど、がその手を血に染めた瞬間に、我らは『謀反の報せを聞き及んだ』として、備中から一気呵成に決行の地へと攻め上がる。)
明智殿には主君を殺めた大逆人として歴史の闇に消えてもらうしかない。恩ある主君の仇を討つ――これ以上の大義名分は、この日の本のどこにも転がっていない。
織田家中も、明智殿が謀叛を起こしたとて、あれだけ戒められていたからやむを得ず……という、言わば『怨恨』としか思わないほどたくさんの理由が既に揃っていた。
羽柴軍は三万、明智軍は多くて一万五千。数の上でも、正義という名の剣を振るう上でも、負ける道理は欠片もない。
(上様、貴殿は勝ちすぎた。勝ちすぎた男は、自ら墓穴を掘り、そこへ吸い込まれていくものにございます……。貴殿が滅ぼした数々の魂が、その足を引く時が来ましたぞ。)
官兵衛は、亡きだしが愛した連歌の懐紙をそっとなぞった。
その指先は、すでに冷酷な歴史の歯車そのものとなっていた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
官兵衛の知略は、もはや戦場の勝利を目指すものではなく、国家そのもののリセットを狙うレベルに達しています。
光秀を『鉄砲玉』に、利三を『火薬』に、そして知の巨人、細川藤孝を『引き金』に。
官兵衛という『指』が動く時、歴史は誰にも止められない速度で本能寺へと流れ込みます。




